最終弁論に涙するとき。

以前も投稿しましたが、テラバヤシは、日弁連の法廷技術小委員会というところに所属しており、ときおり各地の弁護士会を訪れて裁判員裁判における弁護人の法廷技術の研修を他のメンバーらとともに行っています。

12月1日から3日までは、札幌弁護士会の会館をお借りして、3日間の法廷技術研修を行いました。
今回の受講者は、北海道各地の弁護士会所属の弁護士が中心でしたが、中には、東京や栃木、埼玉からの受講者もいました。

冒頭陳述、主尋問、反対尋問、最終弁論、果ては異議まで含めたトータルの研修です。
事前に研修課題として事件の記録を受講者に配布します。それで、どのような事件なのか、登場人物がどのような主張をしているのか、どのような証拠があるのかを確認します(記録は部外秘です)。

座学の研修ではなく、受講者全員が、各パートの実演をすべて行い、それに対して講師側がコメントをするという形式の研修です。
3日間の研修は、各パートの中でも特に尋問に力を入れることになっています。最後は交互尋問といって、弁護側と検察側に分かれて実戦形式で研修の成果を試して終了(その時その時の都合で、何をどの程度やるかは微妙に変わりますが)。
受ける側も講師を務める側も疲労困憊して3日間は幕を閉じる…今回ももちろんそうでした。

研修の中では、冒頭陳述や反対尋問、最終弁論で講師によるデモンストレーションが行われます。
冒頭陳述や最終弁論では、受講者による実演研修の前に、まずは検察側冒頭陳述、論告のデモンストレーション。
その後の実演では、この検察官側デモンストレーションを前提とした実演を行います。
そして、実演研修の後には、弁護側の冒頭陳述と最終弁論の講師デモンストレーションを行います。
見ていただいて、講義の中で触れられ実演の際にコメントを受けたことがどんなことなのかを感じ取っていただくのです。

デモンストレーション前には、講師ミーティングで、担当講師が「リハ」をしてみます。
そこで、他の講師から、こっぴどいダメ出しを食らう場合もあります(特に若手が担当する場合には。テラバヤシも、以前はデモ30分前に全部考え直さなくてはいけない羽目に陥りました。最近はデモをやらなくなってので、そういう目に遭わなくなりましたが)。
そうやって、真剣にできる限りのいいデモンストレーションをしようと、ぎりぎりまで頑張って、受講者の皆さんに見てもらうのです。

今回、最終弁論の講師デモンストレーションは、大阪弁護士会の後藤貞人弁護士が担当しました。
後藤弁護士は、日本が誇る「無罪請負人」のひとりです。
法廷技術に関して語る一言一言に常に説得力があり、講師陣に参加するだけで受講者も講師陣も気分が引き締まる、そんな大重鎮です。

テラバヤシは、研修のちょっとした合間に、隣で後藤弁護士がデモンストレーションに使うパワーポイントや、話す内容のメモを作成しているのを横目でチラチラ見ていました。
昼食休憩の際に、「こういう風に始まろうと思う」というアイデアを他の講師に披露して、ほぼ全員からダメ出しされたのも見ていました。

どんな最終弁論になるんだろう。
ワクワクしていました。
もちろんテラバヤシだけではありません。
受講者も講師陣も、お手伝いに来てくださった札幌弁護士会の弁護士も、裏方の日弁連の職員さんも、そこにいた全員がかたずをのんで見守る中、後藤弁護士の最終弁論が始まりました。

今回使用した記録は、とある公園内で起こった日雇い労働者同士の酒代をめぐるトラブルに関するものでした。
仕事にあぶれた日雇い労働者たちが集まり、金を出し合って酒を酌み交わしあう。
そんな中で起こった事件という設定でした。
被告人は、金を奪い取った仲間の片棒を担いだとして、強盗致傷の共同正犯に問われたということになっていました(重ねて申し上げますが、記録自体は部外秘です)。

後藤弁護士は、グラフ様のものを用いて、被害者や目撃者の証言が信用できないことを淡々と説明していきます。
映し出されたパワーポイントの前に立って、淡々と静かに、そして1つ1つのポイントを丁寧についていきます。
大げさな身振りは一切ありません。
聴衆を煽るような言葉も、もちろん一切ありません。
検察側が出してきた証拠、証人の供述について、それが有罪の証拠にはならないのだと、被告人の主張が真実なのだと、ただひたすらにそんな話を続けていきます。

