以前も書いたことがあるような気がしますが、テラバヤシはフィギュアスケートを見るのが大好きです。
この週末も、韓国で開催されているフィギュアスケートの四大陸選手権の放送を楽しんでおりました。

女子シングルでは三原舞依さんという初出場の日本人選手が初優勝を飾りました。
現在の日本のエース宮原知子さんを思い出すような(と言っては三原さんに失礼ですが)、生真面目な人柄と正確な技術。インタビューの受け答えも初々しく生真面目で、キス&クライでの振る舞いも愛らしく、今後彼女のファンがどんどん増えて行くんだろうな、彼女のことを嫌いというスケートファンはきっとあまりでてこないだろうな、と思わせる選手です(私も、非常にほほえましく拝見しておりました)。

その一方で、今回その力を全く発揮できなかった選手がいました。それがタイトルにも書いた樋口新葉さんです。
樋口さんは、まだ高校1年生。今シーズン、ジュニアからシニアに上がって世界レベルの大会にも続々出場。全日本選手権で2位になり、今回の四大陸選手権と3月の世界選手権の日本代表を勝ちとりました。
ジュニア時代からスピード感あふれる演技と難易度の高いジャンプを武器に国際大会で良い成績を収めており、シニアに上がった今年は、さらなる活躍が期待されていました。
宮原知子さんが故障で四大陸選手権を欠場することとなったあと、表彰台に上がることを期待されていたのは、ジュニア時代の成績や全日本の順位から考えて、三原さんではなくむしろ樋口さんだったでしょう。
しかし、ショートプログラムでもフリースケーティングでもミスを連発して、まさかの9位に沈んでしまいました。
フリースケーティングの後はキス&クライで人目もはばからず、号泣していました。

樋口さんは、宮原さんや三原さんとは対照的な選手です。
インタビューを受けても、ニコニコ受け答えすることはほとんどありません。
アナウンサーが、テレビ受けしそうなコメントを拾おうとかなり誘導的な質問をしても、空気を読んで気の利いたコメントを言うこともありません。今回も、アナウンサーがかなり誘導したのに、しばし沈思黙考した後、最低限のコメントしかせずにその場を去っていきました。

日本では、女子スケート選手(特に若い選手)で人気が出るのは、清潔感や可憐さ、愛らしさがある選手です。宮原さんも三原さんもそうですし、昨年世界ジュニア選手権を制した本田真凛さんは、「愛らしい」を体現したような選手です。日本人の多くが大好きな?浅田真央さんもそうでした。
しかし、樋口さんは、それに逆らうかのような大人っぽい色香の漂う演技をする選手です(シニアに上がってから、急にそのような演技になりました。ばっちり本人の雰囲気にはまっています)。メイクも、清潔感よりは色っぽさを強調するものです。

日本の女子フィギュアの歴史をさかのぼると、伊藤みどりさん、荒川静香さん、村主章枝さん、安藤美姫さんなどなどと個性的な選手が何人も思い浮かびます。しかし、最近は、小粒であまり個性が際立たない女子選手が多くてつまらないなと思っていました。樋口さんは、テラバヤシから見れば、久々に出てきた個性派です。

号泣している樋口さんの姿を見ながら、面白い人だな、頑張ってほしいな、と思いました。そして、ふと、考えました。
これって、我々の業界にも言えることなのかなあと。

テラバヤシの事務所は、おひとりさまのこじんまりしたところですから、修習生を迎え入れることは、今のところありません。
しかし、それでも業務上修習生と関わることはありますし、弁護士会の研修などで、新人の弁護士さんにお会いしてお話をさせていただくことも決して少なくありません。
最近の修習生や、新人の弁護士さん、皆さんまじめそうな感じに見えるのですが、爆発力というか、個性というか、「いっちょやったるで」というギラギラした感じを漂わす人に会ったことがないなあと思うのです。
「まじめで」とは書かず、あえて「まじめそうな感じに見える」と書いたのは、実務修習中の修習生なんかに会うと、場合によっては「別に興味ないけどカリキュラムとして必要だからやっている」感ありありの人なんかもいたりするし、新人弁護士の研修も同じで「会でやれって言われたから出ている」という態度がにじみ出ている人も少なくなかったりするからです。
決められたカリキュラムをこなしはするけれど、それさえすれば結末がある程度約束されていて、かつ他に力を注がなければいけないものがある(就職とか2回試験とか、ボスに与えられた仕事とか)のであれば、それ以上はやらない、みんなそうだしね、という「レールの上に乗って右ならえ」的な人ばっかりだよな、と感じるのです。

テラバヤシが弁護士になった10年前も、おそらく先輩弁護士から見れば、「小粒な奴が増えた」と思われていたのだろうと想像します。私が受かったのは、新司法試験元年。旧試験合格者と新試験合格者が初めて弁護士になった「弁護士業界大量流入時代」の幕開けともいえる時季でした。いい具合に希釈された薄味な人間が業界内に急に増えたと思った同業の先輩は、いっぱいおられたのであろうと思います。

しかし、それでも、少なくとも私の周りには、同期や少し上の先輩も含めて、「変な人(注:必ずしも悪い意味ではありません)」は結構な数存在しました。
特に法テラスの同期や1,2年上の先輩(特に1年上の先輩)の中には、社会人としてちょっとどうなのだろうと首をかしげるような言動の方も何人かはいたりして(いや、テラバヤシもそう思われていたのは百も承知で書いてますが)、スタッフ弁護士のメーリングリストは、そういう人たちの発言をめぐって大炎上することもしばしばありました。
もう、樋口新葉や安藤美姫なんてかわいいもんで、(かなり古いですが)トーニャ・ハーディングレベルの人がゴロゴロ?していたわけです。
メーリスの炎上が何かを生んでいたわけでは決してありませんが、あのころ、メーリングリストを炎上させていたスタッフ弁護士の何人かは、今や、自身のフィールドを確立し、大活躍しています(ここで固有名詞を挙げることは控えさせていただきたいと思います)。

弁護士の仕事は、決して社会常識にかなうものばかりではありません。一般の人から「ゲスい仕事している」と非難されることでも、しなければならないことは多々あります。
そういう仕事の中身を考えた場合、長いものに巻かれない(巻かれることができない)個性派が一定数いることは必要ですし、たくさんは必要ないと思うけれど、「ブチ切れた感覚」の持ち主もいなければならないと思うのです。

体を使った技術の極限と芸術の極限を追及していくフィギュアスケート界では、常人と違う感覚を持っていることが有効に働くことが多いといえましょう。レールの上に乗って右ならえ、では、決して、人の心や歴史に残るスケーターになることはできないのではないでしょうか。

かなり無理やりな感じもしますが、一般社会の感覚とは違った感覚で仕事をしなければならないことが多い弁護士の世界も、とても似ていると思います。個性派や異端が必要ですし、それを受け入れる空気が業界内にないといけないように思います(未だ失われはいないと思いますが)。

トーニャ・ハーディングになれ、とは言いません。
でも、修習生や新人の弁護士さんの中に、せめて樋口新葉さんくらいの人はいてほしいなと、思うのであります。




[PR]
# by terarinterarin | 2017-02-20 01:46 | Comments(2)
行政官はゴルフをやる。司法の人間はテニスをやる。
こんな話を聞いたのは、私がまだ司法試験を受ける前に大学院に所属していたころの話だったでしょうか(つまり、随分古い話です)。

なんとなくそんなことを頭の片隅に置いたまま、司法試験に受かり、修習生になり、そして弁護士になりました。
「司法の人間はテニスをやる」なんて、弁護士になって10年目を迎える今日まで、全く実感したことがありません。

