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年々早まる「クールビズ」期間。
今や裁判所(をはじめとする官公庁、なんでしょう、きっと)は5月からクールビズとなっており、暑さ対策、すなわち冷房のためのエネルギー対策のために、軽装での通勤が認められております。
別に、裁判所にやってくる弁護士もこれに同調しろというわけではないんでしょうが、裁判官や裁判所の職員も比較的ラフな格好でおいでになるこの時季、かっちりした格好で行こうというモチベーションはぐんと下がります。

テラバヤシはジャケットというアイテムはかなり好きな方で、「ジャケット万能論」という持論があります。
ジャケットさえ羽織っていれば、なかに(ある程度)カジュアルなもの、かっちりしていないものを着用していたとしても、それなりにオフィシャルな雰囲気に見えるもんだという持論です。
そのため、ジャケットを羽織って苦にならない程度の気温(個人的には最高気温25度が限界)の時は、裁判所に行く日であろうとなかろうと、仕事がある日には、基本的にジャケットを羽織って出かけます。

うだるような暑さが続く夏のシーズンも、「クールビズ」の概念が今ほど浸透しておらず、裁判所の皆々様が夏場でもジャケットを着るなどかっちりとした仕事着を着ていた時代(私が弁護士になってから3~4年はまだそうだった)には、テラバヤシもジャケットを手に持って、裁判所の建物に入ったら、ササっと羽織るなどしておりました。
が、ここ数年は、荷物になるだけのジャケットを持って歩く気には全くなれず(しかも手持ちしただけで、汗が染みこみますし)、5月下旬ころから9月中ころまでは、仕事もジャケットなしで通しております。

そうすると、特に裁判所に行く日には、「ジャケットを着ていなくても、それなりに仕事着っぽい服装をしていかねばならない」というプレッシャーにさらされることになります。
男性の場合は、それほど悩まなくてよろしいようにお見受けされます。
最近は、ノーネクタイでもだらしなくならないカッターシャツがかなり出回っておりますので、それにスラックスを履いていけば、なんとななるでしょう(もちろん、くたびれていないベルト、くたびれていない靴など、ジャケットを着る期間よりも配慮すべきポイントはあるのかもしれませんが)。

しかし、実は「仕事をする女性のためのクールビズのお洋服」というのは、意外と売られていないのです。
昨年までの数年間は、夏場はワンピースを愛用しておりました。ワンピースはさまざまなバリエーションがありますが、ある程度かっちりした形のものも出回っており、なにより1枚で事足りるため、仕事着としては非常に使い勝手が良いのです(人によると思いますし、背が高いためスカート丈が足りず、選ぶのは難しかったりします、私の場合)。
が、ここで問題なのは「冷房対策」です。
ぺらっぺらのワンピースは中に着るものを気を付けないと、冷房でかなり体が冷えるのです。
しかも今夏は、夏本番になる前に、持病の咳喘息が悪化。寒暖差は大敵なので、ワンピース中心に夏を乗り切るのは危険ということになってしまいました。

「じゃあ、ストッキング履けばいいじゃん、ジャケット持てばいいじゃん」という方がいるかもしれません。
が、外はうだるような暑さ。
しかも、テラバヤシは有働アナもびっくりの汗っかきです。
ストッキングはもともと苦手ですが、こんなもの履いてジャケット持って…なんて熱中症予備軍になるだけです。

ワンピースを着なくなったことによって、今夏の仕事着にはかなり悩むことになりましたが、ここにきてようやく、裁判所に行くなど、ドレスコードにそれなりに気を使わねばならない日は、ノースリーブのニットにパンツスタイルというのがほぼ定着することとなりました。

まさかTシャツを着ていくわけにはいかないですし(注:仕事でも着られそうなフリルやリボンがついたカットソーなるものは、私の場合着ると仮装状態になります)、シャツやブラウスは汗が目立つため回避。消去法で、ノースリーブのニットという結論です。
そして、冷房対策に一番楽なのはやはりパンツスタイルです。ぺらっぺらの素材のものさえ履かなければ、冷えにさらされることもありませんし、パンスト履くよりは暑さにも十分耐えられます。
冷房対策には、ストールと場合によってはカーディガンを持参します。どちらもカバンに無造作に突っ込むことができるので、ジャケットを持ち歩くよりは全然気を遣わなくて済みます。