弁論が終盤に差し掛かりました。
被告人が有罪であることの立証責任が検察官にあることを話した後、後藤弁護士は静かにこう言いました。

○○さんが再び仲間と酒を酌み交わすことができるようにしてください。
お願いします。

涙腺が緩みました。
胸がジーンと熱くなりました。
他人の弁論を聞いてこんな気持ちになったのは、初めてでした。

この言葉だけでは、単に弁護人が裁判官や裁判員に被告人を無罪にしてくださいとお願いしているようにしか見えません。
しかし、そうではないのです。
冷静に、淡々と証拠について議論を尽くした最後の最後に、この言葉が出てきたのです。
(模擬の記録ではあるけれど)たった1つの願いを裁く人たちに伝えるために、後藤弁護士は、それまでの間、持てる技術を駆使し緻密な論理を重ねてきたのです。
(模擬の記録ではあるけれど)この言葉に、膨大な技術と努力が込められているかと思うと、感動せずにはいられませんでした。

以前の投稿でも触れましたが、我々委員が研修を行っている法廷技術のメソッドは、元々は米国の陪審裁判におけるメソッドでした。
そのせいか、同業者の中でも「パフォーマンス重視の中身のない下らん技術」という偏見を強く持つ人たちが少なからずいます。
「日本人には合わない」と決めつける人もいます。

しかし、およそ技術というものは、実現したいことがあるからこそ開発されるものなのであって、「技術ありきで中身がない」などということは存在しないはずなのです。
我々が研修しているメソッドも実際のところ、弁護戦略と深く結びついているものです。技術だけが独り歩きしているわけでは決してありません。

どんな技術も、それを使う人の魂がこもってこそ生きるものだと、テラバヤシはずっと思っていました。
技術の前には、想いが先行していなければならないはずです。
今回見た後藤弁護士の最終弁論は、改めてその考えが正しいと思わせてくれました。

しかし、「あんな弁論やってみたい」と私は決して言いません。
私は後藤弁護士とは違う人間です。
真似をしたって始まりません。
誰もが自分なりの「想いを込める技術」を会得しなければならないのだと、そう思います。










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# by terarinterarin | 2016-12-04 22:27 | Comments(0)
「面会交流について思うこと」の第2弾です(注:今日の話は、当事者間に、DVやストーカーなど一方が他方の生活を脅かす危険がないケースを念頭に置いています)。

別居親と子の面会交流を行うこと自体は合意しているものの、その連絡方法や頻度、時間について双方の対立があってなかなか調整が難しいということがよくあります。
例えば、同居親は月に1回2時間程度にしてほしい、連絡調整は自分あるいは自分の親兄弟を通してほしいという希望を持っているのに対して、対する別居親は週に1回会いたい、月に1回は丸一日会いたい、場合によっては宿泊も、連絡調整は子供本人、同居親、第三者が入るなんてもってのほかと考えているようなケースです。

一般的には、面会の頻度は、同居親よりも別居親の方が多くしてくれということが多く、連絡調整方法も別居親の方が直接行うことを望むケースが多いように思います(たまに、別居親が子と関わることに積極的でなく、同居親の方がもっと積極的にかかわってほしいと望むケースもあります)。

別居親にしてみれば、子供と頻繁に会わなければ、子供が自分のことを忘れてしまうんではないか、自分の親としての存在感がどんどん薄くなってしまうんではないかという恐怖心があるのだと思います(中には、同居親に対する対抗心とか単なる意地にしか見えない場合もなくはないですが)。離れてみて、子供ともっと遊びたい、会いたいという気持ちが募るということもあるのでしょうし。

一方、同居親にしてみれば、別居後、離婚後の生活に子供を慣れさせようとするところで、あまり頻繁に面会交流をさせてしまうとそのルーティンが崩れてしまうのではないかと思う気持ちもあるように思います。
長い時間を相手と過ごすことにより、いろんな懐柔策を施され最終的に子をとられてしまうのではないか、連れ去られてしまうのではないかという不安もあるでしょう。極力相手を自分たちの生活から排除したい、必要最低限以上は会わせたくないという人もいるように思います。

本来であれば、子供と別居親が自由に連絡を取り合って、その中で、いつ会うか、会った時に何をするかを決められるのが一理想的であるように思います。
しかし、子供が小さかったり、親に対してなかなか自分の気持ちを言えなかったり、様々な事情でそういうことがやりずらいということも少なくありません。多くの場合、「会い方」は親が決めることになってしまいます。

「会い方」を決めるときには、子供の事情を極力組んであげるのが、そして、将来的に子供がどういうスケジュールで過ごしていくことになるかを想像してあげるのが、無理なく末永く面会交流を続けていくために一番重要ではないかな、と思います。
要は、子どもはある時期から子どもの世界を持つようになって、年齢を経るごとにその「子どもの世界」で生活する時間が増えていくことを分かってほしいということです。

よちよち歩きの赤ちゃんが、保育園や幼稚園に通うようになる、小学校に入る、中学校、高校に進学する。
ピアノだとか英語だとか、習い事を始める。お友達ができて、一緒に遊んだりお出かけしたりするようになる。宿題が出るようになる。部活動を始める。塾に通うようになる。受験勉強をするようになる…
自分のことをやるために費やす時間がどんどん増えていくことになります。
そして、基本的には(好むと好まざるとにかかわらず)、どれも子どもにとっては大切な欠かせない時間だったりするわけです。