確か民事裁判修習で配属された部(札幌地裁)の部総括判事がテニスをおやりになっていたと思いますが、その部でテニスをやっていたのはその人だけ。刑事裁判修習の配属部では、部長も右陪席も左陪席もテニスには全く縁がありませんでした。右陪席はコンサドーレ札幌の熱心なサポーターであり(試合がある日はそそくさとお帰りになっていました)、左陪席は野球人でありました。
検察修習の際にお会いした検察官は、どなたもスポーツとは程遠い感じの方ばかりでした(どちらかというと「呑む」というイメージです。なお、主観ですので問題発言扱いはしないでください)。

弁護士になった後は、なかなか裁判官や検察官とプライベートの話をすることもなくなりましたが、それでも数人の方とは、ざっくばらんにお話しする機会がありました。
が、やはり「テニス」をやっているという方はどなたもいらっしゃいません。
かの有名な岡口裁判官は、SNSで拝見する限り、筋トレ、そして水泳と、テニスとは全く縁がなさそうにお見受けされます。
知り合いの検察官にも、やはりスポーツのイメージは一個もありません。

弁護士の知り合いの中では、ひとり、東京ディフェンダー法律事務所のY弁護士がテニス男子ですが、「趣味でテニスを楽しんでいます」という爽やかさはみじんもなく、ガチすぎてむしろ怖いくらいです。「司法の人間はテニス」という言葉の趣旨とは全く違うレベルにいるように感じられます。

Y弁護士はさておくとして、弁護士がやるレジャー、スポーツというと、みなさんやはり「ゴルフ」を思い浮かべるのでしょうか。
弁護士というと、依頼者にたっかい報酬を支払わせ、それで豊かな私生活を送っている…というイメージとともに「弁護士=ゴルフ」とワンセットでお持ちの方が、今でもたくさんいらっしゃるのでしょうか。

「弁護士はゴルフをやる」というのは、今は昔のお話、というのが個人的な感覚です。
正しく言えば、ある一定の年齢層の弁護士は、今でもゴルフをある程度おやりになっているように見受けられます。
テラバヤシが所属している東京弁護士会内の派閥のメーリングリストでも、ゴルフの大会や親睦の告知が年に数回はありますので。
が、少なくとも50期代の後半(経験14,5年以下)のゴルフ人口は、激減しているといっても過言ではない、と思います。
多くの弁護士会には野球チームやサッカーチームがあり、大会も開催されています。
そのチームに所属している弁護士の知り合いが結構います。
サッカー、野球以外では、マラソン、そして、目的はよくわからないけれど、やたらめったら鍛えている人(愛知県弁護士会所属で事務所に筋トレのマシンがあるという噂の方もいます。)…個人でスポーツを楽しむ類の人が多いように思います。

ゴルフをよくおやりになる世代というのは、バブル期にすでに弁護士だった方ではないのでしょうか。
このころは弁護士人口も少なかったし、仕事もたくさんあり、たいていの弁護士は儲けていたのでしょう。
人は、もしかするとお金を持つとゴルフをやりたくなるのかもしれません。
グリーンに出るところまで想定すると、ゴルフは、スポーツの中でもかなりの資金を要するものでしょう。
弁護士のステイタスのひとつがゴルフ、だったのだと思います。
顧問先からの接待でゴルフ、というのもあったんでしょうし(縁のない時代の話なので、想像想像)。

しかし、法曹人口が司法改革とともに激増し、そのしわ寄せがドドンと弁護士業界に押し寄せ、今や私たちの業界はパイの奪い合いの状態です。
常に大儲けの弁護士なんてほんの一握りであり、「まあまあ余裕がある生活」を送れるのであれば、弁護士としてはまあまあ成功しているという時代になりました。
また、Jリーグができて日本の社会に定着し、日本人も普通にサッカーに親しむようになったり、一般人がフルマラソンに気軽に挑戦するようになったり、普通の人が触れるスポーツの種類が増えてきたという事情もあるでしょう。
ストレスを解消したり、健康維持するにあたり、別にゴルフみたいにお金かけなくてもできるものがたくさんあるし、ゴルフなんてそもそも興味ないし…という人間が、我が業界の中に普通に増えてきたのだと思います。
顧問先でゴルフ接待できるほど資金があるところも、もうほとんどないのでしょう。

ゴルフというのは、一緒にラウンドを回る人との親睦を深めるのにちょうどよいレジャーのようで、かつて弁護士業界でゴルフをする人が多かったのは、このあたりの事情に負うところも多いのかな、と思います。情報収集の意味もあったのかもしれません。
そういう意味では、ゴルフはその役割を、SNSなどにとられることになってしまった、ともいえるように思います。

ちなみに、テラバヤシは、ゴルフは全くやりません。
やろうとも思いません。
虫が苦手だし、お日様が照るなか、日がな一日表にいるなんて、お肌に悪そうです。
天気の悪い日に一日中外にいるのはもっと嫌です。
なにより、前にも書いた通り、そもそもが協調性がない性格なわけですから、休みの日にまで半分仕事みたいな感覚で、他人と一緒に長時間ラウンドを回るなんて、まっぴらごめんというのが本音です。

テラバヤシは、自宅で毎日ちょこちょこ鍛えるのが好きです。
腹筋、背筋、腕立て伏せ、スクワットに腿上げを毎日日課としております。半年前からはラジオ体操が、2か月前からはエア縄跳びがこれに加わりました。
そして、年明けからは友人と二人、たまにボルダリングを楽しんでいます。

そういえば、ボルダリングは、親睦を深めるにはいいスポーツです。
ひっきりなしに登っているわけではなく、休憩しながらマイペースで登るので、話をする時間がたくさんあります。
運動量もゴルフよりははるかにあるし、健康維持と親睦を両立するには、もってこいではないかと思います。



[PR]
# by terarinterarin | 2017-02-16 22:30 | Comments(0)
稀勢の里が久しぶりの「日本出身横綱」になりました。
確かに日本出身大関勢の戦いぶりは、しばらくの間物足りないことが多かったですし、相撲は日本の国技。
久しぶりの「日本出身横綱」の誕生が歓迎されること自体は、避けられないことだし、当然のことだと思います。

しかし、明治神宮にびっくりするくらいの人が集まったり、ワイドショーで連日取り上げたりというばか騒ぎぶりを見て、テラバヤシはちょっと嫌な気持ちになりました。

大鵬が持っていた優勝回数の記録を白鵬が超えた時にも感じたことですが、本当は、日本人は、外国出身の関取が日本相撲界で活躍することを快く思っていないのです。いや、正しく言えば、ある程度強くて相撲界を盛り上げてくれること自体は歓迎しているのでしょうが、横綱や大関という頂点の番付に君臨して日本人の上に立っていることを苦々しく思っている人、潜在的に快く感じていない人が思いのほか多いのではないでしょうか。
今回の稀勢の里フィーバーに、私は、「日本人が持つ潜在的な差別意識」を強く感じたのでした(稀勢の里もとんだ重荷を背負ったものだと思います)。

日本では近年在日朝鮮人に対する「ヘイトスピーチ」が繰り返されており、そのような活動を支持する声も存在しています。最近は、日韓合意に反する形で設置された慰安婦像をめぐって日本と韓国の関係はまた冷えたものになりましたし、北朝鮮との関係では、拉致問題について解決の糸口すらありません。
そんな国際関係の問題がお門違いな形で在日朝鮮人に対する嫌がらせや憎悪、ヘイトスピーチの許容につながるようにも思えます。

思えば、戦後の復興期、日本全体が熱狂したプロレスの大スター力道山は、在日朝鮮人でした。
アメリカのプロレス界で「卑劣なジャップ」というキャッチコピーで活躍したグレート東郷というプロレスラーは、その出自が謎に包まれていますが、在日朝鮮人だったとか在日中国人だったという噂が根強く残っています。
アメリカプロレス界から日本にレスラーを招聘したり、アメリカのプロレス界に日本人プロレスラーを送りこんだりして、戦後の日本のプロレス界を盛り上げ、引っ張っていった立役者の二人が、在日朝鮮人の力道山と「生粋の日本人ではなかったのかもしれない」グレート東郷だったのです。

