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ここ数日、世界フィギュアスケート選手権にうつつを抜かしていました。

31から1日にかけての深夜は、仮眠をとってから女子フリーの生放送を見て、本日は、しっかり男子シングルのフリーを堪能しました。
毎年この季節の恒例行事です。
今年は、男子も女子も納得がいく結果で、非常にさわやかな気分で見終えることができました(注:北米大陸の世界選手権や冬季オリンピックでは、いわゆる「忖度」的なジャッジが横行しているといわれています。フィンランドの今大会はとても公平公正だったと感じます)。

テラバヤシは、伊藤みどり世代で、10代のころからフィギュアスケートに親しんでおりました。
元々フィギュアスケートを見るのは好きでした。

が、弁護士になってから、より好きになりました。
毎年10月頃グランプリシリーズが始まるあたりには、ドキドキしてきます。放送予定を確認しては、見たい選手が出る大会がある日を手帳につけたりするようになりました。
今年はついにアイスショーや冬季アジア大会で、自腹でスケートを堪能するようになりました(実は、「テレビが特等席」派だったのですが、やはり生は違うということに気が付きました)。
フィギュアスケートに対する愛は、年々深くなっているように自分でも思えます。

なぜ自分は、こんなにフィギュアが好きになったのだろうと、ふと考えました。

1つには、自分が弁護士になる少し前から、日本のフィギュア界が盛り上がり始めたということがあるように思います。
荒川静香さんがトリノで金メダルを取ったのは2006年のこと。ちょうど修習に入る年のことでした。
浅田真央ちゃんが銀メダル、高橋大輔さんが銅メダルを取ったバンクーバーオリンピックは2010年。
テラバヤシは法テラス愛知に赴任中で、名古屋で生活していました。
名古屋出身の有名選手を栄の繁華街で見つけたり、近所のスポーツジムで、真央ちゃんや安藤美姫さんの実家の話を聞いたりして、盛り上がる日本のフィギュアスケートをより身近に感じる環境がありました。
大きな国際大会で、日本人が一人も表彰台に乗れないということは、テラバヤシが弁護士になって以来ほぼほぼありませんでした。
そのうち、ごひいきの海外選手もできてきて、日本人がダメでも全然楽しめるようになりました。

しかし、それだけではありません。美しいものを見たいのです。

普段仕事で、人の裏の顔、Dvに虐待に、金のためならどんな嘘でもついてやる、みたいなドロドロぐちゃぐちゃばかり目にしています。
仕事とはいえ、場合によっては目の前に突き付けられたドロドロぐちゃぐちゃを見て、「ここまでありですか」なんていう絶望にも似た衝撃を覚えることも少なくありません。

同じ人間とは思えない美しい選手。美しい演技に美しい衣装。これらが「氷上」というピュアな舞台に集結するのを見ると、単純に心が洗われる思いがします。
フィギュアスケートを見ている間、普段のドロドロぐちゃぐちゃからは、離れることができます。
幸せな気持ちになれるのです。

案外、弁護士(特に女子)には、フィギュアスケート好きが多いように思います。
フィギュアスケートの話で盛り上がる方が何人もいますし、この度ヘルシンキに世界選手権を観に行った(ほぼ毎年行っておられるとのことですが)といううらやましいお方の話も聞いたことがありますし。
皆さんが、どういうきっかけでフィギュアスケートを好きになったのかはわかりませんが、「美しいものを見て現実を忘れたいの」という同業者が、一定数いるに違いないと確信しています。

フィギュアスケートは、ある選手にとっては戦いの場でもありました。
先日FBにも書いたけど、スルヤ・ボナリーというフランスの黒人選手は、自分が黒人だから正当に評価されないと訴えていました。採点方法が今と違う時代の話でしたが、表現力の評価がいつも低く抑えられていました。
アメリカのジョニー・ウィアーという選手は、LGBTの男性選手で、その演技は男子シングルの世界ではほとんど見ない「美」を強く意識したものでした。ウィアーが体現しようとしていた美は女性的なもの(というか耽美的な感じでしょうか)でしたが、やはり大きな大会になると、演技構成点が低く抑えられる傾向にありました。

フィギュアスケートは、「選手の全人格が出るスポーツ」と言われていて、選手が何にこだわっているのか、どういう人間なのかが垣間見えます。大きな大会になればなるほど、選手はある意味追い込まれるので、その分、選手の人となりや主義主張、想いが前面に出てきます。
最近でいうと、全日本選手権のフリーを終えた瞬間に下を向いて涙をこぼした宇野昌磨選手の姿なんかがあげられると思います。
差別と闘ってきたボナリーやウィアーについては、滑り続けることそのものが怒りの発現であり、主義主張だったといえると思います。

華やかで美しい舞台で、ふっとしたときに、選手の生々しさ、人間臭さがふっと湧き上がる瞬間があるのがたまらなく面白いのです。

結局自分は、美しいものを見たいと言いながら、人間のカオスな部分に惹かれる傾向にあるようです。
これってつまり、「疲れる」とか言っているドロドロぐちゃぐちゃが実際のところ嫌いではない、ということなんでしょうか。

だからといって、私にドロドロぐちゃぐちゃの事件を振らないでくださいね、同業の皆さん。


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by terarinterarin | 2017-04-02 02:08 | Comments(0)
昨日今日(2017年3月11、12日)と東京の3つの弁護士会で、米国の「スーパーロイヤー」を招聘して2日間の法廷技術研修を行いました。
米国は古くから一般の方々が、民事刑事の裁判(刑事だけではないのです)に参加する陪審制度が採用されています。
そこで、日本で唯一一般の方々が裁判に参加する裁判員裁判における弁護人の法廷技術を、歴史ある米国のスーパーロイヤー(つまり陪審裁判で大きな成果を上げている弁護士)に伝授していただこうとお呼びしたというわけです。

2日間の研修では、冒頭陳述、主尋問、反対尋問、最終弁論等々刑事裁判の各パートについて必要なテクニックを、受講者の実演とこれに対するスーパーロイヤーによる若干のコメントという形式で主に進めていきました。
これに付随して、ゲーム形式での訓練(ドリル、と呼びます)やパネルディスカッションなども行われました。

今回の研修の実施にあたっては、東京の3つの弁護士会からそれぞれ数名の弁護士が呼び集められてPTが作られ、段取りを立ててきました。
テラバヤシも末席ながら名を連ねておりました(とはいえ、関係各所との交渉等は他の弁護士にやっていただいておりました。せめてもの罪滅ぼしで、当日尋問のパートで証人役を務め、やっと帳尻を合わせた…という感じです)。

お招きするにあたり、PTでは、2日間のカリキュラムを作りました。
講師のスーパーロイヤーに何をやっていただくか、どのようなスケジュールで進行していくか、などなど詳細なカリキュラムを作り、当日を迎えました。

10日は午後から研修開始でした。午前中は、我々招聘側のスタッフとスーパーロイヤーで事前の打ち合わせを行いました(実際にお会いして打ち合わせができたのは、この時が初めてでした。当たり前の話ですが)。

こういうカリキュラムで進めたいということを具体的にお伝えできたのも、確かこの時が初めてでした(スーパーロイヤーなだけになかなかご連絡を取ることも難しく、やむを得ませんでした)。
そうしたところ、スーパーロイヤーの側から、ここはこうしたいという要望が次々に出てきました。

招聘側スタッフ、しばしびっくり。
予定になかったカリキュラムが加わることになり、受講者側にも予定外のことをしてもらうことが必要になりました。
備品を新たに用意しなければならなくなりました。
機器類の動かし方、人員の配置、変えなければならないところが結構出てきました。

えらいこっちゃ、と思いました。が、スタッフの中で「それはできない」という人は誰もいませんでした。
スタッフ側の弁護士とて、この研修についてズブの素人ではありません。日本の弁護士に対して同様の研修の講師をしている者ばかりでした。他に何を用意すれば良いか、どういう立ち位置でサポートすれば良いのかは十分に想像できました(わからなければきけばいいんだし)。