裁判所に行くと、この時季の女性弁護士のファッションは、春秋冬よりもバリエーション豊かで、皆さん悩んでいらっしゃるんだろうな、あるいは悩んだ結果この人なりにここに行きついたのだな、などと推察されます。

女性は好みの洋服が人によってかなり違うので、男性のように「クールビスにこれ!!」というのは製品化しにくいのかもしれません。
が、それにしてももう少し「夏用の仕事着」が豊富に選べるようになってほしい、などと思うのでありました。


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by terarinterarin | 2017-07-30 19:06 | Comments(3)
津久井やまゆり園の事件が起きて、ちょうど1年が経ちました。
ここ数日、事件に関連する報道がいくつか続いています。
例えば、裁判のめどが立っていないとか(これだけの事件なので、証拠や争点の整理にそれはそれは時間がかかっているものと思われます)。建て替え問題が迷走しているであるとか。

その中でも特に大きく報道されたのは、植松被告人が報道機関に対する書簡の中で、改めて「障がい者に対する差別」を述べたということでした。意思疎通が取れない障がい者は不幸しか生み出さない、安楽死させるべきだという信念(?)を彼が事件後も変わらずに持ち続けていることが、書面の一部の紹介とともに報じられました。
それとともに、犠牲になった入居者の遺族や、襲われたけれど亡くならなかった入居者の家族のインタビューもテレビやインターネットの記事でいくつか目にしました。

やまゆり園の事件の犠牲者、被害者の家族の皆さんの話で、テラバヤシがいつも感じるのは、被害を受けたことに対する感情(あるいはその表現の仕方、と言った方がいいかもしれません)が、他の事件の遺族、被害者家族の皆さんとは違う、ということです。

殺人事件や放火事件等々で命を奪われた被害者の遺族の人々は、単に「悲しい」というにとどまらず、犯人に対して「許せない」という言葉を使ってその感情を表すことがとても多いと思いますし、時には「殺してやりたい」「死刑にしてほしい」という報復感情をストレースに表す言葉を発する人もいます(ただ、刑事弁護に携わる者としては、犯人の命を奪いたいという趣旨の発言をする被害者家族の方は案外多くないという印象です)。
しかし、やまゆり園の被害者家族の皆さんのほとんどは、「許せない」という言葉を使いません。「殺してやりたい」「死刑にしてほしい」などと言っている人を、少なくとも私は見たことがありません(ひとりもいないなどと断定するわけではありませんが)。

ただただ、「悲しい」「生きている意味がない」などと、家族を失ったことや凄惨な事件の傷跡が被害者に残っていることについての感情を述べており、その表情もやりきれなさや打ちひしがれた様子が色濃く、怒りのようなものはあまり見受けられません。
報道する側が、報復感情が込められた言葉や怒りの表情を表に出すことをあえて回避しているというわけではないでしょう。
なぜなのだろうとしばらく考えていたのですが、ふと思いついたことがありました。

うまい表現が見つからないのですが、もしかすると、被害者の家族の皆さんにとって、やまゆり園の事件は「植松被告人という一人の男によって引き起こされた」ものではなく、「それまで受けてきた差別の果ての結果」なのではないでしょうか。
「障がい者を駆逐しようという極端な差別主義者の勢力」に、抵抗することもできずに、むざむざと駆逐されてしまった。
その実行者が植松被告人だったに過ぎない。そんな風にとらえているのではないかと思えるのです。

ネットを見ると、(愉快犯的な書き込みもあるとは思いますが)植松被告人の思想や今回の事件について支持する意見が多数あり、先ほど書いたような極端な差別思想の持ち主は、決してごくごく少数というわけではないように見受けられます。
障がい者本人やあるいはその家族の皆さん方の中で、差別的な対応や言動に接したことがないという人はおそらくほとんどいないでしょうし、こういう極端な差別思想の持ち主による嘲笑や脅迫的な嫌がらせにさらされてきた人も、傍観者である私たちが想像するよりはるかに多いのではないかと思います。
おそらくは、やまゆり園をはじめとする障がい者の入居施設にも、そういう連中による嫌がらせの電話やFAX、手紙が届いたり、園の外に入居者の皆さんが姿を見せたときには、直接嫌がらせを行うような人間もいるのではないかと思うのです(なかなか報じられないだけで)。
そういう差別思想を持つ連中がいて、隙あらば駆逐してやろうと考えていることを、家族の皆さんたちは日常的に感じていたように思うのです。