現在の日本の相撲界と非常によく似た構造だったと言えるのかもしれません。
思えば、白鵬がその記録を抜いた大鵬だって、ウクライナ人とのハーフでした。高見山や小錦、曙というハワイ出身力士が日本相撲界の人気を支えていた時代もありました。
なにもプロレスや相撲などの格闘技の世界に限った話ではありません。
私がいる弁護士の業界には、在日朝鮮人や中国人で目を見張るような活躍をしている方が何人もいますし(今回この記事を書くまで、わざわざ思い至ることすらなかったほどです)、少なくとも都市部の飲食店や小売店では、日本出身ではない方々が普通に働いています。

「日本の社会は生粋の日本人のもの」という考えや潜在意識は、根拠なんて全くない空虚なものとしか言いようがありません。

アメリカでは、新しく大統領になったドナルド・トランプが「不法移民の取り締まり」の名目で、メキシコとの国境に壁を作ると言いだしたり、「テロリストの入国を防ぐ」という名目で、中東7か国からの渡航者の入国を規制しようとしました。
確かにお題目自体は正当なもののように思えますが、その芯の部分にある思想は「メキシコ人や中東の人間をアメリカ国外から排除したい」という排外主義にあることはまず間違いありません。

日本では、このトランプの政策は否定的にとらえられており、これに賛同する論調の意見は今のところ目につきません。トランプと仲良くしようとする安倍首相に対して懐疑的な視線が寄せられてもいます。
そして、その否定的な論調の中心は「アメリカは移民の国で、そんなことしたら自国の成り立ちを否定することになるではないか」というものです。
この見方の根底には「アメリカは日本とは違う移民の国」という考えが潜んでいるといえるでしょう。

しかし、ほんとうにそうなんでしょうか?

そもそも、人類の歴史は「移動の歴史」といえます。
アジア人と言えば、日本や韓国、中国等々のいわゆる「アジア諸国」に住んでいる人というイメージがありますが、フィンランドやハンガリー、ロシアにもアジア系の住民は暮らしています。
遠い昔には、中国や朝鮮から日本に渡ってきた「渡来人」と呼ばれる人たちがいました。
テラバヤシの故郷は札幌ですが、今思い返してみると、名前は日本風の苗字と名前ではあったものの、顔立ちから想像してスラブ系のご先祖様が近いところにいるのかもしれないという人が何人かクラスにいました。
「内地の人」に侵略された北海道原住のアイヌの人々も、同じ地域で暮らしていました。

そう考えてみると、日本とアメリカの「移民性」の違いなんて五十歩百歩、大した違いなんかありません。
日本人の多くが想定している「生粋の日本人」「日本出身の日本人」の概念なんて、先ほども書いた通り、実に空虚なもので、トランプが頭の中でこしらえている「アメリカ人」と同じようなものでしかないのだろうと思います。あえて定義するとすれば「支配層の政策によって同化された人種・民族に属する人々」ということにしかならないように思えます

つまり、何が言いたいかというと「稀勢の里万歳」とか騒いでる「日本人」は、実は気が付かないだけで排外主義的な思想に染まっていて、その根っこはトランプやトランプの政策を支持している人々と似たり寄ったりなんではないかということです。
私たち、冷ややかな目でトランプやトランプ支持者を眺めていますが、実は、「日本人くさくない人」に対して、同じような視線を向けているんじゃないでしょうか。

先ほど、今思えば子どものころスラブ系のハーフやクオーターと思しき人がちらほらクラスにいたという話をしましたが、その人たちが自分たちの出自について自ら打ち明けるようなことはありませんでした。
何人か思い当るその人たちは、偶然かもしれないけれど皆おとなしく目立たない人たちでした。
もしかすると、出自がばれた時の差別を恐れていたのかもしれないと、今になって過大に妄想を膨らませてしまいます。

自分の母方の祖母は、輪郭と言い顔立ちと言い、アジア人離れしています(全く私の顔には反映されていませんが)。
祖母の両親は、祖母が幼いころに二人とも早世しており、祖母自体が両親の出自を聞くことはなかったようです。
うちは大した家柄でもないので家系図もありません。もしかしたら改製原戸籍とか丁寧に追っていけば、何かわかることがあるのかもしれないけれど、それで何か知ることがあったとしても、自分の今の生活が変わるわけでもありません。何より面倒です。

自分はこんなことは馬鹿らしいと思っているけれど、世の中にはそうではない人が大勢いるようです。
生産的じゃないと思うのは、私だけでしょうか。








[PR]
# by terarinterarin | 2017-02-05 21:49 | Comments(4)
AV出演を拒否した女性に対する事務所側の損害賠償請求を代理した男性弁護士が日弁連により懲戒審査相当と判断されたというニュースが、我々弁護士の間で、物議を醸しています。

ニュースのURLはこちら。
http://www.sankei.com/affairs/news/170119/afr1701190001-n1.html

弁護士に対する懲戒請求は誰でもすることができます。今回の件も事件とは関係のない一般の男性が行ったようですが、全く無関係な誰かによる懲戒請求も認められるのです。

懲戒請求があると、まずは、請求された弁護士が属する弁護士会の綱紀委員会というところが、懲戒の審査をするのが相当かどうかを判断します。この決定に対しては、日弁連に不服を申し立てることができます。
弁護士会や日弁連の綱紀委員会で懲戒審査相当という判断をすると、今度は、その弁護士会の懲戒委員会というところが、懲戒すべきかどうか、懲戒するとしてどの程度の処分にすべきかを決めることになります。この決定に対しても日弁連に不服を申し立てることができます。

今回の件は、一度、第二東京弁護士会の綱紀委員会が懲戒審査不相当という決定を出したことについて、懲戒請求した男性が日弁連に不服申立をしたところ、日弁連が判断を覆したとのことです。

このニュースを額面通りに受け取ると、弁護士は依頼を受けて、その依頼に沿って訴訟提起をしたことによって、同業者の団体により「あいつは罰するべきだ」と判断されたことになります。
もしそうだとすると、その判断は、弁護士自身が自分たちのクビを締めることになってしまいます。

依頼者が弁護士に対して本当のことを話さないということもあり得ます。
実は結構あります。
裁判してみて、相手方から出てきた(致命的な)証拠を見て、「え、聞いてない」ということもあります。

不利な点も含めて事情を説明してもらった結果、訴訟を起こしたのだとしても、その請求が「不当請求」と考えざるを得ないかどうかについての判断は、実際には難しいことも少なくありません。

この男性弁護士が、依頼者から、女性がAV出演を拒否した際に違約金を支払えと言った話を聞いていたとしても、もしかすると女性と依頼者の間の契約書にAV出演を前提とする条項等があった可能性もあるわけですし、そうではなくても、弁護士から見て、請求が認められないほどの脅迫行為があったとは判断しないだけの事情があったということも、状況によっては十分にありうるのです。

つまり、何が言いたいかというと、訴訟なんてものは、やってみないと、反対当事者からどんな反論が出てくるかわからないし、裁判所の判断は、「結果論」でしかない場合が往々にしてある、ということです。

日弁連の判断が仮にニュースに書かれている通りの内容なのだとしたら、少しでも不当な請求との認定を受けそうな事件を、弁護士は一切受任できなくなってしまいます。
しかも、さっきも書いた通り、裁判所の判断は結果論でしかない場合が往往にしてあるのですから、「不当請求って言われるかも」という反応が過剰に行われてしまい、弁護士が、「余裕で勝てる案件」しか受任しなくなるなんてことにもなりかねません。
市民に対する司法サービスが著しく低下する事態を招く現実的な危険性があります。