進行はスーパーロイヤーたちに丸投げでお任せして、必要なサポートをしよう。
そんな雰囲気になり、作ったカリキュラムの大半はなかったことにして、自由に進めてもらうことにしました。

スーパーロイヤーの進行は、私ごときがこんなことを言うのはなんですが、秀逸としか言いようがありませんでした。

大枠の時間は守ってくれました。
昨日の終わり時間は、午後8時。その時間ぴったりに終了しました。
外注に出していた通訳は本来午後5時までの約束でした。
通訳の残業はなんとか1時間に抑えてくれました。

11日は、東北の震災の日。地震が発生した時間が研修の時間中に迫ってきました。午後2時46分の地震発生時刻に合わせて黙祷する人もいるだろうという配慮で休憩を挟んでくれました。

ひとりひとりの実演に対するコメントも非常に丁寧です。
まず、最初に必ず、いいところを挙げて、褒めます。
その上で改善点を指摘します。具体的に自分たちが短時間の実演をしてみせます。
身振り手振りを交えて、実演した人だけでなく、傍聴に来た人みんなに語りかけます。
そして、実演担当の受講者だけでなく、傍聴に来た日本の弁護士も参加できるように、ドリルのコーナーでは、マイクをかなり後ろの席まで回していきました。

研修のための模擬の記録は徹底的に読み込んで来ており、わずかな休憩事件以外は、頭も体もフル活動でした。

かなりなチャージをお支払いしたんじゃないのか?だったら当たり前じゃん?などという方もいるかもしれません。が、弁護士会の行事となると、予算はかなり厳しく管理されます。
彼らが日常の業務で手にする報酬から考えるとただ同然のボランティアとも言えるものしかお支払いできておりません。
それでも、スーパーロイヤーは、一切手を抜きませんでした。

今回の研修で学んだことはたくさんありました。
法廷で用いる技術や、今後講師をして行く上で有効なスキルやネタ、段取り、気構え、美しい立ち居振る舞い、などなど。

しかし、一番感銘を受けたのは、やるからには、可能な限り最大限に、サービスの受け手にいいものを提供したい、妥協しないでやれるところまでやりたい、自分たちが正しいと思うものを少しずつでいいから広めていきたい、という彼らのスピリットの部分でした。

こういうスピリットは、時に一緒に仕事をやるスタッフに大きな負担を強いることになります。
そして、確かに突然の変更になって、現場のスタッフは、非常にあたふたしました。
しかし、結果が出てサービスの受け手(今回の件では研修の参加者)が満足し、有益な結果が残せたことで、あたふたしただけの甲斐があったと思えました。

自分は、弁護士になる前から、弁護士ををサービス業だと捉えていて(当たり前だろ!!とかつっこまれそうですが、古い弁護士の中には、こういう捉え方をすることに大きな抵抗感を覚える人もいるようです)、サービス業である限り、依頼者の利益を図ることにできる限りの努力をするのは当たり前だと考えていました。
しかし、実際に自分は、日々の業務の中で、できる限りの努力を本当にしているのか、と自問自答せざるを得ない状況になってしまいました。
ポリシーとしてやり続けていきたい活動もあるけれど、忙しいことを理由にとても熱心にできているとは言えません。そんな自分の不甲斐なさとも直面することとなりました。

2日間圧巻のパフォーマンスを見せてくれたスーパーロイヤーは、私に「弁護士として、あなたはそれでいいのか?」という根本的な問いかけを残して去っていきました。

今回の研修は、実演を担当する受講者だけではなく、様々なところから大勢の弁護士が傍聴に来ていました。
普段は刑事弁護に縁がない弁護士も多数訪れており、飽きることなく夜遅くまで、講義やパネルディスカッションを堪能していました(民事事件にも役立つスキルがたくさんありましたので)。
若い人ばかりではなく、大ベテランに当たる弁護士もたくさん参加していました。
スーパーロイヤーは、参加した弁護士ひとりひとりの胸になにがしか残していったことは間違いないでしょう。

日本の弁護士の世界は、やれ依頼者のお金の横領だの、やれ日弁連総会での委任状の変造騒ぎだの、世間の信頼を失うような話題に、ここ最近事欠きません。

そんな中でも、何かを求めて忙しい仕事の合間を縫ってたくさんの弁護士がスーパーロイヤーの研修に来たことを、喜ばしく感じた週末なのでありました。





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by terarinterarin | 2017-03-12 00:13 | Comments(1)
先日、和歌山で殺人事件の被告人が、それまで事実を争わないかのような姿勢を示していたのに、公判初日の罪状認否で突然否認に転じたというニュースが報じられました。
その日の午後には、元どおりに事実を争わないことにしたらしく、おそらく、ニュースに触れた皆さんの中には、

なんだこいつ、終わってんな
弁護士ちゃんと打ち合わせやってんのか

などと思われた方も少なくないと思います。

がしかし、このニュース、弁護士の多くは、さもありなんという気持ちで聞いていたことと思われます。
刑事弁護をそれなりにかじってきた弁護士の多くは、あるあるあるあると、深くこの弁護士に同情したことと思います。

テラバヤシが修習生の頃、刑事裁判修習を受けていたときのことです。まだ、裁判員裁判は始まってない時代でした。
とある殺人の共犯事件を傍聴することになりました。
第1回公判の前、被告人全員が事実を争わない予定という連絡が裁判所には来ていました。

が、第1回の当日、被告人の1人が、殺意を突然否認しました。
その被告人を担当していた弁護士は、そのまま身動きが取れなくなってしまいました。
誰しも、この弁護士にとって、被告人の主張は、想定外だったのだろうと理解しました。

まだ実務をほんの少し覗き見したに過ぎない状態だったテラバヤシは、なんでこんな事態になってしまったのだろうと疑問に思うと同時に、まだベテランとは言い難そうだったその弁護士が固まっている姿を、なんと気の毒なことだろうと思って見つめておりました。

弁護士になって、まだそれほど経っていない頃のことです。
とある裁判員裁判を友人と担当しました。遂に週明けから裁判員裁判という土曜に、私たちは打ち合わせのために、拘置所で被告人と面会をしました。

裁判員裁判は、事件が起訴されてから公判開始に至るまでの間、一般の人が参加しても裁判がわかりやすいように、法曹三者で争点や証拠を整理する公判前整理手続というものを行います。
その中で、弁護人は、起訴状に書かれている事実に対する認否の予定や、その他主張することを予定している事実を明らかにします。
この事件は、被告人が当初から事実を争わない姿勢を見せており、私たち弁護人も、起訴状に書かれている罪について争わない予定であると、この時点ですでに裁判所や検察官に明らかにしておりました。

しかし、公判開始2日前の土曜日の打ち合わせで、突然被告人は、「その言い分は明らかに事実を争う内容だろう」という話を語り始めたのです。

私と友人はその場で一瞬固まりました。
そして、考えが変わったのか?本当は今まで話していたことは事実と違うのか?などとその人に尋ねました。ものすごく焦りました。
そうしたところ、その人は、ハッとした顔になり、今のは間違いです、すみませんでした、今まで話していたとおり、事実は争いません、などと繰り返し言い始めました。
いやしかし、それは間違いでしたとかそういう話ではないでしょう、いえいえ、本当に間違いです、すみません…などと発展性のに話が繰り返されました。

土曜日の拘置所の接見時間は原則として午前中と決められています。
時間が来てしまい、私たちは、中途半端なまま接見を終了せざるを得ませんでした。

とりあえず、認否は今のままでいいと被告人は言っている。
しかし、このままでは、公判開始までの2日の間に、被告人が再び逡巡し、公判開始直後の罪状認否で、「聞いてないんですけど!!」という事実を語り始めるのではないか…私と友人は、とても不安になりました。
もしそうなったら、裁判自体が空転する危険性もあります。