障がいのある人々も家族の皆さんも、そして施設の職員の人たちも、なかなかそういう連中の嫌がらせに対して毅然と対応することはできないのでしょう。嫌がらせがさらに大きくなり、その声が高くなってしまうかもしれないからです。抵抗せず、障がいのある子どもたちが、幸せに苦労少なく生活していけることを祈って、多くの皆さんは、日々暮らしてきたのだろうと思います。
やまゆり園では、職員も常駐しているし、みんな一緒に暮らしている。そういう「得体のしれない敵」がいたとしても、守ってもらえるという安心感を持っていたかもしれません。

しかし、安全なはずの園の中にいたにもかかわらず、いとも簡単に、何の抵抗もできないうちに、駆逐を狙う連中によって命を奪われてしまった。
植松被告人は、「差別思想の持主」の一人でしかありません。植松被告人の後ろには、同様の思想の持ち主がどれだけいるかわからないのです。
そういう絶望感や「これが終わりではないかもしれない」という恐怖心、そういう感情が、やまゆり園の被害者家族のみなさんの、他の被害者家族とは異なる言葉や表情に現れているように、テラバヤシには思われます。

数日前でしょうか。やはり、やまゆり園の事件関連の報道の中で、被害者の家族のおひとりが「こういう人間(植松被告人のこと)がいるということを、自分たちは覚えていなくてはいけない」などと話しているのを目にしました。
これがまさに、やまゆり園の事件の被害者家族の心情の一端なのではないかと思われるのです。

「生きている人間の命の価値は平等である。」
障がい者の差別問題が起きたときに、よく言われる言葉です。実際、障がい者の家族の皆さんは、介助や付き添い等で身体的精神的経済的に苦しい生活の中で、この言葉を一つの励みにされていることでしょう。
このブログでも何度か書いたことがありますが、私には幼いころ、自閉症と言われていた男の子の友達がいました。言葉は少ないけれど、いつも静かに私の隣にいてくれたその子は、当時の私にとって、一番大切な友達でした。
「生きている人間の命の価値は平等である」とは、きれいごとではなくて、まさにその通りの意味を持つ言葉であろうと思います。

しかし、皮肉なことに、だからこそ、大勢の抵抗できない人々の命を奪っていった植松被告人の命もまた平等であるということになります。
被害者家族の方の中には、そのことを突き付けられて苦しんでいる方もいるかもしれない、だからこそ、大きな声で彼を糾弾できないのかもしれない、そう思うとやりきれない気持ちになります。

裁判の結果、植松被告人に下される判決は、大方予想がつくところです。
判決が下されたとき、被害者の家族の皆さんはどんなことを感じるのでしょうか。
「植松被告人の後ろにある同じような連中」がいるとすれば、家族の皆さんにとって「終わり」はないのかもしれません。

差別のない、誰もが平穏に豊かに暮らせる社会はどうやったら作ることができるのでしょうか。
作ることは果たしてできるのでしょうか。
テラバヤシには、今の日本では、難しいように思われてなりません。








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by terarinterarin | 2017-07-26 21:57 | Comments(3)
暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
北海道出身のテラバヤシは、「内地」の夏の暑さには滅法弱く(冬の寒さにも滅法弱いのですが)、6月以来の体調不良も手伝って、早くも夏バテ気味な毎日です。

そう、6月から体調不良でした。
元々咳喘息という持病がありました。
時折何かのきっかけでひどい発作が現れます。
発作というのは、夜中早朝を中心とする激しい咳が続く状態です。
一番ひどい時は時間帯問わずずーっと出っ放し。
それが何日も何日も続く。
日頃飲んでいる薬を飲む程度では全く収まらない。
咳のしすぎで喉は荒れるわ、腹筋も背筋も痛いわ、頭が振られるので頭痛はするは首も痛いわ、全身で痛くないところの方が少ない、とんでもない状況が続きます。
ここ数年、こんなにひどい状況になったことはありませんでした。
が、6月の初旬頃から発作が出始め、徐々にひどくなり、一番ひどい状態に陥って、病院に行って薬をもらってもなかなか治らないという状態まで陥ってしまったのでありました。

途中で病院を変えて薬を変えて増やして、ここ数日なんとか元に戻ってきたという状況です(注:血液検査の結果待ちなので、本当はまだ咳喘息かどうか結論は出ていないのですが)。