それだけではありません。
これは、FBで私の元兄弁が書いていたことですが、「刑事弁護」というものが一切できなくなってしまいます。
無罪を主張したり、もっと軽い罪だと主張したりしても、裁判所が「結果として」有罪、あるいは検察官が主張する通りの重い罪だと認定した場合には、弁護人が懲戒されうることになります。
ついでに言うと、例えば離婚訴訟を起こした側について、判決で「結果として」不貞などの有責性が認められ、請求が棄却された場合にも、代理人は懲戒されうることとなってしまいます。
刑事事件も離婚事件も、怖くて誰も受けられなくなってしまいます。

確かに、弁護士法の1条には、「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」と定められています。
当たり前のように併記されていますが、「基本的人権の擁護」と「社会正義の実現」は時として相反するものです。
死刑求刑が予想されるような残忍な事件の弁護活動などは、まさにその最たるものでしょう。

さらに弁護士法3条には、弁護士の職務として、「当事者その他関係人の依頼…によって、訴訟事件…その他一般の法律事務を行うことを職務とする」と定められています。これは、弁護士の職務が「個」の利益の実現を図ることを定めているといえましょう。
これも「社会正義の実現」とは時として相反するものになります。

つまり、弁護士は、「個の利益の実現」と「社会正義の実現」という相反する利益を追求するという矛盾した責務をそもそも負っている職業ということになるわけです。

検察官は法的に「公益の実現者」であることが求められ、裁判所は中立公正を堅持しなければならないとされています。
法曹の中で「個」を守りなさいと言われているのは、唯一弁護士だけなのです。

その弁護士が、純然と個の利益を図ろうとした結果、「社会正義」の名のもとに、それが悪いとそしりを受けてペナルティを科されるとなると、「全体の中の個」を守ることを法的に保障される立場の存在が、日本社会から消されてしまうことになります。
仮に、日弁連の今回の決定が報じられている通りなのだとすれば、日弁連は、自分たちの職責を放棄せよと言っていることになるのです。

そんなアホなことがあっては、たまりません。

よく「盗人にも三分の理」という言葉があります。
盗人の三分の理が何なのかを考えて、それを主張するのが、弁護士の仕事なのです。
それがたとえ、裁判所に受け入れられなくても、検察官にせせら笑われても、弁護士はそれをしなくてはならないのです。

ニュースには、必ず裏側があると私は思っています。
今回の件だって、きっときっと、表面の部分だけをなぞって報じた結果、あんな書かれ方になったに違いない、そう思っています。
いくら「個の利益」を守ることが職責だとしても、「品性」失ってはいけないのであって(弁護士法2条参照)、例えば、明らかに不当な高額要求をしていたり、女性について事実に基づかない誹謗中傷を裁判中に繰り返したりなどということがあって、今回の逆転「懲戒審査相当」になったのだとすれば、理解できます。

しかし、そんな事情すらなかったのだとすれば、今回の日弁連綱紀委員会の「懲戒審査相当」判断は、はなはだ疑問としか言いようがないのです。

*追記*2017.1.20
表現に不適切な個所がありましたので、本日修正いたしました。







[PR]
# by terarinterarin | 2017-01-19 18:14 | Comments(3)
皆様、あけましておめでとうございます。
明日も休んでしまうテラバヤシです。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

年末年始は、独り身のこともあって、毎年帰省しております。
帰省すると、いつもは、何人かの友人知人らに連絡をしてランチをしたりのみに行ったりしますが、今回は、ほとんどそういうことをしませんでした。
「人に会って気を遣う」ことをしない過ごし方をしたかったわけです。

弁護士というと、「人」や「人に会うこと」に対するストレスや苦手意識がない人、あるいはむしろ得意とする人の集団であるというイメージを持つ人が多いと思いますが、実際のところ、必ずしもそうではありません。
そういうことが苦手な人が、実際のところは大勢いるようです。

まず自分の話をしますと、(前にも何度か書いた気がしますが)テラバヤシはもともと結構な人見知りです。
白状すると、「中途半端な知り合い」が自分の少し前を歩いていたり、同じ地下鉄の車両に乗っていたりすると、歩くスピードを落としたり、道を変えたり、その辺の店に入ったり、車両を変えたりします。

学生時代に家庭教師やら塾の先生やら予備校講師やらをするようになって、後天的に、社会生活を送るために必要な程度までは克服し、周囲の人からは、一見人見知りとは程遠い人間に見られるようになりました。
が、実際のところは今でもこんな体たらく。
自分の方から、発見してしまった「中途半端な知り合い」に声をかけることは、100回に1回あるかどうかです(正面からいらっしゃった方には、脊髄反射で、ニコニコご挨拶します)。

もちろん、他人と会話することが常にストレスになっているわけではなく、仕事で初めてお会いする方とお話しすることは全く平気ですし、「本当に仲が良い」「本当に気心が知れている」と自分が認識している人と会ったり、一緒にご飯を食べたりすることは、楽しいです。苦になることはありません。
が、プライベートで「本当に仲が良い」「本当に気心が知れている」と思える人の範囲が非常に狭く、かつ、その範囲に収まらない人と仕事を離れて一緒に時間を過ごすということになると、ある程度、あるいは相当程度の気合を入れる必要が生じてしまうのです。

大勢が集う飲み会というのも苦手意識が強いイベントのひとつです。
これも常に全ての飲み会がダメというわけではなく、「立ち入った話」をしないで済む、完ぺきに「仕事上の行事のひとつ」と割り切れる飲み会であれば、苦も無く出席できるのですが、中途半端に「立ち入った話」が生じてしまったり、見たくもない醜態がさらされがちな「仕事上の行事」とは言い切れない飲み会になると、お断りできない場合には、相当な覚悟を持って臨むこととなってしまいます。

こういう大勢の飲み会に行くと、気が利いた行動を何ひとつとることができないのがテラバヤシの特徴です。
頃合いを見計らって席を移る人。
ビール瓶や徳利をもって、上下の別なく話をしに行く人。
「写真撮りましょう!!」と声をかける人。
そういう人たちを見ると、「すごいなあ」、「えらいなあ、気が利いて」、「出世するのはこういう人なんだべなあ」などと感心します。
どれひとつとして実行できることがありません。

そして、こういう飲み会から帰る道すがら、気が利くすごい人たちの姿を思い浮かべながら、「やはり自分には社会性がないのだ」「協調性ってものがないのだ」などと落ち込むことがお約束になっていました。

しかし、そんな「社交性のない」ダメ人間?は、ワタシだけではないと思わせてくれる出来事が昨年ありました。
昨年の秋、とある偉い先生のとある記念日を祝うパーティが開かれた時のことでした。
とてもとてもとてもお世話になっていた先生のパーティへのご招待でしたので、テラバヤシはそれなりに張り切って出席しました。
もちろん規模が大きかったため、ある程度の気合を入れての出席となったことは白状しなければなりませんが…

そのパーティは特に席が決まっていない立食のパーティでした。
私がついたテーブルには、弁護士になってわりに間もないころからよく知っている弁護士が集いました。
気心が知れていたり、なんとなく波長が合うと感じている人たちばかりで、とても居心地が良いテーブルでした。

そのテーブルのメンバーは、パーティの2時間ほどのうち、都合1時間半は、ほとんど誰もそこから動こうとしませんでした。
ほぼ全員が同じテーブルを囲んで、酒を飲みつつ、料理を食べつつ、そのテーブルにいるメンバー同士で話をしていました。
カメラを持って、せっかくだから写真を撮ろうと何人もの人が行きかうのをしり目に、「ああいう人たちはえらいなあ」、「自分たち、ここでいいよね」などとつぶやきながら、その場にステイしていたのです。

同じテーブルにいた人たちの名誉のために言いますが、問題がある弁護士は誰一人としていません。
皆、会務活動では積極的に発言し、地元の単位会で重要な役割を担い、そして刑事事件で無罪判決を得るような優秀な弁護士たちばかりです。
そういう面々が、実際のところは、社交性の皮をかぶった「隠れ人見知りちゃん」だったことがわかったのです。