お昼ご飯を食べながら二人で話し合い、やはり、このままではいけない、拘置所にお願いして、午後からもう一度接見をさせてもらおうと決めました。
そして、二人して、土下座も辞さない覚悟で、再び拘置所に向かいました。

拘置所の前に着いてインターホン越しにもう一度接見させてほしいと頼むと、中から職員の人が出て来ました。二人して事情を説明したところ、20分ほど待たされ、1時間という制限付きで接見をすることができました。

私たちはもう一度話し合い、結局、当初の予定通り、事実を争わないという方針で裁判に望むことになりました。

それでも、実際裁判が始まるまではどうなるかわからないという不安はうっすら残っていました。が、幸い被告人は、私たちが聞いたことのない事実を突然語り始めることもなく、無事に罪状認否を乗り切り、公判を進めることができました。

この事件は、被告人にとって気の毒な事情もあった事件で、その点を裁判員や裁判官に理解してもらうことができ、結果も被告人にとっては良いものとなりました。
被告人の利益を図るという弁護人の使命を果たすことがなんとかでき、私たちもホッとしました(嬉しかったというより、ホッとしました)。
がしかし、彼の事件当時の内心の部分は、今でも謎のままです。

こんなことがあったので、和歌山の今回の事件は、私にとっては、まさに「明日は我が身」な事件でした。「昨日の私」という人も少なからずいる事件であることは間違いありません。

言い訳のように聞こえるかもしれませんが、私たちは、この被告人やその家族とまめに打ち合わせを行って、種々の手続に臨んでおりました。客観的に見て、コミュニケーションが不十分だったわけではないと自負しています。

しかし、人の内心を理解することは、たやすいことではないのです。
特に、常人ではとても考えられない事件を起こす人の内心というのは、卓越した心理学者でもない限り、理解できる範囲を超えていることがほとんどと言っても過言ではありません。

また、重大な事件を起こしている最中、起こしている人間は、とてつもない興奮状態に陥っていることが多いでしょうから、その時の心境を振り返ってみても、自分自身ですらよくわからない、記憶にないというのが本音ではないかと思います。
どういう気持ちだったのかと尋ねられた時にそれなりの答をしていても、それは、後になってその時の心境を推測したものにすぎないということが多いのではないか、と想像します。

さらに、実際に発生した結果が微妙であった場合、果たして自分はどんな気持ちでその事件を起こしたのだろうかと犯人自身が本気で悩むことも、実は結構あるのではないか、とも思えます。
例えば、「死ね」とか「殺してやる」とか言いながら刃物で切りつけたものの、被害者に与えた怪我が、体の中心部分から外れた部位に対する全治数日程度のものだった場合などは、そんな風に思うのではないかと思います(殺人未遂として立件される事件では、殺意が否認されるケースが少なくありませんし)。

だからこそ、刑事裁判においては、犯人の主観が成立する罪名に影響を及ぼす事件の場合、態様や生じた結果、それまでの経緯などなどから犯人の内心を法的に捉えて判断を行ったりもするのだろうと思います。

ちょっと話がずれましたが、刑事事件を担当する弁護士としては、「人の気持ちはわからない」、「逡巡して言い分が変わるのは当たり前」ということを忘れてはならないということなのでしょう。

そして、いつでも、「突然被告人は認否を変えるものだ」と覚悟して、裁判に臨むしかないのだろうと思います。

今回の和歌山の事件を担当する弁護人に、心からのエールを送りたいと思います、などとかっこいいことを言いつつ、今日は終わりにしたいと思います。






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by terarinterarin | 2017-03-07 22:12 | Comments(2)
以前も書いたことがあるような気がしますが、テラバヤシはフィギュアスケートを見るのが大好きです。
この週末も、韓国で開催されているフィギュアスケートの四大陸選手権の放送を楽しんでおりました。

女子シングルでは三原舞依さんという初出場の日本人選手が初優勝を飾りました。
現在の日本のエース宮原知子さんを思い出すような(と言っては三原さんに失礼ですが)、生真面目な人柄と正確な技術。インタビューの受け答えも初々しく生真面目で、キス&クライでの振る舞いも愛らしく、今後彼女のファンがどんどん増えて行くんだろうな、彼女のことを嫌いというスケートファンはきっとあまりでてこないだろうな、と思わせる選手です(私も、非常にほほえましく拝見しておりました)。

その一方で、今回その力を全く発揮できなかった選手がいました。それがタイトルにも書いた樋口新葉さんです。
樋口さんは、まだ高校1年生。今シーズン、ジュニアからシニアに上がって世界レベルの大会にも続々出場。全日本選手権で2位になり、今回の四大陸選手権と3月の世界選手権の日本代表を勝ちとりました。
ジュニア時代からスピード感あふれる演技と難易度の高いジャンプを武器に国際大会で良い成績を収めており、シニアに上がった今年は、さらなる活躍が期待されていました。
宮原知子さんが故障で四大陸選手権を欠場することとなったあと、表彰台に上がることを期待されていたのは、ジュニア時代の成績や全日本の順位から考えて、三原さんではなくむしろ樋口さんだったでしょう。
しかし、ショートプログラムでもフリースケーティングでもミスを連発して、まさかの9位に沈んでしまいました。
フリースケーティングの後はキス&クライで人目もはばからず、号泣していました。

樋口さんは、宮原さんや三原さんとは対照的な選手です。
インタビューを受けても、ニコニコ受け答えすることはほとんどありません。
アナウンサーが、テレビ受けしそうなコメントを拾おうとかなり誘導的な質問をしても、空気を読んで気の利いたコメントを言うこともありません。今回も、アナウンサーがかなり誘導したのに、しばし沈思黙考した後、最低限のコメントしかせずにその場を去っていきました。

日本では、女子スケート選手(特に若い選手)で人気が出るのは、清潔感や可憐さ、愛らしさがある選手です。宮原さんも三原さんもそうですし、昨年世界ジュニア選手権を制した本田真凛さんは、「愛らしい」を体現したような選手です。日本人の多くが大好きな?浅田真央さんもそうでした。
しかし、樋口さんは、それに逆らうかのような大人っぽい色香の漂う演技をする選手です(シニアに上がってから、急にそのような演技になりました。ばっちり本人の雰囲気にはまっています)。メイクも、清潔感よりは色っぽさを強調するものです。

日本の女子フィギュアの歴史をさかのぼると、伊藤みどりさん、荒川静香さん、村主章枝さん、安藤美姫さんなどなどと個性的な選手が何人も思い浮かびます。しかし、最近は、小粒であまり個性が際立たない女子選手が多くてつまらないなと思っていました。樋口さんは、テラバヤシから見れば、久々に出てきた個性派です。

号泣している樋口さんの姿を見ながら、面白い人だな、頑張ってほしいな、と思いました。そして、ふと、考えました。
これって、我々の業界にも言えることなのかなあと。

テラバヤシの事務所は、おひとりさまのこじんまりしたところですから、修習生を迎え入れることは、今のところありません。
しかし、それでも業務上修習生と関わることはありますし、弁護士会の研修などで、新人の弁護士さんにお会いしてお話をさせていただくことも決して少なくありません。
最近の修習生や、新人の弁護士さん、皆さんまじめそうな感じに見えるのですが、爆発力というか、個性というか、「いっちょやったるで」というギラギラした感じを漂わす人に会ったことがないなあと思うのです。
「まじめで」とは書かず、あえて「まじめそうな感じに見える」と書いたのは、実務修習中の修習生なんかに会うと、場合によっては「別に興味ないけどカリキュラムとして必要だからやっている」感ありありの人なんかもいたりするし、新人弁護士の研修も同じで「会でやれって言われたから出ている」という態度がにじみ出ている人も少なくなかったりするからです。
決められたカリキュラムをこなしはするけれど、それさえすれば結末がある程度約束されていて、かつ他に力を注がなければいけないものがある(就職とか2回試験とか、ボスに与えられた仕事とか)のであれば、それ以上はやらない、みんなそうだしね、という「レールの上に乗って右ならえ」的な人ばっかりだよな、と感じるのです。