処方されている薬の中に、アルコールを飲むと作用が強く出るので飲まないようにという注意書きのあるものが含まれていました。
ただでさえ薬の副作用は出やすいたちなので、万が一間違ってアルコールと一緒に飲むとえらいことになります(昏睡状態とか)。
なので、6月中旬頃から、一滴たりともアルコールを飲まない生活を送っております。

昨年あたりから、夏場はビールやハイボールを夕飯と一緒に飲む日が多くなりました。
今年も徐々に暑くなってきた5月末頃から、自宅で缶ビールを開けるのが楽しみになってきました。

元々「飲んじゃいけない」」「食べちゃいけない」となると、好きなものでも結構普通に断ててしまう方なのですが、そんな自分でも不思議なくらい、この暑い最中、アルコールを飲みたいという気持ちには、ほとんどなりませんでした。
とある宴席に出たときに、お料理に合うソフトドリンクがあまりなくて、ワインを飲めたらもっと美味しく食べられただろうな、とは思いましたが、取り立てて苦痛ということもありませんでした。
自宅ではノンアルコールビールをたまに飲みますが、「お酒の代用品」というよりは、「この献立だったら、お茶を飲むよりはノンアルコールでもビールテイストの方が合うだろう」という感じです。

そこで、ちょっと気づきました。

自分は、「酔いたくて」酒を飲んでいたわけではないのだと。
酒の味が好きで飲んでいたのだと。
つまり、酒と同じ味のものがあるのであれば、別段アルコールが入っている必要はないんだなと。
自分では、たまには酔わないとやっていられないという気分でアルコールに接していたような気がしていたのですが、実はそうではなかったようです。
だって、この間、仕事を中心として「やってられるかバーロー」と思うことがいくつかありましたが、「あー、飲めなくて悔しい!!」などと思いませんでしたから(いや、そうならないほど体調が悪かったんじゃないんですか、と言われたらそれまでなんですが)。

そうでなくても、最近酒に酔った状態がなかなか厄介だなあと思うようになっていたところでもありました。
例えば、夜、お酒を飲んだ後、部屋の片付けであるとか洗濯であるとかやりたいこと、やるべきことがあっても、それをするだけのエネルギーが残っていない、妙にだるい。一寝入りしないと動けない。
それも決して深酒しているわけではなく、例えばワインをグラス2杯程度飲んだくらいでこうなったりしていたわけです。
お酒を飲まないとそういうこともなく、(今はなるべく早寝を心がけてはいますが)夜の「もうひと仕事」の踏ん張りが効いたりします。

実は、我が父もただいま基本禁酒中です。
テラバヤシ父は昔からお酒大好きで、健康診断の前と体調が悪い時以外は、毎晩の晩酌を欠かさないという昭和の男でありました。
ビールはサッポロ黒ラベル、日本酒は山田錦と決まっている、そんなおじさんでした。

が、今年初めにかかりつけのお医者さんから、血液検査の結果、ヘモグロビンA1Cの値がとても悪い上に中性脂肪が基準値を大きく超えていることを指摘され、このままだと糖尿病だのなんだのと脅された挙句、ダイエットを命じられました。

父は、大好きだったお酒をやめました。
運動は、気が向いた時にウォーキングに行くくらい。
それだけで体重が3ヶ月で4キロほど落ち、数値も正常値まで回復したらしいのです。

睡眠の浅さや体のだるさも飲酒をやめたところなくなり、「酒を飲まないことのメリット」を随分感じているようです。
なので、今でも気が向いた時に軽く飲む程度で、基本的には酒を飲まない日々を続けているらしいです(なお、体重に関していうと、テラバヤシも酒を飲まなくなってから多少落ちました。が、これは飲酒をしなくなったせいなのか、咳のしすぎで腹筋を激しく使ったからなのかはよくわかりません。体調が戻るとリバウンドするかもしれませんし)。

テラバヤシは、どうやら「酒に強い人」で通っているようで、今書いたような話も「体が弱っているうちの戯言でしょ」と言われるかもしれません。

が、お酒って飲むメリットより飲まないメリットの方がはるかに大きいんだな、ということを、この度身をもって知ることができました。

9月で弁護士生活満10年にもなることですし、飲酒の件も含めて、自分にとって心地いい毎日とは何かを、食生活も含めて考えていければいいな、などと思うのでありました。




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by terarinterarin | 2017-07-24 21:47 | Comments(1)
「フィリピンの女の人なんて、日本人の金持ちの男をつかむのが目的で、日本の飲み屋で働いてるんでしょ。そういう男つかんで楽しようという魂胆が許せない。日本に入れなきゃいいのに。」