あまりに面会交流の頻度が多くなると、「けっ、父ちゃんと会ってから宿題かよ。今日寝るの遅くなるぞ」みたいな感じになって、別居親と会うことに子ども自身が負担を感じるようになってしまう。
ピュアだったり、気持ちの優しい子だったり、言いたいことを言えないタイプの子だったりすると、そういう風に思うこと自体に罪悪感を感じたりして、どんどん気持ちの上での負担が大きくなってしまう。
ある日突然爆発して「会いたくない」が始まってしまったりする。
子にとっても親にとっても不幸な結末になってしまいます。

もちろん、別居したり離婚したりしたとはいえ、例えば、住まいがごく近くで、学校の帰りに別居親の家をちょっと覗いていくことが可能ということであれば問題ないとは思います。
が、家が離れている場合、隙間の時間を使った面会ができる環境じゃない場合、あまりに頻度が多く長時間の面会交流をルールとして決めてしまうことは、先に見たように子供の世界を邪魔することになる危険性が高いように思います。

ただ、子と離れて暮らす親の寂しさというのもわかるわけであって、思う通りの回数会えないようなケースでは、それを補えるような代替策を設けられるといいなと思うのであります。
いわゆる間接交流と呼ばれるものですが、例えば、学校行事の写真を送ってあげるとか、手紙の交換をするとか。

こういうことを書くと、「子供の気持ちを親がしっかり汲んであげてください」と言っているように見えると思いますが、テラバヤシはそういうことを言っているわけではありません。
なぜかというと、「子どもはこう思っているから」という理屈で、大人の思惑を反映した面会交流のルールが決められてしまうことが往々にしてあるからです。
大人(親)が言っている「子どもの気持ち」なんてものは、結局のところ大人の自己都合の反映でしかないように思うのです。
大人の気持ちや思惑を「子どもの気持ち」にしてしまうなんて、横暴以外の何物でもありません。
あくまで、これからの子どもの人生でどういうことが起こりうるかを想像してください、ということを言いたいわけです。

子供の受渡しや連絡調整については、経緯はともかく「どうしてもこの人とはかかわりたくないの」という気持ちに至ってしまい、第三者にゆだねることが致し方ないことも往々にしてありましょう。
言われた方が釈然としないのはわからないではないです。が、そこは「無理強いして子供とすら会えなくなる」ことと「一歩引いて子どもとの面会を確保する」ことを天秤にかけていただきたい…そうすれば、後者が合理的だということは明らかでしょう(中には、相手方に嫌悪されていること自体を認識できていない当事者もいたりして、そういう方の場合、相手が強固に直接連絡を拒んでも、無邪気にこれを望んだりして対応のしようが難しいことも往々にしてあったりします)。

面会交流は、単純に考えれば、別居親と子が会うという、ただそれだけのことです。
「子供の生活を考えて無理なく行う」、「相手に過度な負担を強いない」ということさえ当事者が理解してくれれば、うまくいくはずです。
円滑な面会交流のルール作りを邪魔しているのは、大人の事情や思惑、割り切れない感情なのです。



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# by terarinterarin | 2016-11-24 00:31 | Comments(0)
離婚をはじめとする家事事件は、新人のころからコンスタントに関わっていますが、年々(特にここ最近)よりヘビーな案件、よりチャレンジングな案件を担当することが増えてきたように思います。
そんな中で、子をめぐる夫婦間(元も含む)の紛争に関わることも必然的に増えてきました。
子をめぐる紛争は近年増加傾向にあると言われているようですが、この点は、テラバヤシ自身も実感があります。子の親権を取得すること、子との面会交流の機会をしっかり確保すること、そういうことに男性側がこだわること(別に悪い意味で言っているわけではありません)が以前よりも増えているなあ、なかなか簡単に合意できないなあと思うところです。

違う考え方の弁護士も少なくないようですが、夫婦の間の関係がいくら悪くても、子にとってはどっちも自分の大事なパパでありママであることは、多くの場合間違いありません。面会交流は別居親の権利、とか言う前に、お子さんのこと考えたら、やっぱり原則的には別居している親にはちゃんと会わせてあげないとね、というのがテラバヤシの基本スタンスではあります(あくまで基本かつ原則です。実際の判断は、ケースによります、念のため)。

ところが、子どもというのは、例えばお母さんと同居している場合、「お父さんには会わない」「会いたくない」などと別居親に会うことを拒絶するかのような言葉を吐くことが往々にしてあるわけです。
で、やはりそう言われちゃうと、親としては「嫌っていうもの会わせるわけにはいかない」と考えてしまって、別居以来会わせることができなくなってしまう…なんてことも少なくないわけです(子どもを懐柔してよりを戻そうとされるのが嫌とか、とにかく相手だけを排除したいという思いだけで会わせないケースももちろんありますが)。