テラバヤシが弁護士になった10年前も、おそらく先輩弁護士から見れば、「小粒な奴が増えた」と思われていたのだろうと想像します。私が受かったのは、新司法試験元年。旧試験合格者と新試験合格者が初めて弁護士になった「弁護士業界大量流入時代」の幕開けともいえる時季でした。いい具合に希釈された薄味な人間が業界内に急に増えたと思った同業の先輩は、いっぱいおられたのであろうと思います。

しかし、それでも、少なくとも私の周りには、同期や少し上の先輩も含めて、「変な人(注:必ずしも悪い意味ではありません)」は結構な数存在しました。
特に法テラスの同期や1,2年上の先輩(特に1年上の先輩)の中には、社会人としてちょっとどうなのだろうと首をかしげるような言動の方も何人かはいたりして(いや、テラバヤシもそう思われていたのは百も承知で書いてますが)、スタッフ弁護士のメーリングリストは、そういう人たちの発言をめぐって大炎上することもしばしばありました。
もう、樋口新葉や安藤美姫なんてかわいいもんで、(かなり古いですが)トーニャ・ハーディングレベルの人がゴロゴロ?していたわけです。
メーリスの炎上が何かを生んでいたわけでは決してありませんが、あのころ、メーリングリストを炎上させていたスタッフ弁護士の何人かは、今や、自身のフィールドを確立し、大活躍しています(ここで固有名詞を挙げることは控えさせていただきたいと思います)。

弁護士の仕事は、決して社会常識にかなうものばかりではありません。一般の人から「ゲスい仕事している」と非難されることでも、しなければならないことは多々あります。
そういう仕事の中身を考えた場合、長いものに巻かれない(巻かれることができない)個性派が一定数いることは必要ですし、たくさんは必要ないと思うけれど、「ブチ切れた感覚」の持ち主もいなければならないと思うのです。

体を使った技術の極限と芸術の極限を追及していくフィギュアスケート界では、常人と違う感覚を持っていることが有効に働くことが多いといえましょう。レールの上に乗って右ならえ、では、決して、人の心や歴史に残るスケーターになることはできないのではないでしょうか。

かなり無理やりな感じもしますが、一般社会の感覚とは違った感覚で仕事をしなければならないことが多い弁護士の世界も、とても似ていると思います。個性派や異端が必要ですし、それを受け入れる空気が業界内にないといけないように思います(未だ失われはいないと思いますが)。

トーニャ・ハーディングになれ、とは言いません。
でも、修習生や新人の弁護士さんの中に、せめて樋口新葉さんくらいの人はいてほしいなと、思うのであります。




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by terarinterarin | 2017-02-20 01:46 | Comments(2)
行政官はゴルフをやる。司法の人間はテニスをやる。
こんな話を聞いたのは、私がまだ司法試験を受ける前に大学院に所属していたころの話だったでしょうか(つまり、随分古い話です)。

なんとなくそんなことを頭の片隅に置いたまま、司法試験に受かり、修習生になり、そして弁護士になりました。
「司法の人間はテニスをやる」なんて、弁護士になって10年目を迎える今日まで、全く実感したことがありません。

確か民事裁判修習で配属された部(札幌地裁)の部総括判事がテニスをおやりになっていたと思いますが、その部でテニスをやっていたのはその人だけ。刑事裁判修習の配属部では、部長も右陪席も左陪席もテニスには全く縁がありませんでした。右陪席はコンサドーレ札幌の熱心なサポーターであり(試合がある日はそそくさとお帰りになっていました)、左陪席は野球人でありました。
検察修習の際にお会いした検察官は、どなたもスポーツとは程遠い感じの方ばかりでした(どちらかというと「呑む」というイメージです。なお、主観ですので問題発言扱いはしないでください)。

弁護士になった後は、なかなか裁判官や検察官とプライベートの話をすることもなくなりましたが、それでも数人の方とは、ざっくばらんにお話しする機会がありました。
が、やはり「テニス」をやっているという方はどなたもいらっしゃいません。
かの有名な岡口裁判官は、SNSで拝見する限り、筋トレ、そして水泳と、テニスとは全く縁がなさそうにお見受けされます。
知り合いの検察官にも、やはりスポーツのイメージは一個もありません。

弁護士の知り合いの中では、ひとり、東京ディフェンダー法律事務所のY弁護士がテニス男子ですが、「趣味でテニスを楽しんでいます」という爽やかさはみじんもなく、ガチすぎてむしろ怖いくらいです。「司法の人間はテニス」という言葉の趣旨とは全く違うレベルにいるように感じられます。

Y弁護士はさておくとして、弁護士がやるレジャー、スポーツというと、みなさんやはり「ゴルフ」を思い浮かべるのでしょうか。
弁護士というと、依頼者にたっかい報酬を支払わせ、それで豊かな私生活を送っている…というイメージとともに「弁護士=ゴルフ」とワンセットでお持ちの方が、今でもたくさんいらっしゃるのでしょうか。

「弁護士はゴルフをやる」というのは、今は昔のお話、というのが個人的な感覚です。
正しく言えば、ある一定の年齢層の弁護士は、今でもゴルフをある程度おやりになっているように見受けられます。
テラバヤシが所属している東京弁護士会内の派閥のメーリングリストでも、ゴルフの大会や親睦の告知が年に数回はありますので。
が、少なくとも50期代の後半(経験14,5年以下)のゴルフ人口は、激減しているといっても過言ではない、と思います。
多くの弁護士会には野球チームやサッカーチームがあり、大会も開催されています。
そのチームに所属している弁護士の知り合いが結構います。
サッカー、野球以外では、マラソン、そして、目的はよくわからないけれど、やたらめったら鍛えている人(愛知県弁護士会所属で事務所に筋トレのマシンがあるという噂の方もいます。)…個人でスポーツを楽しむ類の人が多いように思います。

ゴルフをよくおやりになる世代というのは、バブル期にすでに弁護士だった方ではないのでしょうか。
このころは弁護士人口も少なかったし、仕事もたくさんあり、たいていの弁護士は儲けていたのでしょう。
人は、もしかするとお金を持つとゴルフをやりたくなるのかもしれません。
グリーンに出るところまで想定すると、ゴルフは、スポーツの中でもかなりの資金を要するものでしょう。
弁護士のステイタスのひとつがゴルフ、だったのだと思います。
顧問先からの接待でゴルフ、というのもあったんでしょうし(縁のない時代の話なので、想像想像)。

しかし、法曹人口が司法改革とともに激増し、そのしわ寄せがドドンと弁護士業界に押し寄せ、今や私たちの業界はパイの奪い合いの状態です。
常に大儲けの弁護士なんてほんの一握りであり、「まあまあ余裕がある生活」を送れるのであれば、弁護士としてはまあまあ成功しているという時代になりました。
また、Jリーグができて日本の社会に定着し、日本人も普通にサッカーに親しむようになったり、一般人がフルマラソンに気軽に挑戦するようになったり、普通の人が触れるスポーツの種類が増えてきたという事情もあるでしょう。
ストレスを解消したり、健康維持するにあたり、別にゴルフみたいにお金かけなくてもできるものがたくさんあるし、ゴルフなんてそもそも興味ないし…という人間が、我が業界の中に普通に増えてきたのだと思います。
顧問先でゴルフ接待できるほど資金があるところも、もうほとんどないのでしょう。

ゴルフというのは、一緒にラウンドを回る人との親睦を深めるのにちょうどよいレジャーのようで、かつて弁護士業界でゴルフをする人が多かったのは、このあたりの事情に負うところも多いのかな、と思います。情報収集の意味もあったのかもしれません。
そういう意味では、ゴルフはその役割を、SNSなどにとられることになってしまった、ともいえるように思います。