ワタシだけじゃないのかあ。
自分のことをいたずらに「ダメ人間」だと思う必要はないのかもしれない。

とても安堵しました。

考えてみれば、弁護士を目指す人間の中には、「会社勤めは自分は無理、いや」という動機から出発する人間も少なくなく(私も目指した理由の2番目か3番目はそうですが)、そうすると、その中には「人見知り」「団体行動が苦手」という人も結構な割合で含まれているはずなのです。
皮肉なことに、企業法務であれマチ弁であれ、弁護士は人と会って人から話を聞いてコミュニケーションをとるのが仕事。
そういう本来の属性からは得意ではないことを職業的に繰り返していくうちに、後天的に仕事をするうえで必要な程度に、「苦手な人付き合い」が克服されてきた人が、案外大勢いるような気がします。

日本の社会では、苦手を克服することが良しとされる風潮が強いように思えますが、テラバヤシは、この点に関しては開き直っていこうと思います。
2017年は、よりわがままに無理をしない生活を心がけていくのが目標です。





[PR]
# by terarinterarin | 2017-01-03 18:41 | Comments(0)
先日の投稿で年内終わりの予定でした。

しかし、今年を閉めようと思った時、ひとつ気になることが出てきてしまいました。

このブログが法テラスネタで注目されてから、「弁護士として生活していく中で思ったよしなしごと」を書こうという初心をやや忘れ、社会的な出来事ばかりについて書くようになってしまいました。
無意識のうちに「取り上げられたい」「いいね!いっぱいほしい」などというあさましい気持ちが芽生えていたのです。

お陰様で?BLOGOSのブロガーにもしてもらい、投稿が転載されるようになりました(コメントは罵詈雑言が多そうだと思って怖くて見ていませんが)。

弁護士10年目を過ぎた2016年の年の瀬、初心に戻って、何の示唆もない話を投稿して終わろうと思うに至りました。そうしなければ、なんだか悔いが残りそうだと。

そこで、今日はくだらない話を書くことにしました。

弁護士にとってスケジュール帳は、なくてはならない必須アイテムのひとつです。
訴訟や調停の期日、打ち合わせや相談の期日をすっぽかすわけにはいかないですし、何か月も先のスケジュールを押さえなければならないこともあります(テラバヤシは、つい最近2017年9月のスケジュールが押さえられてしまいました)。
そんなことを覚えていることは不可能ですし、埋まったスケジュールの隙間にさらにスケジュールを入れなければならないこともあります。手帳とにらめっこする必要があります。
家族や恋人よりも一緒にいる時間が長い、スケジュール帳は、弁護士にとって、そんな存在です。

最近では、スマホのスケジュール機能やグーグルカレンダーでスケジュール管理をしている弁護士も結構いるようですが、テラバヤシは手帳派です(大きな事務所ではグーグルカレンダーで弁護士のスケジュール管理をしているところも少なくないようです)。
以前、スケジュールから友人知人の連絡先からデータ化して管理していた友人が、それらをすべて誤って消去してしまうという大惨事を見たことがあるからです。

さて、弁護士が持つスケジュール帳と言えば、「訟廷日誌」という分厚い黒い手帳と「弁護士日誌」という薄手の毎年表紙の色が変わる手帳があります。
前者は有料で値段は2000円弱。後者は無料で、毎年確か11月くらいに無料で配布してくれていました(東京限定かもしれませんが)。
毎日のスケジュールを記載する欄が市販の手帳よりもかなりたくさんあること、翌年のスケジュール記載欄も3月末までの分は設けられていること、前年と翌年のカレンダーがついていることなどが特徴です。一冊にまとまっているか分冊されているかは別として、訴訟の手数料等など業務上必要な情報についても手帳化されて一緒に配布されることもまた、大きな特徴でした。

テラバヤシは、5年ほど前に一度だけ訟廷日誌を買ったことがありましたが、分厚くて使いにくいと感じたため、その後は無料配布される弁護士日誌の方を愛用しておりました。
そして、翌年3月の分までスケジュールが記載できるのをよいことに、毎年年末ぎりぎりになるまで、スケジュール帳の書き換えを行っておりませんでした。

12月も半ばを過ぎたころ、ハタと気づきました。
そういえば今年は、2017年の弁護士日誌が送られてきていないことに。

しかし、ちょうどそのころ、民事裁判の期日でお会いした相手方の代理人の手元には、ブルー系の2017年のものと思しき弁護士日誌があるのを見ておりました。

なぜだ。
なぜ私のところにはないのだ。
その話を私の友人にしたところ、その友人のところにも弁護士日誌が来ていないことがわかりました。
なぜだ、なぜだとふたりしてひとしきり話していましたが、ある日、その友人がとある情報を仕入れました。

2017年の弁護士日誌から有料になった。
値段は1000円である。

そういわれてみれば、何か月か前に弁護士協同組合から冊子が届いた際に、そんなことを書いている紙が入っていたような記憶が、どことなーく蘇りました。
もしかすると、ネット販売などで入手することも可能だったのかもしれませんが、帰省の予定であるとか諸々考えて、今年は弁護士日誌の入手をあきらめ、市販のものを購入することにしました。

で、書店に行って手帳を買おうとしたのですが、弁護士日誌に慣れていた身からすると、どれもこれも使いにくいものばかり。
まず、時間の流れが左から右に向かって区切られているものは(ことのほかこのタイプが多い)、我々の職業からすると、その時間に予定されている用件をスペース的に書けないため、完璧にアウト。おそらく、ビジネスマンなんかを念頭に置くと「会議」とか短いワードでしか予定が記載されないから、こういう作りになっているのではないかと推察されます。
用件を書くスペースが日ごとにしっかり確保されている手帳を買おうとすると、サイズが大きくなるか、分厚くなるかのどちらか。
荷物をできるだけコンパクトにしたい身からすると、どちらも選びたくない。
そして、全体的に必要ないページが結構ある印象(メモ部分や連絡先の記載欄がやたら多いなど)。

弁護士日誌や訟廷日誌は、自分たちの仕事にとって「必要にして十分な手帳」であることを改めてしみじみ感じました。

で、結局、テラバヤシの2017年のお供は、モレスキンのスケジュール帳になりました。
一番シンプルで無駄がなかったというのが理由です。
実は、モレスキンのノート自体は、消耗品として高すぎると感じており、日々のメモどりにはダイソーが販売しているB6判のモレスキンもどき、俗称「ダイスキン」を愛用しております。
そういうテラバヤシにとっては、モレスキンのスケジュール帳を使うなどという行為は、なんというか踏み絵を踏むような複雑な心境でした。が、他の手帳は、もうどうしてもいやだったので、思い切って購入に至りました。

舶来物のため、日本の祝祭日の記載等は全くなく、かつ、2016年12月の最終週から始まり、2017年12月の最終週で終わるというまさに「1年物」の手帳です。まさに究極のシンプルです。
購入して一番最初にしたのは、2017年の日祝祭日に赤丸をつけることでした。
そして、2018年の手帳は相当早めに買うことがもはや義務付けられているといっても過言ではありません。

ですが、モレスキンのおニューの手帳に、スケジュールを記載してみたところ、手帳としての使い勝手は、かなり良いな、と感じるようになりました。
究極のシンプル故、自分なりに使いやすいように作りこんでいくことができるように思います。

これから1年お世話になることになりますが、転記を意識しなければならない時期になったとき、果たして弁護士日誌に戻るのか、2018年もモレスキンで行くことにするのかは、まだわかりません。
が、今年私と同じように(あんまりいないか)弁護士日誌を入手しそびれた人には、モレスキンのスケジュール帳をお勧めしたい気分なのでした。

これでほんとに今年の投稿は終わりにします。

皆様、よいお年を!!