そういう方にお会いしたら、「いやねえ、お子さんていうのは大人の顔色見ますからねえ。本当は会いたいんですよ。お父さんとお母さんの仲が悪いのわかってるから、会いたいとか言うと悪いのかな、なんてお子さんなりに考えちゃってるものなんですよねえ」なんて、したり顔で言っていました。
正直に言いましょう。
今までは、こういうセリフは、ものの本の受け売りであったり、あるいは、第三者機関や家裁の調査官から聞いた話を元に吐いておりました。

しかし、最近、子をめぐる紛争が深刻化していて連れ去りされる心配がある、あるいは心配されるケースであったり、お子さんの状況から考えて同居親も面会に同席する必要があるんだけどひとりでは不安という相談などなどがあって、面会交流に付き添ったり、連絡調整を行うということを比較的短い間にに結構な件数体験してきました。
その結果、「いやねえ、お子さんていうのは大人の顔色見ますからねえ。」というしたり顔で吐いていた先のセリフの意味を、今更ながら「ああ、そういうことなのか」と実質的に理解することができるようになりました。

いやだ、嫌いだと言っていたのに、別居親と顔を会わせた途端、嬉しそうに駆け寄って手を差し伸べる子ども。
もっと遊ぼう、あっちに行こうと休みたい親を連れまわす子ども。
面会が終わる時間ぎりぎりになっても、帰り支度をしようとしない子ども。
別居親が帰ろうとした途端、泣き出しちゃう子ども。

少し離れて眺めていると、こんな光景ばかりが目に入ってきます。
子どもにとって良い形の面会交流を行うことが、大人の間の不毛な紛争を終わらせることに役立つのではないかと、考えるようになりました。

面会交流に立ち会えば(注:半径1メートル以内で張り付いて監視するという意味ではありません)、お子さんの様子や相手方の様子を依頼者に伝えることができます。
一緒に眺めてみれば、面会交流の様子を情報として、共有することができます。
自分が見た光景を報告したり、現場の状況を共有することによって、お子さんがいかに同居親に対して気を遣っているのか、別居している親を求めているのかを、依頼者にもわかってもらうことができます。
よほど無理無理な要求を出してくる相手方でない限り(まあ、そういう人が多いことも事実ですが)、不信感もある程度解けて「子どものためにこうしよう」と考えてもらうこと、つまり親の紛争を子どもと相手の関係に持ち込んではいけないということを自覚してもらうことも可能になります。

それがひいては、長引いていた面会交流、それだけでなく親権争い、果ては養育費や財産分与に関する対立を解消するきっかけになることもあるわけです。

親っていうのはとてもわがままな生き物で、自分の目に映る子供の姿が子どものすべてである、自分が子どものことを一番よくわかっていると往々にして思いがちです(テラバヤシは、生まれてこの方、延々と子の立場であり続けているので、しみじみそう思います)。
大人の都合に子どもは立ち入ることができません。
立ち入ることができないにもかかわらず、大人の都合で、住む場所を変えられたリ、友達と引き離されたり、もう一人の親と会えなくされてしまうわけです。
そんな理不尽を心のうちに抱えながら、でも、一緒にいる親の下で生きていかねばならないから、子は、その親との関係を上手くいかせるために、無い知恵しぼって?心にもないことを言っちゃったり、態度で表したりするわけです。

そういうことを実感するためには、面会交流に立ち会うのが一番です。
もちろん、依頼者と相手方の間で面会交流をすることについて何ら問題を抱えていないケースででしゃばる必要は全くありませんが、第三者の立会いが必要なケースでは、可能な限り弁護士が立ち会うことをお勧めします。ホント、1回でもいいから。
そうすれば、依頼を受けた内容の違う側面が見えてきます。違う側面が見えることによって、解決するためのアイデアも湧いてきます。

一昔前は、こういうことを普通にやる弁護士はごくごく少数だったんだろうな、と想像します。
もちろん今現在も、多数派というわけではないでしょう。
でも、テラバヤシは、子をめぐる紛争が増加・深刻化している(ように思われる)今の時代、面会交流にも立ち会うというのが代理人のスタンダードなスタイルになればよいように考えています。








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# by terarinterarin | 2016-11-21 01:21 | Comments(0)
弁護士の業務広告のお話をした以前の投稿でも触れましたが、今年度、テラバヤシは東京弁護士会の所属派閥の執行部のお仕事をしています。
担当は弁護士業界の「業務改革」分野の様々なことです。
そんなわけで、月に1回ほど同じ担当の同業者と会合を開いては、弁護士業務にまつわる現代の問題点、新たな問題点について議論したり話し合ったりしています。