ちなみに、テラバヤシは、ゴルフは全くやりません。
やろうとも思いません。
虫が苦手だし、お日様が照るなか、日がな一日表にいるなんて、お肌に悪そうです。
天気の悪い日に一日中外にいるのはもっと嫌です。
なにより、前にも書いた通り、そもそもが協調性がない性格なわけですから、休みの日にまで半分仕事みたいな感覚で、他人と一緒に長時間ラウンドを回るなんて、まっぴらごめんというのが本音です。

テラバヤシは、自宅で毎日ちょこちょこ鍛えるのが好きです。
腹筋、背筋、腕立て伏せ、スクワットに腿上げを毎日日課としております。半年前からはラジオ体操が、2か月前からはエア縄跳びがこれに加わりました。
そして、年明けからは友人と二人、たまにボルダリングを楽しんでいます。

そういえば、ボルダリングは、親睦を深めるにはいいスポーツです。
ひっきりなしに登っているわけではなく、休憩しながらマイペースで登るので、話をする時間がたくさんあります。
運動量もゴルフよりははるかにあるし、健康維持と親睦を両立するには、もってこいではないかと思います。



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by terarinterarin | 2017-02-16 22:30 | Comments(0)
稀勢の里が久しぶりの「日本出身横綱」になりました。
確かに日本出身大関勢の戦いぶりは、しばらくの間物足りないことが多かったですし、相撲は日本の国技。
久しぶりの「日本出身横綱」の誕生が歓迎されること自体は、避けられないことだし、当然のことだと思います。

しかし、明治神宮にびっくりするくらいの人が集まったり、ワイドショーで連日取り上げたりというばか騒ぎぶりを見て、テラバヤシはちょっと嫌な気持ちになりました。

大鵬が持っていた優勝回数の記録を白鵬が超えた時にも感じたことですが、本当は、日本人は、外国出身の関取が日本相撲界で活躍することを快く思っていないのです。いや、正しく言えば、ある程度強くて相撲界を盛り上げてくれること自体は歓迎しているのでしょうが、横綱や大関という頂点の番付に君臨して日本人の上に立っていることを苦々しく思っている人、潜在的に快く感じていない人が思いのほか多いのではないでしょうか。
今回の稀勢の里フィーバーに、私は、「日本人が持つ潜在的な差別意識」を強く感じたのでした(稀勢の里もとんだ重荷を背負ったものだと思います)。

日本では近年在日朝鮮人に対する「ヘイトスピーチ」が繰り返されており、そのような活動を支持する声も存在しています。最近は、日韓合意に反する形で設置された慰安婦像をめぐって日本と韓国の関係はまた冷えたものになりましたし、北朝鮮との関係では、拉致問題について解決の糸口すらありません。
そんな国際関係の問題がお門違いな形で在日朝鮮人に対する嫌がらせや憎悪、ヘイトスピーチの許容につながるようにも思えます。

思えば、戦後の復興期、日本全体が熱狂したプロレスの大スター力道山は、在日朝鮮人でした。
アメリカのプロレス界で「卑劣なジャップ」というキャッチコピーで活躍したグレート東郷というプロレスラーは、その出自が謎に包まれていますが、在日朝鮮人だったとか在日中国人だったという噂が根強く残っています。
アメリカプロレス界から日本にレスラーを招聘したり、アメリカのプロレス界に日本人プロレスラーを送りこんだりして、戦後の日本のプロレス界を盛り上げ、引っ張っていった立役者の二人が、在日朝鮮人の力道山と「生粋の日本人ではなかったのかもしれない」グレート東郷だったのです。

現在の日本の相撲界と非常によく似た構造だったと言えるのかもしれません。
思えば、白鵬がその記録を抜いた大鵬だって、ウクライナ人とのハーフでした。高見山や小錦、曙というハワイ出身力士が日本相撲界の人気を支えていた時代もありました。
なにもプロレスや相撲などの格闘技の世界に限った話ではありません。
私がいる弁護士の業界には、在日朝鮮人や中国人で目を見張るような活躍をしている方が何人もいますし(今回この記事を書くまで、わざわざ思い至ることすらなかったほどです)、少なくとも都市部の飲食店や小売店では、日本出身ではない方々が普通に働いています。

「日本の社会は生粋の日本人のもの」という考えや潜在意識は、根拠なんて全くない空虚なものとしか言いようがありません。

アメリカでは、新しく大統領になったドナルド・トランプが「不法移民の取り締まり」の名目で、メキシコとの国境に壁を作ると言いだしたり、「テロリストの入国を防ぐ」という名目で、中東7か国からの渡航者の入国を規制しようとしました。
確かにお題目自体は正当なもののように思えますが、その芯の部分にある思想は「メキシコ人や中東の人間をアメリカ国外から排除したい」という排外主義にあることはまず間違いありません。

日本では、このトランプの政策は否定的にとらえられており、これに賛同する論調の意見は今のところ目につきません。トランプと仲良くしようとする安倍首相に対して懐疑的な視線が寄せられてもいます。
そして、その否定的な論調の中心は「アメリカは移民の国で、そんなことしたら自国の成り立ちを否定することになるではないか」というものです。
この見方の根底には「アメリカは日本とは違う移民の国」という考えが潜んでいるといえるでしょう。

しかし、ほんとうにそうなんでしょうか?

そもそも、人類の歴史は「移動の歴史」といえます。
アジア人と言えば、日本や韓国、中国等々のいわゆる「アジア諸国」に住んでいる人というイメージがありますが、フィンランドやハンガリー、ロシアにもアジア系の住民は暮らしています。
遠い昔には、中国や朝鮮から日本に渡ってきた「渡来人」と呼ばれる人たちがいました。
テラバヤシの故郷は札幌ですが、今思い返してみると、名前は日本風の苗字と名前ではあったものの、顔立ちから想像してスラブ系のご先祖様が近いところにいるのかもしれないという人が何人かクラスにいました。
「内地の人」に侵略された北海道原住のアイヌの人々も、同じ地域で暮らしていました。

そう考えてみると、日本とアメリカの「移民性」の違いなんて五十歩百歩、大した違いなんかありません。
日本人の多くが想定している「生粋の日本人」「日本出身の日本人」の概念なんて、先ほども書いた通り、実に空虚なもので、トランプが頭の中でこしらえている「アメリカ人」と同じようなものでしかないのだろうと思います。あえて定義するとすれば「支配層の政策によって同化された人種・民族に属する人々」ということにしかならないように思えます

つまり、何が言いたいかというと「稀勢の里万歳」とか騒いでる「日本人」は、実は気が付かないだけで排外主義的な思想に染まっていて、その根っこはトランプやトランプの政策を支持している人々と似たり寄ったりなんではないかということです。
私たち、冷ややかな目でトランプやトランプ支持者を眺めていますが、実は、「日本人くさくない人」に対して、同じような視線を向けているんじゃないでしょうか。

先ほど、今思えば子どものころスラブ系のハーフやクオーターと思しき人がちらほらクラスにいたという話をしましたが、その人たちが自分たちの出自について自ら打ち明けるようなことはありませんでした。
何人か思い当るその人たちは、偶然かもしれないけれど皆おとなしく目立たない人たちでした。
もしかすると、出自がばれた時の差別を恐れていたのかもしれないと、今になって過大に妄想を膨らませてしまいます。

自分の母方の祖母は、輪郭と言い顔立ちと言い、アジア人離れしています(全く私の顔には反映されていませんが)。
祖母の両親は、祖母が幼いころに二人とも早世しており、祖母自体が両親の出自を聞くことはなかったようです。
うちは大した家柄でもないので家系図もありません。もしかしたら改製原戸籍とか丁寧に追っていけば、何かわかることがあるのかもしれないけれど、それで何か知ることがあったとしても、自分の今の生活が変わるわけでもありません。何より面倒です。