[PR]
# by terarinterarin | 2016-12-28 22:32 | Comments(0)
ASKAさんが不起訴で釈放でされました。

その理由はまさかの嫌疑不十分です。検察側の発表によれば、どうやら、採尿手続の際に不備があり、提出されたものが本人の尿であることの立証ができないから、でした。
ASKAさんが言う通り、中にお茶が入っていたのかどうか真偽のほどは不明です。個人的には、いくらなんでもそれはないだろうと言いたいのですが、その点に関して正面から「それはない」というコメントすら発表できないほど、採尿や尿提出の段取りがボロンボロンだったということになります。

マスコミでは、前代未聞の不備みたいな言われ方をされていますが、実はこと覚せい剤の使用の捜査(逮捕や採尿、尿鑑定ひっくるめて)については、私たち弁護士の目から見ると、「こんなことがまかり通るのは怖い」と思うほど、不備あるいは不備的なものが結構な頻度で見受けられます。

具体例に関しては、園田寿弁護士が今までの実例をブログでお書きになっているので詳しくはそちらをご覧になっていただければ良いと思いますが、例えば、採尿後に警察官が一部を別なカップに移しちゃって、その際に他人の尿が混入されたことが否定できないとして証拠採用されなかった件などが紹介されています。

今回は、再鑑定用に尿を残していなかったことも立証不可と判断した理由のひとつのようですが、私がやった案件では、再鑑定用に尿を残していたケースは一度もありません。尿が少なくて…というのは、苦しい言い逃れで、日常的にある意味こういう不備が蔓延していると言っても過言ではないように思います。

問題があるのは採尿そのものに限られません。
覚せい剤使用者の身体拘束は、かなり暴力的に行われることも少なくありません。
例えば、路上で使用の疑惑がある人を拘束しようとする場合、まずは、職務質問とこれに付随する所持品検査から始まることも少なくありません。

職務質問や所持品検査は、知っている方も多いと思いますが、逮捕や差押と違って令状が発布されている状況下で行われるものではありません。強制的に何かをさせることができるものではないのです。

しかし、実際には、職務質問と言って何名もの警察官が容疑者を取り囲んで時には腕などをつかんで警察車両に引きずるようにして乗り込ませたり、本人に無断でカバンを開けて中をぶちまけたり、ポケットの中に手を突っ込んできたりというかなり乱暴な行為が行われていることも少なくないようです。

このようなやり方は、その後逮捕された人が使用を認めてしまった場合には表に出ることはほとんどありませんが、使用を否認したりする場合には、一連の捜査手続の違法という形で裁判上主張されることも少なくありません。

しかし、警察官は、自分たちがひどいことをやっているという自覚がなかったり、バレたらまずいという気持ちがあったりして、決して法廷で自分たちのやり方がまずかったということは認めません。
仮に多少力づくのことをやったとしても、覚せい剤使用という事件の特殊性(密行性、秘匿性と申しましょうか)から、裁判所も職務質問や所持品検査として行われた警察官の乱暴なやり口について問題視することはほとんどありません。

つまり、覚せい剤の捜査に関しては、職務質問から所持品検査と、採尿(その後のサンプルの保管についても個別に管理されているわけでは決してないという問題もありますが)に至るまで、ある意味警察官やりたい放題の状態だったといえましょう。

別にかばうわけではないのですが、刑事さんにしてみたら、覚せい剤の使用ですわなんかしなくちゃいけないという状況に至った時、現場はもうてんやわんやでしょうし、明らかに挙動がおかしい輩がいるのに、これをみすみす逃してしまったら、不祥事として世間に責め立てられるという、非常にお気の毒な立場にあるのではないかと推察されます。

で、そういう部分があるものだから(我々弁護士は置いとくとして)世間的にも裁判所的にもある程度のところを黙認していた結果、今回の「ASKA、まさかの不起訴」の事態を招いてしまったのだと思うのです。

今回、不起訴にした検察官の判断は懸命だったと私は思います。
採尿の状況は、写真に収められているはずで、公判請求して裁判になった際、ASKAさんが否認を継続していたら、その写真は弁護側の請求で開示され、弁護側から証拠として提出されることになることも予想されました。

実際にそうなったときに、公判に耐えられないものであったのかどうかは写真を見ていないのでわかりませんが、少なくとも今回の担当検察官は、上司とも協議して、耐えられない可能性が相当程度あるという判断をしたということなのでしょう。

今回のこの件は、なんでもありの覚せい剤使用の捜査をもっと慎重に適正に行うべきという方向に捜査機関をシフトさせるきっかけになるものだと思いますし、そうなることを願ってやみません。


今年の投稿は(よほどのことがない限り)おそらくこれが最後になると思われます。
今年もたくさんの方にお読みいただいて、ありがとうございました。
みなさま、良いお年をお迎えください。






[PR]
# by terarinterarin | 2016-12-22 13:27 | Comments(0)

最終弁論に涙するとき。

以前も投稿しましたが、テラバヤシは、日弁連の法廷技術小委員会というところに所属しており、ときおり各地の弁護士会を訪れて裁判員裁判における弁護人の法廷技術の研修を他のメンバーらとともに行っています。

12月1日から3日までは、札幌弁護士会の会館をお借りして、3日間の法廷技術研修を行いました。
今回の受講者は、北海道各地の弁護士会所属の弁護士が中心でしたが、中には、東京や栃木、埼玉からの受講者もいました。

冒頭陳述、主尋問、反対尋問、最終弁論、果ては異議まで含めたトータルの研修です。
事前に研修課題として事件の記録を受講者に配布します。それで、どのような事件なのか、登場人物がどのような主張をしているのか、どのような証拠があるのかを確認します(記録は部外秘です)。

座学の研修ではなく、受講者全員が、各パートの実演をすべて行い、それに対して講師側がコメントをするという形式の研修です。
3日間の研修は、各パートの中でも特に尋問に力を入れることになっています。最後は交互尋問といって、弁護側と検察側に分かれて実戦形式で研修の成果を試して終了(その時その時の都合で、何をどの程度やるかは微妙に変わりますが)。
受ける側も講師を務める側も疲労困憊して3日間は幕を閉じる…今回ももちろんそうでした。

研修の中では、冒頭陳述や反対尋問、最終弁論で講師によるデモンストレーションが行われます。
冒頭陳述や最終弁論では、受講者による実演研修の前に、まずは検察側冒頭陳述、論告のデモンストレーション。
その後の実演では、この検察官側デモンストレーションを前提とした実演を行います。
そして、実演研修の後には、弁護側の冒頭陳述と最終弁論の講師デモンストレーションを行います。
見ていただいて、講義の中で触れられ実演の際にコメントを受けたことがどんなことなのかを感じ取っていただくのです。

デモンストレーション前には、講師ミーティングで、担当講師が「リハ」をしてみます。
そこで、他の講師から、こっぴどいダメ出しを食らう場合もあります(特に若手が担当する場合には。テラバヤシも、以前はデモ30分前に全部考え直さなくてはいけない羽目に陥りました。最近はデモをやらなくなってので、そういう目に遭わなくなりましたが)。
そうやって、真剣にできる限りのいいデモンストレーションをしようと、ぎりぎりまで頑張って、受講者の皆さんに見てもらうのです。

今回、最終弁論の講師デモンストレーションは、大阪弁護士会の後藤貞人弁護士が担当しました。
後藤弁護士は、日本が誇る「無罪請負人」のひとりです。
法廷技術に関して語る一言一言に常に説得力があり、講師陣に参加するだけで受講者も講師陣も気分が引き締まる、そんな大重鎮です。

テラバヤシは、研修のちょっとした合間に、隣で後藤弁護士がデモンストレーションに使うパワーポイントや、話す内容のメモを作成しているのを横目でチラチラ見ていました。
昼食休憩の際に、「こういう風に始まろうと思う」というアイデアを他の講師に披露して、ほぼ全員からダメ出しされたのも見ていました。

