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高樹沙耶さんが、大麻の共同所持で逮捕されました。
ご本人は自分のものではないと容疑を否認しています。
先の参議院選挙で、日本ではまだまだ耳慣れない「医療用大麻」の解禁を訴えたこともあり、今、高樹さんは好奇の目にさらされています。

大麻の所持、というと私には忘れられない出来事があります。
まだ登録一年目の頃でした。
法教育委員会の会務で、中学生を裁判傍聴に連れて行った時のことです。

傍聴したのは、大麻所持の刑事公判でした。
法廷に入り、傍聴席に座ると、何やら給食用のパンを入れるような大きなプラスチックのケースが2つ3つ検察官側においてあるのが見えました。
首を伸ばして覗き込むとジップロックの袋に入った葉っぱ様のものがいくつもある。
罪名に「営利目的」は入っていませんでした。
どうやって入手したのだ、と新人だった私は、少したじろぎました。

そのうち、被告人が拘置所の職員に伴われて入廷してきました。
小柄な細い男性で、ネイビーに白線2本のアディダスのジャージの細身のジャケットをオシャレに着こなしていました。下はスリムのジーンズを履いてました。
髪は背中の半分が隠れるほど長く、ドレッドが取れかかっていました。
ボブマーリーみたいだな、と思いました。

大麻の単純所持の、いわゆる認めの事件でした。

検察官の冒頭陳述やその後の審理から、被告人は、
北海道の大麻の自生地に赴き、
まさかりで嬉々として大量の野生大麻を刈り取り、
それをダンボールに突っ込んで宅急便で自宅に送り、
長いことかけて乾燥させて適量ずつジップロックして、
「これで当分困らない」とほくそ笑んでいたらしいことがわかりました。

被告人の自宅を訪れた母親が偶然ジップロックの1つを見つけ、数日間逡巡した後警察に持参して発覚した、ということのようでした。

被告人に対して裁判官がいくつか質問をした後、最後に「起訴状の職業欄に自由業と書いているけど、どんな仕事をしているのですか?」と尋ねました。

ハーブ雑誌のライターです。

被告人は臆することなく、そう答えました。
まだ、脱法ハーブとか危険ドラッグなどという言葉はなかった頃の話です。

傍聴が終了した後、引率した中学生に対して、「どう思った?」と尋ねてみました。
先生、あの人はまた絶対やると思います。
反省しているなら、頭を丸めろって感じです。
率直な感想が返ってきました。
言葉は幼いですが、よく見ていてよく感じているなあと感心しました。

ボブマーリーのような風貌。
自分の職業について、堂々と「ハーブ雑誌のライターです」と回答したこと。
野生の大麻を刈り取ってきたというその行動。

もちろん、被告人質問の最中には、反省しています、二度としませんという言葉を彼は発していました。
しかし、彼の風貌や行動からは、大麻を使うことに対する罪悪感や程の悪さというものは感じられませんでした。
まさに薬効のあるハーブのひとつとして大麻を嗜んでいる、そんな雰囲気が漂っていました。

世界には大麻愛好者が結構な数いるそうで、大麻愛好者のための雑誌も流通しているという話を聞いたことがあります(まさにハーブ雑誌)。
多くの人が知っているように、大麻の使用が解禁されている国(使用方法や使用場所に一定の規制はありますが)も決して少数ではありません。
そういう国の中には、タバコにバカみたいに高い税金をかけている国もあります。もちろん目的はタバコによる健康被害をなくすことです。
大麻を解禁している国でも覚せい剤やコカインなどは禁止されているでしょう。
つまり、大麻だけが特別扱いされているわけです。

他の薬物と一線を画した「大麻」の扱われ方は、単に「覚せい剤やコカインやタバコのような危険性や害はない」という理由(諸説あるところですが)に止まるものではないでしょう。
「大麻」には、覚せい剤やコカインなどが持つ薬効に対する単なる依存性とは違う精神的な依存性があるのでしょう。洗脳、崇拝と言ってもいいかもしれません。

