先日、和歌山で殺人事件の被告人が、それまで事実を争わないかのような姿勢を示していたのに、公判初日の罪状認否で突然否認に転じたというニュースが報じられました。
刑事弁護をそれなりにかじってきた弁護士の多くは、あるあるあるあると、深くこの弁護士に同情したことと思います。
テラバヤシが修習生の頃、刑事裁判修習を受けていたときのことです。まだ、裁判員裁判は始まってない時代でした。
とある殺人の共犯事件を傍聴することになりました。
第1回公判の前、被告人全員が事実を争わない予定という連絡が裁判所には来ていました。
が、第1回の当日、被告人の1人が、殺意を突然否認しました。
その被告人を担当していた弁護士は、そのまま身動きが取れなくなってしまいました。
誰しも、この弁護士にとって、被告人の主張は、想定外だったのだろうと理解しました。
まだ実務をほんの少し覗き見したに過ぎない状態だったテラバヤシは、なんでこんな事態になってしまったのだろうと疑問に思うと同時に、まだベテランとは言い難そうだったその弁護士が固まっている姿を、なんと気の毒なことだろうと思って見つめておりました。
弁護士になって、まだそれほど経っていない頃のことです。
とある裁判員裁判を友人と担当しました。遂に週明けから裁判員裁判という土曜に、私たちは打ち合わせのために、拘置所で被告人と面会をしました。
裁判員裁判は、事件が起訴されてから公判開始に至るまでの間、一般の人が参加しても裁判がわかりやすいように、法曹三者で争点や証拠を整理する公判前整理手続というものを行います。
その中で、弁護人は、起訴状に書かれている事実に対する認否の予定や、その他主張することを予定している事実を明らかにします。
この事件は、被告人が当初から事実を争わない姿勢を見せており、私たち弁護人も、起訴状に書かれている罪について争わない予定であると、この時点ですでに裁判所や検察官に明らかにしておりました。
しかし、公判開始2日前の土曜日の打ち合わせで、突然被告人は、「その言い分は明らかに事実を争う内容だろう」という話を語り始めたのです。
私と友人はその場で一瞬固まりました。
そして、考えが変わったのか?本当は今まで話していたことは事実と違うのか?などとその人に尋ねました。ものすごく焦りました。
そうしたところ、その人は、ハッとした顔になり、今のは間違いです、すみませんでした、今まで話していたとおり、事実は争いません、などと繰り返し言い始めました。
いやしかし、それは間違いでしたとかそういう話ではないでしょう、いえいえ、本当に間違いです、すみません…などと発展性のに話が繰り返されました。
土曜日の拘置所の接見時間は原則として午前中と決められています。
時間が来てしまい、私たちは、中途半端なまま接見を終了せざるを得ませんでした。
とりあえず、認否は今のままでいいと被告人は言っている。
しかし、このままでは、公判開始までの2日の間に、被告人が再び逡巡し、公判開始直後の罪状認否で、「聞いてないんですけど!!」という事実を語り始めるのではないか…私と友人は、とても不安になりました。
もしそうなったら、裁判自体が空転する危険性もあります。
お昼ご飯を食べながら二人で話し合い、やはり、このままではいけない、拘置所にお願いして、午後からもう一度接見をさせてもらおうと決めました。
そして、二人して、土下座も辞さない覚悟で、再び拘置所に向かいました。
拘置所の前に着いてインターホン越しにもう一度接見させてほしいと頼むと、中から職員の人が出て来ました。二人して事情を説明したところ、20分ほど待たされ、1時間という制限付きで接見をすることができました。
私たちはもう一度話し合い、結局、当初の予定通り、事実を争わないという方針で裁判に望むことになりました。
それでも、実際裁判が始まるまではどうなるかわからないという不安はうっすら残っていました。が、幸い被告人は、私たちが聞いたことのない事実を突然語り始めることもなく、無事に罪状認否を乗り切り、公判を進めることができました。
この事件は、被告人にとって気の毒な事情もあった事件で、その点を裁判員や裁判官に理解してもらうことができ、結果も被告人にとっては良いものとなりました。
被告人の利益を図るという弁護人の使命を果たすことがなんとかでき、私たちもホッとしました(嬉しかったというより、ホッとしました)。
がしかし、彼の事件当時の内心の部分は、今でも謎のままです。
こんなことがあったので、和歌山の今回の事件は、私にとっては、まさに「明日は我が身」な事件でした。「昨日の私」という人も少なからずいる事件であることは間違いありません。
言い訳のように聞こえるかもしれませんが、私たちは、この被告人やその家族とまめに打ち合わせを行って、種々の手続に臨んでおりました。客観的に見て、コミュニケーションが不十分だったわけではないと自負しています。
しかし、人の内心を理解することは、たやすいことではないのです。
特に、常人ではとても考えられない事件を起こす人の内心というのは、卓越した心理学者でもない限り、理解できる範囲を超えていることがほとんどと言っても過言ではありません。
また、重大な事件を起こしている最中、起こしている人間は、とてつもない興奮状態に陥っていることが多いでしょうから、その時の心境を振り返ってみても、自分自身ですらよくわからない、記憶にないというのが本音ではないかと思います。
どういう気持ちだったのかと尋ねられた時にそれなりの答をしていても、それは、後になってその時の心境を推測したものにすぎないということが多いのではないか、と想像します。
さらに、実際に発生した結果が微妙であった場合、果たして自分はどんな気持ちでその事件を起こしたのだろうかと犯人自身が本気で悩むことも、実は結構あるのではないか、とも思えます。
例えば、「死ね」とか「殺してやる」とか言いながら刃物で切りつけたものの、被害者に与えた怪我が、体の中心部分から外れた部位に対する全治数日程度のものだった場合などは、そんな風に思うのではないかと思います(殺人未遂として立件される事件では、殺意が否認されるケースが少なくありませんし)。
だからこそ、刑事裁判においては、犯人の主観が成立する罪名に影響を及ぼす事件の場合、態様や生じた結果、それまでの経緯などなどから犯人の内心を法的に捉えて判断を行ったりもするのだろうと思います。
ちょっと話がずれましたが、刑事事件を担当する弁護士としては、「人の気持ちはわからない」、「逡巡して言い分が変わるのは当たり前」ということを忘れてはならないということなのでしょう。
そして、いつでも、「突然被告人は認否を変えるものだ」と覚悟して、裁判に臨むしかないのだろうと思います。
今回の和歌山の事件を担当する弁護人に、心からのエールを送りたいと思います、などとかっこいいことを言いつつ、今日は終わりにしたいと思います。