そんな会合があった先月終わりのこと。会合後の飲み会の席で、事務所のホームページの話になりました。
このブログでも何度か触れていますが、ともえ法律事務所のホームページは業者に頼まずにテラバヤシ本人が作りました。
見ていただければわかりますが、全く法律事務所っぽくないホームページです。自分の趣味全開です。
昨日なんぞ、とある法律事務所のホームページについてあれこれ論評していたところ(まあ、あまり褒めてはいない)、我が妹から「ひと様の事務所のホームページにあれこれケチつけてる場合か」というきっつい一言をもらってしまったくらいのものらしいです、どうやら。

これらに加え、このブログや各種ウェブサイトの記事などから、ともえ法律事務所にたどり着き、テラバヤシに依頼しよう、相談しようと思う人は、かなりな程度限定されているようで、お陰様で、事務所開設以来、依頼者との関係で大トラブルが生じたということは今のところほとんどない状況です。
つまり、様々な媒体を使って?テラバヤシの趣味嗜好を前に出した結果、テラバヤシでも我慢できるという方々だけが来てくださっている、と言ってよいと思うのです。

そういう話を飲み会の席でしたところ、とある大大大先輩にして、修習生や若手弁護士のセミナーでも有名なとある弁護士から、こんな話を伺いました。
少し前に、事務所のホームページの文字を小さくして、記載する内容を増やしたのだそうです。
そうしたところ、冷やかしみたいな法律相談の依頼や、法律相談・依頼をめぐるトラブルが格段に減ったのだとか。
「ホームページの業者の言うなりになっちゃだめだよね」と、その大先輩は話していました。

似たような話は、弁護士業界以外にもありました。

もう10年以上も前から、我が妹がお世話になっているフラワーアレンジメントの先生がいます。
先生は、普段はお花屋さんをやっています。
大きな通りからは少し離れたところにある、「知る人ぞ知る」お店です。
私も何度か訪れたことがありますが、置いてあるお花は白やくすんだ色のものばかり。赤や黄色やピンクなど鮮やかな色の花はほとんど置いてありません。

このお店のホームページは、先生がご自分で作っています。
ホームページには、お花の注文フォームはありません。
注文は来店か電話でしか受けません。
お花業界では(どこもそうかもしれませんが)、インターネットの注文のトラブルがとても多いらしいのです。
先生のお店では、注文をめぐるトラブルは一切ない、とのことです。

大先輩の話、お花の先生の話を聞いて、「自分のやり方はやっぱり間違っていなかったのだ」と思えました。

弁護士とてサービス業の一種(と私は思っています)。
そうである以上、常にトラブルとは隣り合わせです。
そのトラブルの因子を少しでも少なくするのが、仕事をスムーズに運ぶ大きなひとつのコツであることは間違いありません。
そして、トラブルを回避する1つの方法として、間口の部分で、自分の仕事のコンセプトや事務所の特質などを理解してくれる人がたどり着けるようにしておくことは、とても有効なのです。
ホームページを自分で作る、ホームページに自分なりの工夫を加えるということは、まさにその第一歩だといえるでしょう。

仕事をどういうルートで受けるかということも、「間口」の部分で、自分にマッチした人がたどり着くようにするという意味では非常に重要ではないかと思います。
テラバヤシは、電話相談もメールのお問い合わせもしているので、一見かなり受注のルートは広いように見えるかもしれません。

しかし、実際には、お問い合わせ方法は、事務所にダイレクト電話、弁護士ドットコム及び「シェアしたくなる法律相談所」サイトを通じての電話又はメール、ホームページのお問い合わせメールフォームだけで、あとは時折紹介で事件をお受けするのみです。
これだけたくさんの「登録サイト」の営業が日常的に来ることを考えれば、大都市圏で、上記だけのルートであれば、特段多い方とは言えないと思います。

ルートを広げれば広げるほど、様々な人が自分のところにたどり着きます。
登録サイトによって紹介のされ方は様々でしょうから、十分に弁護士の人となりや事務所の雰囲気などを考えずにたどり着く人がかなり増えてくることになります。そうすると、事件の処理方法や相談への回答をめぐってトラブルが発生しやすくなる。
必然的に、他の仕事に影響が生じてなかなか進まないことにもなるわけです。

このブログでは、今までも弁護士の広告方法について何回か投稿をしています。
斬新なことを言っているとか思われたり、「いろんな人を受け入れてやっていくことが弁護士なのに、間口狭めてどうすんの」といった否定的な受け止め方も少なからずあるようでした。

しかし、うまく言えないのですが、「自分の仕事」を仕事として全うしようと思えば、それを理解してくれる人に来てほしいと思うのはある意味当然であって、そういう視点からホームページ作りというものを考えた場合、立派なものよりはその人のカラーが出るものを作ることが必要であることは間違いなさそうです。