自分はこんなことは馬鹿らしいと思っているけれど、世の中にはそうではない人が大勢いるようです。
生産的じゃないと思うのは、私だけでしょうか。








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by terarinterarin | 2017-02-05 21:49 | Comments(4)
AV出演を拒否した女性に対する事務所側の損害賠償請求を代理した男性弁護士が日弁連により懲戒審査相当と判断されたというニュースが、我々弁護士の間で、物議を醸しています。

ニュースのURLはこちら。
http://www.sankei.com/affairs/news/170119/afr1701190001-n1.html

弁護士に対する懲戒請求は誰でもすることができます。今回の件も事件とは関係のない一般の男性が行ったようですが、全く無関係な誰かによる懲戒請求も認められるのです。

懲戒請求があると、まずは、請求された弁護士が属する弁護士会の綱紀委員会というところが、懲戒の審査をするのが相当かどうかを判断します。この決定に対しては、日弁連に不服を申し立てることができます。
弁護士会や日弁連の綱紀委員会で懲戒審査相当という判断をすると、今度は、その弁護士会の懲戒委員会というところが、懲戒すべきかどうか、懲戒するとしてどの程度の処分にすべきかを決めることになります。この決定に対しても日弁連に不服を申し立てることができます。

今回の件は、一度、第二東京弁護士会の綱紀委員会が懲戒審査不相当という決定を出したことについて、懲戒請求した男性が日弁連に不服申立をしたところ、日弁連が判断を覆したとのことです。

このニュースを額面通りに受け取ると、弁護士は依頼を受けて、その依頼に沿って訴訟提起をしたことによって、同業者の団体により「あいつは罰するべきだ」と判断されたことになります。
もしそうだとすると、その判断は、弁護士自身が自分たちのクビを締めることになってしまいます。

依頼者が弁護士に対して本当のことを話さないということもあり得ます。
実は結構あります。
裁判してみて、相手方から出てきた(致命的な)証拠を見て、「え、聞いてない」ということもあります。

不利な点も含めて事情を説明してもらった結果、訴訟を起こしたのだとしても、その請求が「不当請求」と考えざるを得ないかどうかについての判断は、実際には難しいことも少なくありません。

この男性弁護士が、依頼者から、女性がAV出演を拒否した際に違約金を支払えと言った話を聞いていたとしても、もしかすると女性と依頼者の間の契約書にAV出演を前提とする条項等があった可能性もあるわけですし、そうではなくても、弁護士から見て、請求が認められないほどの脅迫行為があったとは判断しないだけの事情があったということも、状況によっては十分にありうるのです。

つまり、何が言いたいかというと、訴訟なんてものは、やってみないと、反対当事者からどんな反論が出てくるかわからないし、裁判所の判断は、「結果論」でしかない場合が往々にしてある、ということです。

日弁連の判断が仮にニュースに書かれている通りの内容なのだとしたら、少しでも不当な請求との認定を受けそうな事件を、弁護士は一切受任できなくなってしまいます。
しかも、さっきも書いた通り、裁判所の判断は結果論でしかない場合が往往にしてあるのですから、「不当請求って言われるかも」という反応が過剰に行われてしまい、弁護士が、「余裕で勝てる案件」しか受任しなくなるなんてことにもなりかねません。
市民に対する司法サービスが著しく低下する事態を招く現実的な危険性があります。

それだけではありません。
これは、FBで私の元兄弁が書いていたことですが、「刑事弁護」というものが一切できなくなってしまいます。
無罪を主張したり、もっと軽い罪だと主張したりしても、裁判所が「結果として」有罪、あるいは検察官が主張する通りの重い罪だと認定した場合には、弁護人が懲戒されうることになります。
ついでに言うと、例えば離婚訴訟を起こした側について、判決で「結果として」不貞などの有責性が認められ、請求が棄却された場合にも、代理人は懲戒されうることとなってしまいます。
刑事事件も離婚事件も、怖くて誰も受けられなくなってしまいます。

確かに、弁護士法の1条には、「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」と定められています。
当たり前のように併記されていますが、「基本的人権の擁護」と「社会正義の実現」は時として相反するものです。
死刑求刑が予想されるような残忍な事件の弁護活動などは、まさにその最たるものでしょう。

さらに弁護士法3条には、弁護士の職務として、「当事者その他関係人の依頼…によって、訴訟事件…その他一般の法律事務を行うことを職務とする」と定められています。これは、弁護士の職務が「個」の利益の実現を図ることを定めているといえましょう。
これも「社会正義の実現」とは時として相反するものになります。

つまり、弁護士は、「個の利益の実現」と「社会正義の実現」という相反する利益を追求するという矛盾した責務をそもそも負っている職業ということになるわけです。

検察官は法的に「公益の実現者」であることが求められ、裁判所は中立公正を堅持しなければならないとされています。
法曹の中で「個」を守りなさいと言われているのは、唯一弁護士だけなのです。

その弁護士が、純然と個の利益を図ろうとした結果、「社会正義」の名のもとに、それが悪いとそしりを受けてペナルティを科されるとなると、「全体の中の個」を守ることを法的に保障される立場の存在が、日本社会から消されてしまうことになります。
仮に、日弁連の今回の決定が報じられている通りなのだとすれば、日弁連は、自分たちの職責を放棄せよと言っていることになるのです。

そんなアホなことがあっては、たまりません。

よく「盗人にも三分の理」という言葉があります。
盗人の三分の理が何なのかを考えて、それを主張するのが、弁護士の仕事なのです。
それがたとえ、裁判所に受け入れられなくても、検察官にせせら笑われても、弁護士はそれをしなくてはならないのです。

ニュースには、必ず裏側があると私は思っています。
今回の件だって、きっときっと、表面の部分だけをなぞって報じた結果、あんな書かれ方になったに違いない、そう思っています。
いくら「個の利益」を守ることが職責だとしても、「品性」失ってはいけないのであって(弁護士法2条参照)、例えば、明らかに不当な高額要求をしていたり、女性について事実に基づかない誹謗中傷を裁判中に繰り返したりなどということがあって、今回の逆転「懲戒審査相当」になったのだとすれば、理解できます。

しかし、そんな事情すらなかったのだとすれば、今回の日弁連綱紀委員会の「懲戒審査相当」判断は、はなはだ疑問としか言いようがないのです。

*追記*2017.1.20
表現に不適切な個所がありましたので、本日修正いたしました。







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by terarinterarin | 2017-01-19 18:14 | Comments(3)
皆様、あけましておめでとうございます。
明日も休んでしまうテラバヤシです。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

年末年始は、独り身のこともあって、毎年帰省しております。
帰省すると、いつもは、何人かの友人知人らに連絡をしてランチをしたりのみに行ったりしますが、今回は、ほとんどそういうことをしませんでした。
「人に会って気を遣う」ことをしない過ごし方をしたかったわけです。

弁護士というと、「人」や「人に会うこと」に対するストレスや苦手意識がない人、あるいはむしろ得意とする人の集団であるというイメージを持つ人が多いと思いますが、実際のところ、必ずしもそうではありません。
そういうことが苦手な人が、実際のところは大勢いるようです。

まず自分の話をしますと、(前にも何度か書いた気がしますが)テラバヤシはもともと結構な人見知りです。
白状すると、「中途半端な知り合い」が自分の少し前を歩いていたり、同じ地下鉄の車両に乗っていたりすると、歩くスピードを落としたり、道を変えたり、その辺の店に入ったり、車両を変えたりします。

学生時代に家庭教師やら塾の先生やら予備校講師やらをするようになって、後天的に、社会生活を送るために必要な程度までは克服し、周囲の人からは、一見人見知りとは程遠い人間に見られるようになりました。
が、実際のところは今でもこんな体たらく。
自分の方から、発見してしまった「中途半端な知り合い」に声をかけることは、100回に1回あるかどうかです(正面からいらっしゃった方には、脊髄反射で、ニコニコご挨拶します)。