どんな最終弁論になるんだろう。
ワクワクしていました。
もちろんテラバヤシだけではありません。
受講者も講師陣も、お手伝いに来てくださった札幌弁護士会の弁護士も、裏方の日弁連の職員さんも、そこにいた全員がかたずをのんで見守る中、後藤弁護士の最終弁論が始まりました。

今回使用した記録は、とある公園内で起こった日雇い労働者同士の酒代をめぐるトラブルに関するものでした。
仕事にあぶれた日雇い労働者たちが集まり、金を出し合って酒を酌み交わしあう。
そんな中で起こった事件という設定でした。
被告人は、金を奪い取った仲間の片棒を担いだとして、強盗致傷の共同正犯に問われたということになっていました(重ねて申し上げますが、記録自体は部外秘です)。

後藤弁護士は、グラフ様のものを用いて、被害者や目撃者の証言が信用できないことを淡々と説明していきます。
映し出されたパワーポイントの前に立って、淡々と静かに、そして1つ1つのポイントを丁寧についていきます。
大げさな身振りは一切ありません。
聴衆を煽るような言葉も、もちろん一切ありません。
検察側が出してきた証拠、証人の供述について、それが有罪の証拠にはならないのだと、被告人の主張が真実なのだと、ただひたすらにそんな話を続けていきます。

弁論が終盤に差し掛かりました。
被告人が有罪であることの立証責任が検察官にあることを話した後、後藤弁護士は静かにこう言いました。

○○さんが再び仲間と酒を酌み交わすことができるようにしてください。
お願いします。

涙腺が緩みました。
胸がジーンと熱くなりました。
他人の弁論を聞いてこんな気持ちになったのは、初めてでした。

この言葉だけでは、単に弁護人が裁判官や裁判員に被告人を無罪にしてくださいとお願いしているようにしか見えません。
しかし、そうではないのです。
冷静に、淡々と証拠について議論を尽くした最後の最後に、この言葉が出てきたのです。
(模擬の記録ではあるけれど)たった1つの願いを裁く人たちに伝えるために、後藤弁護士は、それまでの間、持てる技術を駆使し緻密な論理を重ねてきたのです。
(模擬の記録ではあるけれど)この言葉に、膨大な技術と努力が込められているかと思うと、感動せずにはいられませんでした。

以前の投稿でも触れましたが、我々委員が研修を行っている法廷技術のメソッドは、元々は米国の陪審裁判におけるメソッドでした。
そのせいか、同業者の中でも「パフォーマンス重視の中身のない下らん技術」という偏見を強く持つ人たちが少なからずいます。
「日本人には合わない」と決めつける人もいます。

しかし、およそ技術というものは、実現したいことがあるからこそ開発されるものなのであって、「技術ありきで中身がない」などということは存在しないはずなのです。
我々が研修しているメソッドも実際のところ、弁護戦略と深く結びついているものです。技術だけが独り歩きしているわけでは決してありません。

どんな技術も、それを使う人の魂がこもってこそ生きるものだと、テラバヤシはずっと思っていました。
技術の前には、想いが先行していなければならないはずです。
今回見た後藤弁護士の最終弁論は、改めてその考えが正しいと思わせてくれました。

しかし、「あんな弁論やってみたい」と私は決して言いません。
私は後藤弁護士とは違う人間です。
真似をしたって始まりません。
誰もが自分なりの「想いを込める技術」を会得しなければならないのだと、そう思います。










[PR]
# by terarinterarin | 2016-12-04 22:27 | Comments(0)
「面会交流について思うこと」の第2弾です(注:今日の話は、当事者間に、DVやストーカーなど一方が他方の生活を脅かす危険がないケースを念頭に置いています)。

別居親と子の面会交流を行うこと自体は合意しているものの、その連絡方法や頻度、時間について双方の対立があってなかなか調整が難しいということがよくあります。
例えば、同居親は月に1回2時間程度にしてほしい、連絡調整は自分あるいは自分の親兄弟を通してほしいという希望を持っているのに対して、対する別居親は週に1回会いたい、月に1回は丸一日会いたい、場合によっては宿泊も、連絡調整は子供本人、同居親、第三者が入るなんてもってのほかと考えているようなケースです。

一般的には、面会の頻度は、同居親よりも別居親の方が多くしてくれということが多く、連絡調整方法も別居親の方が直接行うことを望むケースが多いように思います(たまに、別居親が子と関わることに積極的でなく、同居親の方がもっと積極的にかかわってほしいと望むケースもあります)。

別居親にしてみれば、子供と頻繁に会わなければ、子供が自分のことを忘れてしまうんではないか、自分の親としての存在感がどんどん薄くなってしまうんではないかという恐怖心があるのだと思います(中には、同居親に対する対抗心とか単なる意地にしか見えない場合もなくはないですが)。離れてみて、子供ともっと遊びたい、会いたいという気持ちが募るということもあるのでしょうし。

一方、同居親にしてみれば、別居後、離婚後の生活に子供を慣れさせようとするところで、あまり頻繁に面会交流をさせてしまうとそのルーティンが崩れてしまうのではないかと思う気持ちもあるように思います。
長い時間を相手と過ごすことにより、いろんな懐柔策を施され最終的に子をとられてしまうのではないか、連れ去られてしまうのではないかという不安もあるでしょう。極力相手を自分たちの生活から排除したい、必要最低限以上は会わせたくないという人もいるように思います。

本来であれば、子供と別居親が自由に連絡を取り合って、その中で、いつ会うか、会った時に何をするかを決められるのが一理想的であるように思います。
しかし、子供が小さかったり、親に対してなかなか自分の気持ちを言えなかったり、様々な事情でそういうことがやりずらいということも少なくありません。多くの場合、「会い方」は親が決めることになってしまいます。

「会い方」を決めるときには、子供の事情を極力組んであげるのが、そして、将来的に子供がどういうスケジュールで過ごしていくことになるかを想像してあげるのが、無理なく末永く面会交流を続けていくために一番重要ではないかな、と思います。
要は、子どもはある時期から子どもの世界を持つようになって、年齢を経るごとにその「子どもの世界」で生活する時間が増えていくことを分かってほしいということです。

よちよち歩きの赤ちゃんが、保育園や幼稚園に通うようになる、小学校に入る、中学校、高校に進学する。
ピアノだとか英語だとか、習い事を始める。お友達ができて、一緒に遊んだりお出かけしたりするようになる。宿題が出るようになる。部活動を始める。塾に通うようになる。受験勉強をするようになる…
自分のことをやるために費やす時間がどんどん増えていくことになります。
そして、基本的には(好むと好まざるとにかかわらず)、どれも子どもにとっては大切な欠かせない時間だったりするわけです。

あまりに面会交流の頻度が多くなると、「けっ、父ちゃんと会ってから宿題かよ。今日寝るの遅くなるぞ」みたいな感じになって、別居親と会うことに子ども自身が負担を感じるようになってしまう。
ピュアだったり、気持ちの優しい子だったり、言いたいことを言えないタイプの子だったりすると、そういう風に思うこと自体に罪悪感を感じたりして、どんどん気持ちの上での負担が大きくなってしまう。
ある日突然爆発して「会いたくない」が始まってしまったりする。
子にとっても親にとっても不幸な結末になってしまいます。

もちろん、別居したり離婚したりしたとはいえ、例えば、住まいがごく近くで、学校の帰りに別居親の家をちょっと覗いていくことが可能ということであれば問題ないとは思います。
が、家が離れている場合、隙間の時間を使った面会ができる環境じゃない場合、あまりに頻度が多く長時間の面会交流をルールとして決めてしまうことは、先に見たように子供の世界を邪魔することになる危険性が高いように思います。

