遺族の気持ちについて、考えてみる。

津久井やまゆり園の事件が起きて、ちょうど1年が経ちました。
ここ数日、事件に関連する報道がいくつか続いています。
例えば、裁判のめどが立っていないとか(これだけの事件なので、証拠や争点の整理にそれはそれは時間がかかっているものと思われます)。建て替え問題が迷走しているであるとか。

その中でも特に大きく報道されたのは、植松被告人が報道機関に対する書簡の中で、改めて「障がい者に対する差別」を述べたということでした。意思疎通が取れない障がい者は不幸しか生み出さない、安楽死させるべきだという信念(?)を彼が事件後も変わらずに持ち続けていることが、書面の一部の紹介とともに報じられました。
それとともに、犠牲になった入居者の遺族や、襲われたけれど亡くならなかった入居者の家族のインタビューもテレビやインターネットの記事でいくつか目にしました。

やまゆり園の事件の犠牲者、被害者の家族の皆さんの話で、テラバヤシがいつも感じるのは、被害を受けたことに対する感情(あるいはその表現の仕方、と言った方がいいかもしれません)が、他の事件の遺族、被害者家族の皆さんとは違う、ということです。

殺人事件や放火事件等々で命を奪われた被害者の遺族の人々は、単に「悲しい」というにとどまらず、犯人に対して「許せない」という言葉を使ってその感情を表すことがとても多いと思いますし、時には「殺してやりたい」「死刑にしてほしい」という報復感情をストレースに表す言葉を発する人もいます(ただ、刑事弁護に携わる者としては、犯人の命を奪いたいという趣旨の発言をする被害者家族の方は案外多くないという印象です)。
しかし、やまゆり園の被害者家族の皆さんのほとんどは、「許せない」という言葉を使いません。「殺してやりたい」「死刑にしてほしい」などと言っている人を、少なくとも私は見たことがありません(ひとりもいないなどと断定するわけではありませんが)。

ただただ、「悲しい」「生きている意味がない」などと、家族を失ったことや凄惨な事件の傷跡が被害者に残っていることについての感情を述べており、その表情もやりきれなさや打ちひしがれた様子が色濃く、怒りのようなものはあまり見受けられません。
報道する側が、報復感情が込められた言葉や怒りの表情を表に出すことをあえて回避しているというわけではないでしょう。
なぜなのだろうとしばらく考えていたのですが、ふと思いついたことがありました。

うまい表現が見つからないのですが、もしかすると、被害者の家族の皆さんにとって、やまゆり園の事件は「植松被告人という一人の男によって引き起こされた」ものではなく、「それまで受けてきた差別の果ての結果」なのではないでしょうか。
「障がい者を駆逐しようという極端な差別主義者の勢力」に、抵抗することもできずに、むざむざと駆逐されてしまった。
その実行者が植松被告人だったに過ぎない。そんな風にとらえているのではないかと思えるのです。

ネットを見ると、(愉快犯的な書き込みもあるとは思いますが)植松被告人の思想や今回の事件について支持する意見が多数あり、先ほど書いたような極端な差別思想の持ち主は、決してごくごく少数というわけではないように見受けられます。
障がい者本人やあるいはその家族の皆さん方の中で、差別的な対応や言動に接したことがないという人はおそらくほとんどいないでしょうし、こういう極端な差別思想の持ち主による嘲笑や脅迫的な嫌がらせにさらされてきた人も、傍観者である私たちが想像するよりはるかに多いのではないかと思います。
おそらくは、やまゆり園をはじめとする障がい者の入居施設にも、そういう連中による嫌がらせの電話やFAX、手紙が届いたり、園の外に入居者の皆さんが姿を見せたときには、直接嫌がらせを行うような人間もいるのではないかと思うのです(なかなか報じられないだけで)。
そういう差別思想を持つ連中がいて、隙あらば駆逐してやろうと考えていることを、家族の皆さんたちは日常的に感じていたように思うのです。

障がいのある人々も家族の皆さんも、そして施設の職員の人たちも、なかなかそういう連中の嫌がらせに対して毅然と対応することはできないのでしょう。嫌がらせがさらに大きくなり、その声が高くなってしまうかもしれないからです。抵抗せず、障がいのある子どもたちが、幸せに苦労少なく生活していけることを祈って、多くの皆さんは、日々暮らしてきたのだろうと思います。
やまゆり園では、職員も常駐しているし、みんな一緒に暮らしている。そういう「得体のしれない敵」がいたとしても、守ってもらえるという安心感を持っていたかもしれません。