何年か前に、知り合いにこんなことを言われたことがありました。
かなり古くからの結構親しい知り合いで、家族ぐるみでよくして頂いた方だったので、こんな言葉が出たのを聞いた時には、ちょっとびっくりしました。
と同時に、悲しくなりました。

私は、弁護士登録して3年目頃から現在に至るまで、ぽつぽつとフィリピンの女性の依頼を受けて仕事をしてきました。
日本で生活している人、フィリピンにいる人(故に打ち合わせはスカイプで行ったりします)、様々ですが、そのほとんどは、最低でも一度は来日していて、日本のクラブやパブでショーに出たり、男性相手の接客をする仕事をしていました。
彼女たちの目的は、日本で少しでも多くの金を稼いで、フィリピンにいる家族に送金し、家族たちが少しでもいい暮らしができるようにすることでした。
その過程で日本人の男性と出会い、恋に落ちて関係を持ち、そのまま結婚したり、子供ができたりした後、様々な事情により過酷な環境に突入してしまったりするのですが、少なくとも私がこれまでに会ってきたフィリピンの女性は、先の知り合いが言うようなよこしまな目的で日本に来たわけではなく、毎日を必死に生きている人たちでした(もちろん、中には、「いい男さんをつかんでいい暮らしをするぞ」という人もいると思いますが、日本人の女性だってそういう人はあまたいるのであって、それ自体非難に値するようなことでは全くないと思います)。
私は、自分の考えをはっきり言い、子供や家族に対する愛情が深く、正直なフィリピンの女性にお会いするたびに、「ああ、いいなあ」としみじみ思うのでした。
知り合いが持っている「日本に来るフィリピン女性」に対するイメージは、実際のそれとは全くかい離していて、私は、この話を聞いた後、ちょっとムキになって、「フィリピン女性は素敵な人々である」ということを語ってしまったのでした。

弁護士の中でも、偏見が先に立って話を聞かないという人はいるようです。
これも何年か前の話ですが、SNSで知り合ったものすごく年上の男性と交際し始めて子供ができたので結婚したが、とんでもない変質的な男で何とか逃げてきたという10代の女性から、離婚の依頼を受けたことがありました。
私の前にその女性が相談した女性の弁護士が、彼女の話を聞くや、「そんなふしだらなことをして何を言ってるんだ、自業自得だ」と怒鳴りつけて追い返したということを聞きました。
自分の力では解決できないので、また弁護士のところには来てみたものの、また怒鳴りつけられるのではないかと、その女性は私の前でのびくびくしていました。

確かに、法律相談を受けていると、「その判断はどうだったんだろう」、「なんでここで立ち止まれなかったんだろう」と思うことは結構あります。
実際に依頼を受けても、その人の従来までの発想の仕方や物言いが原因で、事件の解決が阻害されることもなくはありません。
そういうときは、「そういう考え方はこの先やめないとトラブルが大きくなりますよ」と言うこともありますし、その指摘が元で依頼者との関係が悪化することもあったりします。
しかし、根本的には、その人がそれまで歩んできた人生というのは、その人が置かれていた環境があったからこそ出来上がってきたものなのであって、自分がその人生の当事者でなく、実際にその人の人生を体験していない以上、否定したり揶揄したりすることはできないんじゃないか、と、私は思います。

それは、どんな事件の当事者でも同じです。
日本人だろうと、外国の人だろうと、犯罪を犯した人であろうと同じなのだと思うのです。
「犯罪者」などというと、また「犯罪者に甘い」「犯罪者のすべては否定すべきである」などという意見も飛び出してくるような気がします。
しかし、犯罪を犯した人の人生を振り返り、それをみつめて分析することは、その人の更生を促し再犯を防ぐことにもつながります。一般的な犯罪予防の手掛かりになることもあるはずです。やはり、同じだろうと思うのです。

「とにかく話をよく聞いてあげるんだよ」

この言葉は、私が最初に入った事務所のボスが、初めて国選の刑事弁護をやることになった私にかけた言葉でした。
弁護士になってもうすぐ満10年になります。
いつもふざけているボスでしたが、奥にある意味は結構深い言葉なんだなあ、としみじみ感じたりするのでした。









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by terarinterarin | 2017-07-08 22:46 | Comments(2)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terarinterarin