そして、そのポイントは、おそらく大麻が「自然に生えてくるもの」であるところにあるのでしょう。

高樹沙耶さんは、選挙の際に医療用大麻を天然の生薬として医療現場で使えるようになればいいと訴えていました。
ナチュラリストとしての生活を極めるため、沖縄に移住し、おそらくは志を同じくしている人と生活していたようです。
今回の共同所持の件への関与は脇に置いておくとしても、高樹さんが大麻に対して多大なる信頼を寄せていたことは疑いがなく、やはりそこには「崇拝」あるいはそれに近い信仰心のようなものを強く感じるのです。

そういう意味でいうと、大麻が人を惹きつける力というのは、覚せい剤やコカインなどの比ではないのかもしれません。
それを「依存性」というのであれば、大麻は非常に強い依存性を持つものと言えるでしょう。
単純に薬効だけで人を惹きつける薬物よりも、よほど恐ろしいものなのかもしれません。



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by terarinterarin | 2016-10-29 22:48 | Comments(2)
ここ1~2か月ばかり、広告のお誘いが非常に増えております。

司法試験の合格発表もあり、新規登録目前のこの時期というのも何か影響があるのでしょうか。
テラバヤシの記憶にあるだけでも、「弁護士の広告サイトをやっているのですが掲載しませんか」というお誘いが2~3社、登録制のチャット式法律相談のお誘い1社、「駅テン!」とかいういわゆる「駅近」地域の情報発信サイトからの広告のお誘いなんかがあります

「駅テン!」の勧誘FAXは、ここ2か月くらい、10日から2週間に1回くらいの割合で来ていて、少なくとも、ともえ法律事務所に対しては、やたら積極的です。

テラバヤシ的にちょっと気になるのは、元々弁護士やその他士業に特化した広告サイトではない、そういうところが弁護士ターゲットにやり始めた、重点を置き始めたと思しきものがいくつかあるという点です。

先ほど挙げた「駅テン!」は、駅の近くのお店や施設の情報を載せているサイトで、開業して2年を目前とした今の時期まで、勧誘のFAXなど来たことがありませんでした。
確かに、相手方についた代理人について調べるためにネット検索するときにたまに駅テン!で引っかかることはありますが、それほど多いわけでもありません。
先ほども言った通り、うちの事務所へのFAXの頻度はここ最近結構なものになっているので、なにか急に弁護士相手の営業に力を入れ始めたのか、それとも最近になってうちの事務所の存在を知ったとしか思えません。

「弁護士用の広告サイトを出すことになったのでどうですか」という勧誘をしてきた業者の中に、「ココナラ」というサイトが含まれておりました。知っている方も少なくないかもしれませんが、ココナラは「自分のスキルや経験、知識のオンラインマーケット」をうたい文句とする、いわゆるクラウドソーシングサイトの1つです。
フェイスブックアカウントやヤフーIDで会員登録もできる、元々は匿名性が高いクラウドソーシングサイト、というのがテラバヤシの認識です。

以前、郵便局の現金封筒に事務所の名前を出すという広告を出していたことから感じたのですが、都市圏において、「地域」を前面に押し出した広告というのは、弁護士に限ってはあまり効果的ではないように思います。
現金封筒を見ました、相談したいです、依頼したいですという電話やメールは、テラバヤシの場合、1度もありませんでした。
「駅テン!」をわざわざ見る人って、例えば、とある駅の近辺に引っ越そうと思っている、あるいは勤務先がその辺になり、周囲にどんなものがあるか調べる人…とかではないかと思われ、弁護士を探すためにわざわざ駅テン!を見る人はいない、あるいはごくごく少数ではないかと思うのです。
駅テン!への掲載というのは、「そういえば、あそこの駅の近くに○○という弁護士がいたはず」という、「記憶喚起型」であり、そういう意味では現金封筒と同じ、つまり即効性がない広告であることは間違いありません。

弁護士用広告サイトのお誘いは、営業さん、皆さん決まって「弁護士ドットコムさんがやられているようなのと同じなんですが」といううたい文句でご説明をされます。ココナラもそうでした。そのうえで「一度お伺いしてお話をさせていただきたい」というわけです。つまり、自分らが二番煎じ、三番煎じであることを露呈して営業しているわけです。
そうである以上、事務所に来てもらってお話を聞けば、おそらく何らかの差別化が図られているか、何かものすごいリーズナブルであるとか、そういった売りをお持ちなのだと思います。なお、ココナラさんは、3か月無料とお電話で言っておられました。