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# by terarinterarin | 2016-11-06 00:53 | Comments(2)
高樹沙耶さんが、大麻の共同所持で逮捕されました。
ご本人は自分のものではないと容疑を否認しています。
先の参議院選挙で、日本ではまだまだ耳慣れない「医療用大麻」の解禁を訴えたこともあり、今、高樹さんは好奇の目にさらされています。

大麻の所持、というと私には忘れられない出来事があります。
まだ登録一年目の頃でした。
法教育委員会の会務で、中学生を裁判傍聴に連れて行った時のことです。

傍聴したのは、大麻所持の刑事公判でした。
法廷に入り、傍聴席に座ると、何やら給食用のパンを入れるような大きなプラスチックのケースが2つ3つ検察官側においてあるのが見えました。
首を伸ばして覗き込むとジップロックの袋に入った葉っぱ様のものがいくつもある。
罪名に「営利目的」は入っていませんでした。
どうやって入手したのだ、と新人だった私は、少したじろぎました。

そのうち、被告人が拘置所の職員に伴われて入廷してきました。
小柄な細い男性で、ネイビーに白線2本のアディダスのジャージの細身のジャケットをオシャレに着こなしていました。下はスリムのジーンズを履いてました。
髪は背中の半分が隠れるほど長く、ドレッドが取れかかっていました。
ボブマーリーみたいだな、と思いました。

大麻の単純所持の、いわゆる認めの事件でした。

検察官の冒頭陳述やその後の審理から、被告人は、
北海道の大麻の自生地に赴き、
まさかりで嬉々として大量の野生大麻を刈り取り、
それをダンボールに突っ込んで宅急便で自宅に送り、
長いことかけて乾燥させて適量ずつジップロックして、
「これで当分困らない」とほくそ笑んでいたらしいことがわかりました。

被告人の自宅を訪れた母親が偶然ジップロックの1つを見つけ、数日間逡巡した後警察に持参して発覚した、ということのようでした。

被告人に対して裁判官がいくつか質問をした後、最後に「起訴状の職業欄に自由業と書いているけど、どんな仕事をしているのですか?」と尋ねました。

ハーブ雑誌のライターです。

被告人は臆することなく、そう答えました。
まだ、脱法ハーブとか危険ドラッグなどという言葉はなかった頃の話です。

傍聴が終了した後、引率した中学生に対して、「どう思った?」と尋ねてみました。
先生、あの人はまた絶対やると思います。
反省しているなら、頭を丸めろって感じです。
率直な感想が返ってきました。
言葉は幼いですが、よく見ていてよく感じているなあと感心しました。

ボブマーリーのような風貌。
自分の職業について、堂々と「ハーブ雑誌のライターです」と回答したこと。
野生の大麻を刈り取ってきたというその行動。

もちろん、被告人質問の最中には、反省しています、二度としませんという言葉を彼は発していました。
しかし、彼の風貌や行動からは、大麻を使うことに対する罪悪感や程の悪さというものは感じられませんでした。
まさに薬効のあるハーブのひとつとして大麻を嗜んでいる、そんな雰囲気が漂っていました。

世界には大麻愛好者が結構な数いるそうで、大麻愛好者のための雑誌も流通しているという話を聞いたことがあります(まさにハーブ雑誌)。
多くの人が知っているように、大麻の使用が解禁されている国(使用方法や使用場所に一定の規制はありますが)も決して少数ではありません。
そういう国の中には、タバコにバカみたいに高い税金をかけている国もあります。もちろん目的はタバコによる健康被害をなくすことです。
大麻を解禁している国でも覚せい剤やコカインなどは禁止されているでしょう。
つまり、大麻だけが特別扱いされているわけです。

他の薬物と一線を画した「大麻」の扱われ方は、単に「覚せい剤やコカインやタバコのような危険性や害はない」という理由(諸説あるところですが)に止まるものではないでしょう。
「大麻」には、覚せい剤やコカインなどが持つ薬効に対する単なる依存性とは違う精神的な依存性があるのでしょう。洗脳、崇拝と言ってもいいかもしれません。

そして、そのポイントは、おそらく大麻が「自然に生えてくるもの」であるところにあるのでしょう。

高樹沙耶さんは、選挙の際に医療用大麻を天然の生薬として医療現場で使えるようになればいいと訴えていました。
ナチュラリストとしての生活を極めるため、沖縄に移住し、おそらくは志を同じくしている人と生活していたようです。
今回の共同所持の件への関与は脇に置いておくとしても、高樹さんが大麻に対して多大なる信頼を寄せていたことは疑いがなく、やはりそこには「崇拝」あるいはそれに近い信仰心のようなものを強く感じるのです。

そういう意味でいうと、大麻が人を惹きつける力というのは、覚せい剤やコカインなどの比ではないのかもしれません。
それを「依存性」というのであれば、大麻は非常に強い依存性を持つものと言えるでしょう。
単純に薬効だけで人を惹きつける薬物よりも、よほど恐ろしいものなのかもしれません。