もちろん、他人と会話することが常にストレスになっているわけではなく、仕事で初めてお会いする方とお話しすることは全く平気ですし、「本当に仲が良い」「本当に気心が知れている」と自分が認識している人と会ったり、一緒にご飯を食べたりすることは、楽しいです。苦になることはありません。
が、プライベートで「本当に仲が良い」「本当に気心が知れている」と思える人の範囲が非常に狭く、かつ、その範囲に収まらない人と仕事を離れて一緒に時間を過ごすということになると、ある程度、あるいは相当程度の気合を入れる必要が生じてしまうのです。

大勢が集う飲み会というのも苦手意識が強いイベントのひとつです。
これも常に全ての飲み会がダメというわけではなく、「立ち入った話」をしないで済む、完ぺきに「仕事上の行事のひとつ」と割り切れる飲み会であれば、苦も無く出席できるのですが、中途半端に「立ち入った話」が生じてしまったり、見たくもない醜態がさらされがちな「仕事上の行事」とは言い切れない飲み会になると、お断りできない場合には、相当な覚悟を持って臨むこととなってしまいます。

こういう大勢の飲み会に行くと、気が利いた行動を何ひとつとることができないのがテラバヤシの特徴です。
頃合いを見計らって席を移る人。
ビール瓶や徳利をもって、上下の別なく話をしに行く人。
「写真撮りましょう!!」と声をかける人。
そういう人たちを見ると、「すごいなあ」、「えらいなあ、気が利いて」、「出世するのはこういう人なんだべなあ」などと感心します。
どれひとつとして実行できることがありません。

そして、こういう飲み会から帰る道すがら、気が利くすごい人たちの姿を思い浮かべながら、「やはり自分には社会性がないのだ」「協調性ってものがないのだ」などと落ち込むことがお約束になっていました。

しかし、そんな「社交性のない」ダメ人間?は、ワタシだけではないと思わせてくれる出来事が昨年ありました。
昨年の秋、とある偉い先生のとある記念日を祝うパーティが開かれた時のことでした。
とてもとてもとてもお世話になっていた先生のパーティへのご招待でしたので、テラバヤシはそれなりに張り切って出席しました。
もちろん規模が大きかったため、ある程度の気合を入れての出席となったことは白状しなければなりませんが…

そのパーティは特に席が決まっていない立食のパーティでした。
私がついたテーブルには、弁護士になってわりに間もないころからよく知っている弁護士が集いました。
気心が知れていたり、なんとなく波長が合うと感じている人たちばかりで、とても居心地が良いテーブルでした。

そのテーブルのメンバーは、パーティの2時間ほどのうち、都合1時間半は、ほとんど誰もそこから動こうとしませんでした。
ほぼ全員が同じテーブルを囲んで、酒を飲みつつ、料理を食べつつ、そのテーブルにいるメンバー同士で話をしていました。
カメラを持って、せっかくだから写真を撮ろうと何人もの人が行きかうのをしり目に、「ああいう人たちはえらいなあ」、「自分たち、ここでいいよね」などとつぶやきながら、その場にステイしていたのです。

同じテーブルにいた人たちの名誉のために言いますが、問題がある弁護士は誰一人としていません。
皆、会務活動では積極的に発言し、地元の単位会で重要な役割を担い、そして刑事事件で無罪判決を得るような優秀な弁護士たちばかりです。
そういう面々が、実際のところは、社交性の皮をかぶった「隠れ人見知りちゃん」だったことがわかったのです。

ワタシだけじゃないのかあ。
自分のことをいたずらに「ダメ人間」だと思う必要はないのかもしれない。

とても安堵しました。

考えてみれば、弁護士を目指す人間の中には、「会社勤めは自分は無理、いや」という動機から出発する人間も少なくなく(私も目指した理由の2番目か3番目はそうですが)、そうすると、その中には「人見知り」「団体行動が苦手」という人も結構な割合で含まれているはずなのです。
皮肉なことに、企業法務であれマチ弁であれ、弁護士は人と会って人から話を聞いてコミュニケーションをとるのが仕事。
そういう本来の属性からは得意ではないことを職業的に繰り返していくうちに、後天的に仕事をするうえで必要な程度に、「苦手な人付き合い」が克服されてきた人が、案外大勢いるような気がします。

日本の社会では、苦手を克服することが良しとされる風潮が強いように思えますが、テラバヤシは、この点に関しては開き直っていこうと思います。
2017年は、よりわがままに無理をしない生活を心がけていくのが目標です。





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by terarinterarin | 2017-01-03 18:41 | Comments(0)
先日の投稿で年内終わりの予定でした。

しかし、今年を閉めようと思った時、ひとつ気になることが出てきてしまいました。

このブログが法テラスネタで注目されてから、「弁護士として生活していく中で思ったよしなしごと」を書こうという初心をやや忘れ、社会的な出来事ばかりについて書くようになってしまいました。
無意識のうちに「取り上げられたい」「いいね!いっぱいほしい」などというあさましい気持ちが芽生えていたのです。

お陰様で?BLOGOSのブロガーにもしてもらい、投稿が転載されるようになりました(コメントは罵詈雑言が多そうだと思って怖くて見ていませんが)。

弁護士10年目を過ぎた2016年の年の瀬、初心に戻って、何の示唆もない話を投稿して終わろうと思うに至りました。そうしなければ、なんだか悔いが残りそうだと。

そこで、今日はくだらない話を書くことにしました。

弁護士にとってスケジュール帳は、なくてはならない必須アイテムのひとつです。
訴訟や調停の期日、打ち合わせや相談の期日をすっぽかすわけにはいかないですし、何か月も先のスケジュールを押さえなければならないこともあります(テラバヤシは、つい最近2017年9月のスケジュールが押さえられてしまいました)。
そんなことを覚えていることは不可能ですし、埋まったスケジュールの隙間にさらにスケジュールを入れなければならないこともあります。手帳とにらめっこする必要があります。
家族や恋人よりも一緒にいる時間が長い、スケジュール帳は、弁護士にとって、そんな存在です。

最近では、スマホのスケジュール機能やグーグルカレンダーでスケジュール管理をしている弁護士も結構いるようですが、テラバヤシは手帳派です(大きな事務所ではグーグルカレンダーで弁護士のスケジュール管理をしているところも少なくないようです)。
以前、スケジュールから友人知人の連絡先からデータ化して管理していた友人が、それらをすべて誤って消去してしまうという大惨事を見たことがあるからです。

さて、弁護士が持つスケジュール帳と言えば、「訟廷日誌」という分厚い黒い手帳と「弁護士日誌」という薄手の毎年表紙の色が変わる手帳があります。
前者は有料で値段は2000円弱。後者は無料で、毎年確か11月くらいに無料で配布してくれていました(東京限定かもしれませんが)。
毎日のスケジュールを記載する欄が市販の手帳よりもかなりたくさんあること、翌年のスケジュール記載欄も3月末までの分は設けられていること、前年と翌年のカレンダーがついていることなどが特徴です。一冊にまとまっているか分冊されているかは別として、訴訟の手数料等など業務上必要な情報についても手帳化されて一緒に配布されることもまた、大きな特徴でした。

テラバヤシは、5年ほど前に一度だけ訟廷日誌を買ったことがありましたが、分厚くて使いにくいと感じたため、その後は無料配布される弁護士日誌の方を愛用しておりました。
そして、翌年3月の分までスケジュールが記載できるのをよいことに、毎年年末ぎりぎりになるまで、スケジュール帳の書き換えを行っておりませんでした。

12月も半ばを過ぎたころ、ハタと気づきました。
そういえば今年は、2017年の弁護士日誌が送られてきていないことに。

しかし、ちょうどそのころ、民事裁判の期日でお会いした相手方の代理人の手元には、ブルー系の2017年のものと思しき弁護士日誌があるのを見ておりました。

なぜだ。
なぜ私のところにはないのだ。
その話を私の友人にしたところ、その友人のところにも弁護士日誌が来ていないことがわかりました。
なぜだ、なぜだとふたりしてひとしきり話していましたが、ある日、その友人がとある情報を仕入れました。