しかし、冷静に考えてみれば、圧倒的な知名度と圧倒的なシェアを持つ弁護士ドットコムを凌駕するほどの差別化を図れている業者なんて、そうそうあるとも思えません。
また、弁護士ドットコムは、以前弁護士業務広告に関するシンポをしたときに勉強したのですが、非常によく広告方法が研究されていて、弁護士業務広告の規制に(ぎりぎり?)引っかからないような工夫がきちんとされていたりします。

ココナラの営業の電話がかかってきたとき、今まで弁護士をコアなターゲットにしてこなかった新規参入組?の広告業者って、弁護士広告の規制とか、きちんと把握していらっしゃるのだろうかととても疑問に感じました。
なぜかというと、携帯電話からの着信だったからです。営業電話を外注に出しているんじゃないのかと思いました。もしそうだとしたら、とても気軽に「弁護士の広告」を考えている、つまり、規制に関する知識がないんじゃないか?ということです。

出さなければならない情報は何か。
出してはいけない情報は何か。
その他、やってはいけない表示。

以前もこのブログで書いたような細かな規制が弁護士の世界には存在しているわけです。
それらをちゃんとクリアした広告を新規参入の業者さんはきちんと提供してくれているのでしょうか。

ついでに言うと、チャット法律相談の登録の勧誘なんて、チャットの向こう側に誰がいるのかわからない状況で(つまり、知らず知らずに利益相反を生じさせてしまっている危険性がある)、さらに会話内容が漏れない保証もなく、守秘義務違反の問題とかクリアできてるんだろうかと、もう聞いただけで怖くて手を出そうという気になりません。

「弁護士に仕事がない」という情報が広く流布されてしまっているこの世の中、あの手この手の集客ビジネスは、、百花繚乱になりつつあるようです。
中には、詐欺まがいの業者だっているのかもしれません。
非常に不勉強で、弁護士の広告規制や各種義務に反することになるかもしれない広告を勧誘してくる業者もいるのかもしれません。

いいカモにならないためには、目の前の人参にかぶりつく前に、弁護士の側が、広告規制や職務倫理を叩き込んでおくことが必要だということでしょう。







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by terarinterarin | 2016-10-17 01:49 | Comments(2)
10月7日、日弁連の人権擁護大会で死刑廃止宣言が採択されました。
テラバヤシは仕事のために行けませんでしたが、(おそらく採択されるのだろうとは思っていたものの)どうなるのやらと、そのなり行きはとても気になっていました。

あとで詳しく書きますし、前回の投稿でも書きましたが、テラバヤシは死刑廃止派です。が、死刑廃止宣言の採択については、正直、複雑な気持ちでいます。

死刑は廃止すべきだということを強く政府に働きかけていくためには、個々の弁護士でも、有志一同でもなく「日弁連」という形でかかっていかねばならないことは言うまでもありません。

しかし、日弁連は、刑事被疑者被告人、受刑者の人権保護活動だけでなく、犯罪被害者の人権保護活動も行っている組織です。
そして、強制加入団体です。

被害者やその遺族の多くが持つ報復感情、加害者の死を望む感情は、人間として無理もないものです。その気持ちに寄り添う活動をする弁護士がいるのも、だからこそ当たり前です。

ですが、このような弁護士は、弁護士としての活動を続けていく限り、日弁連をやめることはできません。今回の採択は、個々の弁護士の思想信条を損なう恐れも内包しているようにも思えるのです。

採択の前には、かなり長時間の討議がなされていたようです。決して存続派の意思を蔑ろにしての採択ではなかったのでしょう。
そして、今後も政府への働きかけにあたっては、存続派の弁護士の意見聴取の機会も設けられ、死刑に代わる制度や新たな被害者支援の政策提言もなされていくことと思います。
しかし、多数決は多数決です。存続派の意見は、少なくとも7日の採択の時点では切り捨てられてしまったと言わざるを得ません。