しかし、安全なはずの園の中にいたにもかかわらず、いとも簡単に、何の抵抗もできないうちに、駆逐を狙う連中によって命を奪われてしまった。
植松被告人は、「差別思想の持主」の一人でしかありません。植松被告人の後ろには、同様の思想の持ち主がどれだけいるかわからないのです。
そういう絶望感や「これが終わりではないかもしれない」という恐怖心、そういう感情が、やまゆり園の被害者家族のみなさんの、他の被害者家族とは異なる言葉や表情に現れているように、テラバヤシには思われます。

数日前でしょうか。やはり、やまゆり園の事件関連の報道の中で、被害者の家族のおひとりが「こういう人間(植松被告人のこと)がいるということを、自分たちは覚えていなくてはいけない」などと話しているのを目にしました。
これがまさに、やまゆり園の事件の被害者家族の心情の一端なのではないかと思われるのです。

「生きている人間の命の価値は平等である。」
障がい者の差別問題が起きたときに、よく言われる言葉です。実際、障がい者の家族の皆さんは、介助や付き添い等で身体的精神的経済的に苦しい生活の中で、この言葉を一つの励みにされていることでしょう。
このブログでも何度か書いたことがありますが、私には幼いころ、自閉症と言われていた男の子の友達がいました。言葉は少ないけれど、いつも静かに私の隣にいてくれたその子は、当時の私にとって、一番大切な友達でした。
「生きている人間の命の価値は平等である」とは、きれいごとではなくて、まさにその通りの意味を持つ言葉であろうと思います。

しかし、皮肉なことに、だからこそ、大勢の抵抗できない人々の命を奪っていった植松被告人の命もまた平等であるということになります。
被害者家族の方の中には、そのことを突き付けられて苦しんでいる方もいるかもしれない、だからこそ、大きな声で彼を糾弾できないのかもしれない、そう思うとやりきれない気持ちになります。

裁判の結果、植松被告人に下される判決は、大方予想がつくところです。
判決が下されたとき、被害者の家族の皆さんはどんなことを感じるのでしょうか。
「植松被告人の後ろにある同じような連中」がいるとすれば、家族の皆さんにとって「終わり」はないのかもしれません。

差別のない、誰もが平穏に豊かに暮らせる社会はどうやったら作ることができるのでしょうか。
作ることは果たしてできるのでしょうか。
テラバヤシには、今の日本では、難しいように思われてなりません。








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Commented by 芋田治虫 at 2017-08-09 22:49 x
国民突撃隊やヒトラー・ユーゲントに罪はないし無罪であり
事実上被害者
ドイツのように「ナチスのやつらはみんな悪い」とか「少しでもナチスっぽいものもみんな悪い」というのは間違ってる
Commented by 芋田治虫 at 2017-08-09 22:58 x
ヒトラー・ユーゲントなどの少年兵を犯罪者扱いし敵視する奴らは小児性愛者より危険だ
なぜか
少年兵を敵視するということは虐待を受け傷つき死んでいった子どもを犯罪者扱いし敵視することだからだ
そういう奴らがどんなに控え目に言っても小児正愛車よりまともなんてことはあり得るはずがない
1人の障害者を助けるために19人の少年兵を殺すことや19人の障害者を助けるために1人の少年兵を殺すことは正義というやつは植松聖と同じとは言わないがそこらへんの犯罪者より危険なのは小学生でも解ることだ
Commented by 芋田治虫 at 2017-08-09 23:13 x
ナチスドイツより危険な国家の創りかた

特攻隊を「史上最悪のテロ集団」、ヒトラーユーゲントを「史上最悪の少年犯罪者達」 と子どもたちに教え
自国の軍隊に「子どもを殺すことは正義」と教え
ヒトラーユーゲントなどの少年兵や特攻隊に同情しただけで死刑にする法律がある国があれば
その国はどんなに控え目に言ってもナチスドイツよりも恐ろしい国だ
by terarinterarin | 2017-07-26 21:57 | Comments(3)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terarinterarin