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# by terarinterarin | 2016-10-29 22:48 | Comments(2)
ここ1~2か月ばかり、広告のお誘いが非常に増えております。

司法試験の合格発表もあり、新規登録目前のこの時期というのも何か影響があるのでしょうか。
テラバヤシの記憶にあるだけでも、「弁護士の広告サイトをやっているのですが掲載しませんか」というお誘いが2~3社、登録制のチャット式法律相談のお誘い1社、「駅テン!」とかいういわゆる「駅近」地域の情報発信サイトからの広告のお誘いなんかがあります

「駅テン!」の勧誘FAXは、ここ2か月くらい、10日から2週間に1回くらいの割合で来ていて、少なくとも、ともえ法律事務所に対しては、やたら積極的です。

テラバヤシ的にちょっと気になるのは、元々弁護士やその他士業に特化した広告サイトではない、そういうところが弁護士ターゲットにやり始めた、重点を置き始めたと思しきものがいくつかあるという点です。

先ほど挙げた「駅テン!」は、駅の近くのお店や施設の情報を載せているサイトで、開業して2年を目前とした今の時期まで、勧誘のFAXなど来たことがありませんでした。
確かに、相手方についた代理人について調べるためにネット検索するときにたまに駅テン!で引っかかることはありますが、それほど多いわけでもありません。
先ほども言った通り、うちの事務所へのFAXの頻度はここ最近結構なものになっているので、なにか急に弁護士相手の営業に力を入れ始めたのか、それとも最近になってうちの事務所の存在を知ったとしか思えません。

「弁護士用の広告サイトを出すことになったのでどうですか」という勧誘をしてきた業者の中に、「ココナラ」というサイトが含まれておりました。知っている方も少なくないかもしれませんが、ココナラは「自分のスキルや経験、知識のオンラインマーケット」をうたい文句とする、いわゆるクラウドソーシングサイトの1つです。
フェイスブックアカウントやヤフーIDで会員登録もできる、元々は匿名性が高いクラウドソーシングサイト、というのがテラバヤシの認識です。

以前、郵便局の現金封筒に事務所の名前を出すという広告を出していたことから感じたのですが、都市圏において、「地域」を前面に押し出した広告というのは、弁護士に限ってはあまり効果的ではないように思います。
現金封筒を見ました、相談したいです、依頼したいですという電話やメールは、テラバヤシの場合、1度もありませんでした。
「駅テン!」をわざわざ見る人って、例えば、とある駅の近辺に引っ越そうと思っている、あるいは勤務先がその辺になり、周囲にどんなものがあるか調べる人…とかではないかと思われ、弁護士を探すためにわざわざ駅テン!を見る人はいない、あるいはごくごく少数ではないかと思うのです。
駅テン!への掲載というのは、「そういえば、あそこの駅の近くに○○という弁護士がいたはず」という、「記憶喚起型」であり、そういう意味では現金封筒と同じ、つまり即効性がない広告であることは間違いありません。

弁護士用広告サイトのお誘いは、営業さん、皆さん決まって「弁護士ドットコムさんがやられているようなのと同じなんですが」といううたい文句でご説明をされます。ココナラもそうでした。そのうえで「一度お伺いしてお話をさせていただきたい」というわけです。つまり、自分らが二番煎じ、三番煎じであることを露呈して営業しているわけです。
そうである以上、事務所に来てもらってお話を聞けば、おそらく何らかの差別化が図られているか、何かものすごいリーズナブルであるとか、そういった売りをお持ちなのだと思います。なお、ココナラさんは、3か月無料とお電話で言っておられました。

しかし、冷静に考えてみれば、圧倒的な知名度と圧倒的なシェアを持つ弁護士ドットコムを凌駕するほどの差別化を図れている業者なんて、そうそうあるとも思えません。
また、弁護士ドットコムは、以前弁護士業務広告に関するシンポをしたときに勉強したのですが、非常によく広告方法が研究されていて、弁護士業務広告の規制に(ぎりぎり?)引っかからないような工夫がきちんとされていたりします。

ココナラの営業の電話がかかってきたとき、今まで弁護士をコアなターゲットにしてこなかった新規参入組?の広告業者って、弁護士広告の規制とか、きちんと把握していらっしゃるのだろうかととても疑問に感じました。
なぜかというと、携帯電話からの着信だったからです。営業電話を外注に出しているんじゃないのかと思いました。もしそうだとしたら、とても気軽に「弁護士の広告」を考えている、つまり、規制に関する知識がないんじゃないか?ということです。

出さなければならない情報は何か。
出してはいけない情報は何か。
その他、やってはいけない表示。

以前もこのブログで書いたような細かな規制が弁護士の世界には存在しているわけです。
それらをちゃんとクリアした広告を新規参入の業者さんはきちんと提供してくれているのでしょうか。