だからこそ、私個人は死刑廃止派とはいえ、宣言が採択されたことについては、諸手を挙げて「良かったですね!!」と言うことが、躊躇されるのです。

とはいえ、テラバヤシは何度も繰り返して申し上げますが、死刑廃止派です。
私が死刑を廃止すべきだと考える理由をお話ししたいと思います。

死刑に犯罪抑止効果を期待できないということ(死刑制度が設けられていても凶悪犯罪は日々起こっています)。
冤罪だった場合に取り返しがつかないこと。
死刑は憲法が禁じる残虐な刑罰に当たること。
廃止派があげる大きな理由はこのみっつかと思います。

これに加えて廃止すべきと考える理由として、「ひとりの人を殺すために多くの人を巻き込みすぎる」ということが挙げられます。

死刑を執行するとは、死刑確定者を勝手に死なせることではありません。ルールに則ってその人を殺害するのです。ルールに定められた手順に従って、死刑確定者を死に至らしめるための担当者がいるのです。

その最前線にいるのが、刑務官をはじめとする刑事施設の職員です。

日本の死刑の方法は、絞首刑。死刑確定者が首を紐にかけた後、足元の床が抜けて首を吊った状態にさせて、死に至らしめるものです(余談になりますが、窒息死させるものではなく、頚椎を折って死なせる方法です。場合によっては、首が切断されると聞いたことがあります。この方法が残忍であるとして、死刑に反対する見解もあります。しかし、この理由によれば、他の方法であれば死刑が許容され得ます)。

この床を抜くための装置を動かす担当の職員が、自ら死刑確定者の死に手をかけることになります。
話によれば、ボタンが5つあって、複数の職員が上司の合図で一度にそのボタンを押すことになっているとのことです。これは、「自分が殺した」という罪悪感を軽くするため、と言われています。

がしかし、こんなもので、精神的負担なんて軽くなるわけはないでしょう。
自分じゃないかもしれないけど、自分かもしれないのです。
別に自分がその人に恨みを持っているわけでも、その人の死を望んでいるわけでもないのに、自分が殺めたのかもしれない。
その気持ちは、そんな簡単に消えるものではないでしょう。

ボタンを押すよう合図をする刑務官の心的負担だって相当大きいでしょう。
自分の合図の次の瞬間には、今そこにいる人が死んでいるわけですから。

その後の検死作業も、死んだばかりの生々しい遺体を目の前にして行われるわけです。
ついさっきまで自分の目の前を歩いていた人です。
その姿をどんな気持ちで刑務官たちは見るのでしょうか。
仕事だから、と割り切れるのでしょうか。
何も感じないのでしょうか。
そんなはずはないと思うのですが。

死刑の執行に立ち会ったこと、ボタンを押す係をしたことによって、精神を病んだ人はいないのでしょうか。
仕事を続けられなくなって、やめた人はいないのでしょうか。
その後の人生を、みんなつつがなく送れているのでしょうか。
この点に関するデータが何かあるのなら、見てみたいものです。

最前線ではありませんが、死刑の執行にGOサインを出すのは、法務大臣の仕事です。
鳩山邦夫は、法務大臣時代に、宮崎勤の死刑を執行すべきだと法務省の職員に自ら働きかけたという噂がありますが、歴代法務大臣は、こんな人ばかりではないでしょう。
GOサインを出した後の光景を想像して心的に大きなストレスを抱えた人だって、中にはいたはずです。

そして、死刑判決を下す裁判官や裁判員は、犯罪者を死に導く道筋を最初につける役割を担うこととなります。
裁判官は、裁判官になった時点で、多かれ少なかれ「いつか自分も死刑判決を書くことになるかもしれない」という覚悟をおそらく持つものでしょうし、それを分かった上で裁判官になっています。
が、裁判員の皆さんは、訳が違います。
ある日突然裁判員を務めることになり、自分の意思で事件を選ぶこともできません。
当たってしまった事件で死刑判決を出すことになってしまうのです。