ただ、子と離れて暮らす親の寂しさというのもわかるわけであって、思う通りの回数会えないようなケースでは、それを補えるような代替策を設けられるといいなと思うのであります。
いわゆる間接交流と呼ばれるものですが、例えば、学校行事の写真を送ってあげるとか、手紙の交換をするとか。

こういうことを書くと、「子供の気持ちを親がしっかり汲んであげてください」と言っているように見えると思いますが、テラバヤシはそういうことを言っているわけではありません。
なぜかというと、「子どもはこう思っているから」という理屈で、大人の思惑を反映した面会交流のルールが決められてしまうことが往々にしてあるからです。
大人(親)が言っている「子どもの気持ち」なんてものは、結局のところ大人の自己都合の反映でしかないように思うのです。
大人の気持ちや思惑を「子どもの気持ち」にしてしまうなんて、横暴以外の何物でもありません。
あくまで、これからの子どもの人生でどういうことが起こりうるかを想像してください、ということを言いたいわけです。

子供の受渡しや連絡調整については、経緯はともかく「どうしてもこの人とはかかわりたくないの」という気持ちに至ってしまい、第三者にゆだねることが致し方ないことも往々にしてありましょう。
言われた方が釈然としないのはわからないではないです。が、そこは「無理強いして子供とすら会えなくなる」ことと「一歩引いて子どもとの面会を確保する」ことを天秤にかけていただきたい…そうすれば、後者が合理的だということは明らかでしょう(中には、相手方に嫌悪されていること自体を認識できていない当事者もいたりして、そういう方の場合、相手が強固に直接連絡を拒んでも、無邪気にこれを望んだりして対応のしようが難しいことも往々にしてあったりします)。

面会交流は、単純に考えれば、別居親と子が会うという、ただそれだけのことです。
「子供の生活を考えて無理なく行う」、「相手に過度な負担を強いない」ということさえ当事者が理解してくれれば、うまくいくはずです。
円滑な面会交流のルール作りを邪魔しているのは、大人の事情や思惑、割り切れない感情なのです。



[PR]
# by terarinterarin | 2016-11-24 00:31 | Comments(0)
離婚をはじめとする家事事件は、新人のころからコンスタントに関わっていますが、年々(特にここ最近)よりヘビーな案件、よりチャレンジングな案件を担当することが増えてきたように思います。
そんな中で、子をめぐる夫婦間(元も含む)の紛争に関わることも必然的に増えてきました。
子をめぐる紛争は近年増加傾向にあると言われているようですが、この点は、テラバヤシ自身も実感があります。子の親権を取得すること、子との面会交流の機会をしっかり確保すること、そういうことに男性側がこだわること(別に悪い意味で言っているわけではありません)が以前よりも増えているなあ、なかなか簡単に合意できないなあと思うところです。

違う考え方の弁護士も少なくないようですが、夫婦の間の関係がいくら悪くても、子にとってはどっちも自分の大事なパパでありママであることは、多くの場合間違いありません。面会交流は別居親の権利、とか言う前に、お子さんのこと考えたら、やっぱり原則的には別居している親にはちゃんと会わせてあげないとね、というのがテラバヤシの基本スタンスではあります(あくまで基本かつ原則です。実際の判断は、ケースによります、念のため)。

ところが、子どもというのは、例えばお母さんと同居している場合、「お父さんには会わない」「会いたくない」などと別居親に会うことを拒絶するかのような言葉を吐くことが往々にしてあるわけです。
で、やはりそう言われちゃうと、親としては「嫌っていうもの会わせるわけにはいかない」と考えてしまって、別居以来会わせることができなくなってしまう…なんてことも少なくないわけです(子どもを懐柔してよりを戻そうとされるのが嫌とか、とにかく相手だけを排除したいという思いだけで会わせないケースももちろんありますが)。

そういう方にお会いしたら、「いやねえ、お子さんていうのは大人の顔色見ますからねえ。本当は会いたいんですよ。お父さんとお母さんの仲が悪いのわかってるから、会いたいとか言うと悪いのかな、なんてお子さんなりに考えちゃってるものなんですよねえ」なんて、したり顔で言っていました。
正直に言いましょう。
今までは、こういうセリフは、ものの本の受け売りであったり、あるいは、第三者機関や家裁の調査官から聞いた話を元に吐いておりました。

しかし、最近、子をめぐる紛争が深刻化していて連れ去りされる心配がある、あるいは心配されるケースであったり、お子さんの状況から考えて同居親も面会に同席する必要があるんだけどひとりでは不安という相談などなどがあって、面会交流に付き添ったり、連絡調整を行うということを比較的短い間にに結構な件数体験してきました。
その結果、「いやねえ、お子さんていうのは大人の顔色見ますからねえ。」というしたり顔で吐いていた先のセリフの意味を、今更ながら「ああ、そういうことなのか」と実質的に理解することができるようになりました。

いやだ、嫌いだと言っていたのに、別居親と顔を会わせた途端、嬉しそうに駆け寄って手を差し伸べる子ども。
もっと遊ぼう、あっちに行こうと休みたい親を連れまわす子ども。
面会が終わる時間ぎりぎりになっても、帰り支度をしようとしない子ども。
別居親が帰ろうとした途端、泣き出しちゃう子ども。

少し離れて眺めていると、こんな光景ばかりが目に入ってきます。
子どもにとって良い形の面会交流を行うことが、大人の間の不毛な紛争を終わらせることに役立つのではないかと、考えるようになりました。

面会交流に立ち会えば(注:半径1メートル以内で張り付いて監視するという意味ではありません)、お子さんの様子や相手方の様子を依頼者に伝えることができます。
一緒に眺めてみれば、面会交流の様子を情報として、共有することができます。
自分が見た光景を報告したり、現場の状況を共有することによって、お子さんがいかに同居親に対して気を遣っているのか、別居している親を求めているのかを、依頼者にもわかってもらうことができます。
よほど無理無理な要求を出してくる相手方でない限り(まあ、そういう人が多いことも事実ですが)、不信感もある程度解けて「子どものためにこうしよう」と考えてもらうこと、つまり親の紛争を子どもと相手の関係に持ち込んではいけないということを自覚してもらうことも可能になります。

それがひいては、長引いていた面会交流、それだけでなく親権争い、果ては養育費や財産分与に関する対立を解消するきっかけになることもあるわけです。

親っていうのはとてもわがままな生き物で、自分の目に映る子供の姿が子どものすべてである、自分が子どものことを一番よくわかっていると往々にして思いがちです(テラバヤシは、生まれてこの方、延々と子の立場であり続けているので、しみじみそう思います)。
大人の都合に子どもは立ち入ることができません。
立ち入ることができないにもかかわらず、大人の都合で、住む場所を変えられたリ、友達と引き離されたり、もう一人の親と会えなくされてしまうわけです。
そんな理不尽を心のうちに抱えながら、でも、一緒にいる親の下で生きていかねばならないから、子は、その親との関係を上手くいかせるために、無い知恵しぼって?心にもないことを言っちゃったり、態度で表したりするわけです。

そういうことを実感するためには、面会交流に立ち会うのが一番です。
もちろん、依頼者と相手方の間で面会交流をすることについて何ら問題を抱えていないケースででしゃばる必要は全くありませんが、第三者の立会いが必要なケースでは、可能な限り弁護士が立ち会うことをお勧めします。ホント、1回でもいいから。
そうすれば、依頼を受けた内容の違う側面が見えてきます。違う側面が見えることによって、解決するためのアイデアも湧いてきます。

一昔前は、こういうことを普通にやる弁護士はごくごく少数だったんだろうな、と想像します。
もちろん今現在も、多数派というわけではないでしょう。
でも、テラバヤシは、子をめぐる紛争が増加・深刻化している(ように思われる)今の時代、面会交流にも立ち会うというのが代理人のスタンダードなスタイルになればよいように考えています。








[PR]
# by terarinterarin | 2016-11-21 01:21 | Comments(0)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terarinterarin