2017年の弁護士日誌から有料になった。
値段は1000円である。

そういわれてみれば、何か月か前に弁護士協同組合から冊子が届いた際に、そんなことを書いている紙が入っていたような記憶が、どことなーく蘇りました。
もしかすると、ネット販売などで入手することも可能だったのかもしれませんが、帰省の予定であるとか諸々考えて、今年は弁護士日誌の入手をあきらめ、市販のものを購入することにしました。

で、書店に行って手帳を買おうとしたのですが、弁護士日誌に慣れていた身からすると、どれもこれも使いにくいものばかり。
まず、時間の流れが左から右に向かって区切られているものは(ことのほかこのタイプが多い)、我々の職業からすると、その時間に予定されている用件をスペース的に書けないため、完璧にアウト。おそらく、ビジネスマンなんかを念頭に置くと「会議」とか短いワードでしか予定が記載されないから、こういう作りになっているのではないかと推察されます。
用件を書くスペースが日ごとにしっかり確保されている手帳を買おうとすると、サイズが大きくなるか、分厚くなるかのどちらか。
荷物をできるだけコンパクトにしたい身からすると、どちらも選びたくない。
そして、全体的に必要ないページが結構ある印象(メモ部分や連絡先の記載欄がやたら多いなど)。

弁護士日誌や訟廷日誌は、自分たちの仕事にとって「必要にして十分な手帳」であることを改めてしみじみ感じました。

で、結局、テラバヤシの2017年のお供は、モレスキンのスケジュール帳になりました。
一番シンプルで無駄がなかったというのが理由です。
実は、モレスキンのノート自体は、消耗品として高すぎると感じており、日々のメモどりにはダイソーが販売しているB6判のモレスキンもどき、俗称「ダイスキン」を愛用しております。
そういうテラバヤシにとっては、モレスキンのスケジュール帳を使うなどという行為は、なんというか踏み絵を踏むような複雑な心境でした。が、他の手帳は、もうどうしてもいやだったので、思い切って購入に至りました。

舶来物のため、日本の祝祭日の記載等は全くなく、かつ、2016年12月の最終週から始まり、2017年12月の最終週で終わるというまさに「1年物」の手帳です。まさに究極のシンプルです。
購入して一番最初にしたのは、2017年の日祝祭日に赤丸をつけることでした。
そして、2018年の手帳は相当早めに買うことがもはや義務付けられているといっても過言ではありません。

ですが、モレスキンのおニューの手帳に、スケジュールを記載してみたところ、手帳としての使い勝手は、かなり良いな、と感じるようになりました。
究極のシンプル故、自分なりに使いやすいように作りこんでいくことができるように思います。

これから1年お世話になることになりますが、転記を意識しなければならない時期になったとき、果たして弁護士日誌に戻るのか、2018年もモレスキンで行くことにするのかは、まだわかりません。
が、今年私と同じように(あんまりいないか)弁護士日誌を入手しそびれた人には、モレスキンのスケジュール帳をお勧めしたい気分なのでした。

これでほんとに今年の投稿は終わりにします。

皆様、よいお年を!!




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by terarinterarin | 2016-12-28 22:32 | Comments(0)
ASKAさんが不起訴で釈放でされました。

その理由はまさかの嫌疑不十分です。検察側の発表によれば、どうやら、採尿手続の際に不備があり、提出されたものが本人の尿であることの立証ができないから、でした。
ASKAさんが言う通り、中にお茶が入っていたのかどうか真偽のほどは不明です。個人的には、いくらなんでもそれはないだろうと言いたいのですが、その点に関して正面から「それはない」というコメントすら発表できないほど、採尿や尿提出の段取りがボロンボロンだったということになります。

マスコミでは、前代未聞の不備みたいな言われ方をされていますが、実はこと覚せい剤の使用の捜査(逮捕や採尿、尿鑑定ひっくるめて)については、私たち弁護士の目から見ると、「こんなことがまかり通るのは怖い」と思うほど、不備あるいは不備的なものが結構な頻度で見受けられます。

具体例に関しては、園田寿弁護士が今までの実例をブログでお書きになっているので詳しくはそちらをご覧になっていただければ良いと思いますが、例えば、採尿後に警察官が一部を別なカップに移しちゃって、その際に他人の尿が混入されたことが否定できないとして証拠採用されなかった件などが紹介されています。

今回は、再鑑定用に尿を残していなかったことも立証不可と判断した理由のひとつのようですが、私がやった案件では、再鑑定用に尿を残していたケースは一度もありません。尿が少なくて…というのは、苦しい言い逃れで、日常的にある意味こういう不備が蔓延していると言っても過言ではないように思います。

問題があるのは採尿そのものに限られません。
覚せい剤使用者の身体拘束は、かなり暴力的に行われることも少なくありません。
例えば、路上で使用の疑惑がある人を拘束しようとする場合、まずは、職務質問とこれに付随する所持品検査から始まることも少なくありません。

職務質問や所持品検査は、知っている方も多いと思いますが、逮捕や差押と違って令状が発布されている状況下で行われるものではありません。強制的に何かをさせることができるものではないのです。

しかし、実際には、職務質問と言って何名もの警察官が容疑者を取り囲んで時には腕などをつかんで警察車両に引きずるようにして乗り込ませたり、本人に無断でカバンを開けて中をぶちまけたり、ポケットの中に手を突っ込んできたりというかなり乱暴な行為が行われていることも少なくないようです。

このようなやり方は、その後逮捕された人が使用を認めてしまった場合には表に出ることはほとんどありませんが、使用を否認したりする場合には、一連の捜査手続の違法という形で裁判上主張されることも少なくありません。

しかし、警察官は、自分たちがひどいことをやっているという自覚がなかったり、バレたらまずいという気持ちがあったりして、決して法廷で自分たちのやり方がまずかったということは認めません。
仮に多少力づくのことをやったとしても、覚せい剤使用という事件の特殊性(密行性、秘匿性と申しましょうか)から、裁判所も職務質問や所持品検査として行われた警察官の乱暴なやり口について問題視することはほとんどありません。

つまり、覚せい剤の捜査に関しては、職務質問から所持品検査と、採尿(その後のサンプルの保管についても個別に管理されているわけでは決してないという問題もありますが)に至るまで、ある意味警察官やりたい放題の状態だったといえましょう。

別にかばうわけではないのですが、刑事さんにしてみたら、覚せい剤の使用ですわなんかしなくちゃいけないという状況に至った時、現場はもうてんやわんやでしょうし、明らかに挙動がおかしい輩がいるのに、これをみすみす逃してしまったら、不祥事として世間に責め立てられるという、非常にお気の毒な立場にあるのではないかと推察されます。

で、そういう部分があるものだから(我々弁護士は置いとくとして)世間的にも裁判所的にもある程度のところを黙認していた結果、今回の「ASKA、まさかの不起訴」の事態を招いてしまったのだと思うのです。

今回、不起訴にした検察官の判断は懸命だったと私は思います。
採尿の状況は、写真に収められているはずで、公判請求して裁判になった際、ASKAさんが否認を継続していたら、その写真は弁護側の請求で開示され、弁護側から証拠として提出されることになることも予想されました。

実際にそうなったときに、公判に耐えられないものであったのかどうかは写真を見ていないのでわかりませんが、少なくとも今回の担当検察官は、上司とも協議して、耐えられない可能性が相当程度あるという判断をしたということなのでしょう。

今回のこの件は、なんでもありの覚せい剤使用の捜査をもっと慎重に適正に行うべきという方向に捜査機関をシフトさせるきっかけになるものだと思いますし、そうなることを願ってやみません。


今年の投稿は(よほどのことがない限り)おそらくこれが最後になると思われます。
今年もたくさんの方にお読みいただいて、ありがとうございました。
みなさま、良いお年をお迎えください。






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by terarinterarin | 2016-12-22 13:27 | Comments(0)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terarinterarin