評議において死刑に票を投じた人もそうでない人も、自分の目の前にいる人に対して死を命じる(正確に言うと「国家によって後に殺されなさい」と命じる)ことについて、良心の呵責を覚える人が多いでしょう。
実際、死刑判決が下された裁判員事件の後の記者会見で、担当した裁判員の皆さんが心的に大きくのしかかった重圧について吐露している記事を何度か目にしました。

自分が死刑判決を下した人の刑が執行されたと言うニュースを、裁判員の人はどんな風に聞くのでしょう(心境を吐露した裁判員の方の記事は一度読んだことがありますが)。罪悪感に苛まされ、心的なバランスを崩す人も、実際のところ少なくないのではないでしょうか。

裁判員制度を導入するなら死刑を廃止すべきだという議論もありました。もちろん死刑判決を出すことによって裁判員に生じうる心的なストレスを排除するためです。
しかし、大きくクローズアップされることもなく、死刑制度が存置された中で裁判員制度は開始されました。

もちろん、裁判官だって死刑判決を出すのに、実際は悩み苦しんでいるのではないかと思うのです。自分が死刑判決を書いた当人が実際に執行されたときに、裁判官が何を思うのか、聞いてみたいものです。

すっかり長くなってしまいましたが、一人の人の死刑を決め、死刑を執行するまでの間には、実に多くの人の手がかかっていて、関わった人たちの少なくとも一定数の人には、大きな罪悪感やトラウマを残しているといえます。

これは死刑という制度を置いていることによって生じている大きな犠牲ではないのでしょうか。
これだけ大きな犠牲を払って死刑を残していても、実際に、残虐な犯罪はなくなってはいません。

死刑は、死を命じ、刑を執行するまでの過程で、多くの人に多くの負担をもたらします。そして、その負担は決して軽いものではなく、とても重いものです。
死刑制度は、払われる犠牲の大きさに比べて効果が薄い制度ではないか、そう思わずにはいられません。

そういう意味でも、死刑はやはり廃止されるべきであると思うのです。









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by terarinterarin | 2016-10-09 01:38 | Comments(5)
オウム真理教の教祖だった麻原彰晃氏の三女、松本麗華さんが、東京拘置所から再三に渡り麻原氏との面会を断られていることを公表して話題になっています。
今回は、松本麗華さんの記事を読んで思いついたことを、つらつらと書いていきたいと思います。

拘置所や刑務所に勾留・拘禁されている人(死刑確定者以外)が外部の人と面会するにあたっては、法律上様々な制限が設けられています。
例えば、まだ刑事裁判によって有罪が確定していないいわゆる未決拘禁者については、「1日に1回、1度に3人まで」と決められています。
受刑者については、まず面会できる相手方が、親族や釈放後に雇用を予定している人など一定の範囲の人に限られます。また、面会の回数は、受刑開始直後は1か月に2回とされています。その後、その回数は、問題行動なく受刑生活を送っている場合には徐々に増えていくことになっているようです。
面会には、刑事施設の職員が立ち会って、会話内容に問題がないかなどをチェックします。
面会時間は1回につき15分から20分と短いものです。
未決拘禁者は、まだ「罪人」と決まったわけではなく、矯正教育を受けている立場ではないので、受刑者よりも幅広く外部の人との面会が認められているのです。
余談になりますが、未決拘禁者は、本や雑誌を購入したり差し入れしてもらったりして、基本的には自由に読めますし、お金があればお菓子などを買うこともできます。

未決拘禁者の場合も、受刑者の場合も、弁護士との面会には、特別なルールが設けられています。
まず、自身の刑事事件の弁護人との面会については「秘密交通権」が保障されているので、職員の立会いも、時間や回数の制限もありません。
また、拘置所や刑務所における処遇の問題について弁護士の法律相談を受ける場合、法的措置に向けて打ち合わせをする場合にも、職員の立会いを排除することができます。
ただ、これらとは関係ない単なる民事事件の法律相談については、一般の方との面会とほぼ同様に扱われることとなります(但し、事前に申請することによって面会時間は一般の方よりも延長してもらえることが多いです)。

死刑確定者の扱いは、未決拘禁者や受刑者とはかなり違います。

法律上は、親族や「心情の安定に資する者」(例えば、旧知の友人などが当たります。)など一定範囲の人から面会の申し出があれば、原則として面会が許可されることとなっています。
がしかし、実際の運用は異なります。
面会の申し出をしても、法律上の例外に当たるとは考えられないようなケースで、面会することが認められないケースが散見されるようです。
従来面会を認められていた人について、ある日突然認められなくなった。そんなこともあるのです。
松本麗華さんの件は、特殊な事例ではありません。

最近麗華さんが面会を求めた際には、麻原氏が面会に応じる意思を表明しなかったからという理由で面会が認められなかったそうです。
麻原氏は現在右も左も全く分からない心神喪失の状態にあるということですから、それを前提とすると、面会に応じる意思表明をすることはありえないわけで、松本麗華さんは、この先も麻原氏には全く会えないということになります。
そして「面会に応じる意思を表明しない限り」面会を許可しないなどというルールは明示的にないわけで、拘置所の職員が松本麗華さんに告げた不許可の理由は、合法的なものとは考えにくいと言わざるを得ません。

死刑確定者の場合は、弁護士との面会も、受刑者や未決拘禁者と異なります。
どんな理由の面会であっても、必ず立会いが付くのです。
施設側の処遇に対する法律相談のために面会する場合、未決拘禁者や受刑者であれば、職員の立会いなくして会うことができます。
しかし、このような相談であっても、死刑確定者の場合には立会いの職員を排除することはできません。

また、再審請求をしている場合、担当の弁護士と打ち合わせをするにあたっても、職員が立ち会います。
先ほども述べた通り、未決拘禁者が弁護人と打ち合わせをする際には立会いが付くのです。これは、職員(国家権力)の監視を受けない弁護人との十分な打ち合わせの機会を確保するためです。
そのような機会が死刑確定者の再審請求には認められていないのです。
死刑確定者にとっては、再審請求は、死刑を回避するための最後の砦です。
通常の刑事手続と同等あるいはそれ以上に弁護士との密な打ち合わせの機会が保障されてしかるべきのはずなのに、それが確保されないのです。
聞いたところでは、職員からの信頼を得ている(例えば、長年コンスタントに面会に通っているような)弁護士との面会の場合には、例外的に立会いの職員が付かない場合があるようですが、特例的な扱いにすぎません。

このように、死刑確定者の外部との接触は著しく制限され、かつ必ず監視がつくことになります。
なぜでしょうか。

簡単に言えば、「ちゃんと死刑が執行できるように」と言われています。
死刑確定者は、いつ刑が執行されるかわからない常人では予想できないような恐怖とともに毎日を過ごしています。
執行に至るまでの過程で精神に異常をきたす人も少なくないと言われています。
つまり、いつどこでどんなタイミングで精神のバランスを崩すかわからないわけです。
死刑の執行は、確定者が「心身ともに健康な状態」でなければできないとされています。
精神に異常をきたされては、死刑を執行できないのです。
自殺されても困るのです。
そのために、余計な刺激が与えられないよう、外部との接触を制限し、監視をつける。

もちろん、死刑になるような重大な犯罪を犯した人間なので逃亡を何としても防がねばならないという事情もあるでしょう。

しかし、それ以上に、死刑確定者が日々どんな暮らしをしているのか。そんな内部事情がさらされないように、ということなのではないでしょうか。
あるいは「死刑確定者」自体を社会にさらしたくない。そんな思惑もあるように思えてなりません。

死刑確定者が施設内に拘禁されていることを「刑に服していること」と思っている人が少なくないようですが、死刑確定者に課される刑はあくまで「死ぬこと」です。
拘禁は刑の執行を確保するために行われているにすぎません。
そうであれば、本来、「刑の執行を確保するために必要な範囲」での権利制限しかできないはずなのです。
そして、「心身ともに健康な状態」を保つためには、然るべき人と自由に会えることが最も重要なことのはずなのです。

これに加え、死刑確定者との面会は、その家族や近しい人の権利でもあります。
麻原氏は、確かに最悪のテロ犯罪の首謀者です。
しかし、麗華さんにとってみれば、お父さんです。
お父さんの今の姿がどんなものなのか。
それを確認する権利が麗華さんにはあるはずです。
それは、麻原氏が凶悪犯罪の首謀者であったこととは関係ありません。

死刑確定者は、被害者やその家族、世論から見れば極悪人です。
しかし、裁判所から「生きる価値がない」と烙印が押されたとしても、この世の誰かにとっては生きる価値がある命の持ち主であること(あるいは、あったこと)は間違いないはずです。
国は、人を殺してはならないと義務を課しておきながら、自ら人を殺せる制度を作っています。
その矛盾を償う意味でも、死刑確定者とその人を大切に思う誰かとの最後の時間を大切に見守るべきではないかと思います。

*なお、私は死刑廃止論者です。

<付記:平成28年10月7日>
本投稿を読んでくださった同業の方から、東京拘置所では、再審事件の打ち合わせに当たっては30分の時間制限は課されるものの、職員の立会いはないという情報がありました。
また、別の弁護士からは、処遇相談と再審事件相談にあたりやはり東京拘置所で職員の立会いはなかったという情報がありました。
テラバヤシ自身が数年前に死刑確定者の処遇に関する相談を受けた際には、都度申し入れをしたにもかかわらず職員の立会いは排除されませんでした。
あたかも原則が「立会いあり」のような書き方を本文中でしてしまいましたが、刑事施設毎・事案毎に扱いが異なる可能性が高そうなので、この点は訂正させていただきたいと思います。

これは、死刑確定者に限りませんが、細かな面会等外部交通の運用は、施設毎、あるいは施設責任者の交代により変わるものです。
以前、名古屋拘置所においては、公判前・公判中の未決拘禁者において、弁護士側による私的精神鑑定を行う際には、数時間にわたりアクリル板のない部屋で面談等を行うことが認められていた時期がありました。
ですが、とあるタイミングで、このようなことが認められなくなりました(現在どのような運用になっているかわかりません)。
東京拘置所においては、(少なくとも数年前までは)アクリル板のない部屋での鑑定のための面談が認められることはなく、面談時間も30分以内だったようです(現在また運用が変わっていれば情報をいただけると幸いです)。







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by terarinterarin | 2016-10-06 00:51 | Comments(0)
フリーキャスター長谷川豊さんのブログ「本気論 本音論」の9月19日の記事が物議をかもしていることは、多くの方が既にご存知だと思います。

重い腎疾患で人工透析を受けている患者の多くが「自業自得」であり、こういう人を経済的に年金や保険が救済できるため、病院が大変に大儲けしている。このような利権まみれの保険や年金システムは解体すべきだ…という趣旨の記事です。
この記事が人工透析患者を侮辱していると報じられて長谷川さんには多くの非難が集中し、結果、現在のところテレビ番組2つを降板することになったようです。

私は、一読して、国民の負担の上に一部の病院が大儲けできるような年金・保険のシステムを改革すべきだという趣旨のことを言いたいのだな、と思いました。
また、全ての人工透析患者を一緒くたにして「自業自得」と言っているわけでもないと感じました。
が、糖尿病も含めた生活習慣病は、実は貧困層に多いとも言われています。実際、仕事を通じて、テラバヤシもこの点は強く感じます。
また、体質的な問題で、それほど不摂生な生活を送っていない人でも糖尿病予備軍にはなるものです。何を隠そう、この私も、ヘモグロビンA1Cの値が何年もの間健診でひっかり続けており、遂に今年は栄養士の指導を受ける羽目になったくらいです(テラバヤシをよく知る人は、あのスリムな体型で?運動もある程度しているのに?と思うことと思います)。
一定の「自業自得」層がいることは否定できないとはいえ、それを人工透析患者の「大半」と書いてしまったことは、甚だ勉強不足・調査不足、あるいは「書きすぎ」でしょう。結果として記事のその部分に焦点が当たってしまい、多くの非難が集中したことは、致し方ないのではないかと思います。

長谷川さんといえば、今までもブログの記事が物議をかもすことが何度かありました(注:自分のことは棚に上げています)。
個人的に印象に残っているのは、昨年、安保関連法の議論が華やかに繰り広げられていたところ、日本国憲法と国連憲章の記載の違いを指摘して「憲法9条は違憲だ」という趣旨の記事を書いたことでした。
一国の憲法と国際法規の効力の優劣については、著名な憲法学の本のどれにも記載がありますし、最近であればネットてちょっと探せば苦労せずに調べることができる類のものです。
そういう最低限のことをしていないのか、したうえで敢て書いているのかよくわかりませんでしたが、いずれにせよ、自身の発信力の強さも考えずに、世間をミスリードする投稿を平気でする方なのだなと思いました。

一方で、元少年Aが書いたという「絶歌」については肯定的な意見を述べていました。世間の多くが、元少年A自身や「絶歌」に対して、強い嫌悪感を示していました。
「絶歌」については、テラバヤシも肯定的な意見を述べて非難のコメントもいくつか受けたのですが、正直なところ、長谷川さんが肯定的な意見を出していたことには驚いたものです。

今回の「人工透析騒動」に関しては、今まで長谷川さんに対してたまっていた「ツケ」が一挙に精算されてしまったなと感じています。
今までの様々な刺激的発言がなく、ポッと今回の記事が出てきただけであれば、彼には少なくとも、テレビなどで弁明の機会が与えられたように思うのです。
ですが、今までの物議をかもす発言によって、少しずつたまっていたアンチ長谷川な雰囲気や、テレビ関係者の「あまり何もしてくれるな」というハラハラ感が、この度限界線を越えてしまって、「テレビには出すべきでない」という見る側と作る側の暗黙の合意形成に達してしまった…そういうことではないかと思います。

ただ、長谷川さんの記事の内容が、仮に、例えば「生活保護受給者には人工透析を受けさせるべきではない」とか「貧困層に対する医療費支援策は即刻辞めるべき」、つまり、「貧乏人は医療を受けられずに死んでも構わない」という論調のものだった場合(あるいはそのように受け取られる記事内容だった場合)、今回の様な非難の嵐が巻き起こり、テレビ番組を降板させられるような事態にはならなかったのではないでしょうか(注:長谷川さんがこのようなポリシーの持ち主であることは私にはわかりませんので、あくまで、このようなことを書いたと仮定してのことです。誤解のないようお願い致します)。

今回、長谷川さんがここまで叩かれてしまったのは、世間の大半が「叩いてはいけない」と考えているであろう「人工透析患者」を叩いていると受け取られる記事を書いてしまったからでしょう。
「生活保護受給者」「貧困層」に対しては、「自分たちが納めている税金を食いつぶしている」「ろくに働きもしない怠け者」などと揶揄・非難する層が相当程度おり、そのため、世間の一定数の人々は、こういうカテゴリーに属することになった人々の内情に対する理解もないまま、「叩いていい人」と認定しています。
仮に今回の長谷川さんの記事がこういう「叩いていい人」と世間的に思っている層を叩くとも受け取れるものだった場合、ネット上には、彼を擁護・称賛するコメントが多々寄せられることとなり(もちろん非難するコメントも多々寄せられることとは思いますが)、番組降板という事態には至らなかったと思うのです。

これは、対象が在日朝鮮人・中国人といった人たちでも同じでしょう。在特会の元代表者桜井誠氏が東京都知事選で在日朝鮮人を排斥するような公約を掲げたところ、かなりな票数を獲得したことからも想像に難くありません。

今回の騒動の本質は、結局のところ「リサーチ不足の不適切な発言」や「誤解を生むような過剰な言動」が非難の的になったというものではなく、なんとなく世間的に叩いちゃいけないことになっている層を叩いてしまったというKY感を責めているものにすぎないように思えます。
日本の世の中に巣喰っている、弱者や異物は叩いていい、みんなで同じ方向を向いていて当たり前という同質性を強要する雰囲気が透けて見えてしまう、なんともいやな騒動だと、つくづく思うのです。


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by terarinterarin | 2016-10-01 15:33 | Comments(2)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terarinterarin