ついでに言うと、チャット法律相談の登録の勧誘なんて、チャットの向こう側に誰がいるのかわからない状況で(つまり、知らず知らずに利益相反を生じさせてしまっている危険性がある)、さらに会話内容が漏れない保証もなく、守秘義務違反の問題とかクリアできてるんだろうかと、もう聞いただけで怖くて手を出そうという気になりません。

「弁護士に仕事がない」という情報が広く流布されてしまっているこの世の中、あの手この手の集客ビジネスは、、百花繚乱になりつつあるようです。
中には、詐欺まがいの業者だっているのかもしれません。
非常に不勉強で、弁護士の広告規制や各種義務に反することになるかもしれない広告を勧誘してくる業者もいるのかもしれません。

いいカモにならないためには、目の前の人参にかぶりつく前に、弁護士の側が、広告規制や職務倫理を叩き込んでおくことが必要だということでしょう。







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# by terarinterarin | 2016-10-17 01:49 | Comments(2)
10月7日、日弁連の人権擁護大会で死刑廃止宣言が採択されました。
テラバヤシは仕事のために行けませんでしたが、(おそらく採択されるのだろうとは思っていたものの)どうなるのやらと、そのなり行きはとても気になっていました。

あとで詳しく書きますし、前回の投稿でも書きましたが、テラバヤシは死刑廃止派です。が、死刑廃止宣言の採択については、正直、複雑な気持ちでいます。

死刑は廃止すべきだということを強く政府に働きかけていくためには、個々の弁護士でも、有志一同でもなく「日弁連」という形でかかっていかねばならないことは言うまでもありません。

しかし、日弁連は、刑事被疑者被告人、受刑者の人権保護活動だけでなく、犯罪被害者の人権保護活動も行っている組織です。
そして、強制加入団体です。

被害者やその遺族の多くが持つ報復感情、加害者の死を望む感情は、人間として無理もないものです。その気持ちに寄り添う活動をする弁護士がいるのも、だからこそ当たり前です。

ですが、このような弁護士は、弁護士としての活動を続けていく限り、日弁連をやめることはできません。今回の採択は、個々の弁護士の思想信条を損なう恐れも内包しているようにも思えるのです。

採択の前には、かなり長時間の討議がなされていたようです。決して存続派の意思を蔑ろにしての採択ではなかったのでしょう。
そして、今後も政府への働きかけにあたっては、存続派の弁護士の意見聴取の機会も設けられ、死刑に代わる制度や新たな被害者支援の政策提言もなされていくことと思います。
しかし、多数決は多数決です。存続派の意見は、少なくとも7日の採択の時点では切り捨てられてしまったと言わざるを得ません。

だからこそ、私個人は死刑廃止派とはいえ、宣言が採択されたことについては、諸手を挙げて「良かったですね!!」と言うことが、躊躇されるのです。

とはいえ、テラバヤシは何度も繰り返して申し上げますが、死刑廃止派です。
私が死刑を廃止すべきだと考える理由をお話ししたいと思います。

死刑に犯罪抑止効果を期待できないということ(死刑制度が設けられていても凶悪犯罪は日々起こっています)。
冤罪だった場合に取り返しがつかないこと。
死刑は憲法が禁じる残虐な刑罰に当たること。
廃止派があげる大きな理由はこのみっつかと思います。

これに加えて廃止すべきと考える理由として、「ひとりの人を殺すために多くの人を巻き込みすぎる」ということが挙げられます。

死刑を執行するとは、死刑確定者を勝手に死なせることではありません。ルールに則ってその人を殺害するのです。ルールに定められた手順に従って、死刑確定者を死に至らしめるための担当者がいるのです。

その最前線にいるのが、刑務官をはじめとする刑事施設の職員です。

日本の死刑の方法は、絞首刑。死刑確定者が首を紐にかけた後、足元の床が抜けて首を吊った状態にさせて、死に至らしめるものです(余談になりますが、窒息死させるものではなく、頚椎を折って死なせる方法です。場合によっては、首が切断されると聞いたことがあります。この方法が残忍であるとして、死刑に反対する見解もあります。しかし、この理由によれば、他の方法であれば死刑が許容され得ます)。

この床を抜くための装置を動かす担当の職員が、自ら死刑確定者の死に手をかけることになります。
話によれば、ボタンが5つあって、複数の職員が上司の合図で一度にそのボタンを押すことになっているとのことです。これは、「自分が殺した」という罪悪感を軽くするため、と言われています。

がしかし、こんなもので、精神的負担なんて軽くなるわけはないでしょう。
自分じゃないかもしれないけど、自分かもしれないのです。
別に自分がその人に恨みを持っているわけでも、その人の死を望んでいるわけでもないのに、自分が殺めたのかもしれない。
その気持ちは、そんな簡単に消えるものではないでしょう。

ボタンを押すよう合図をする刑務官の心的負担だって相当大きいでしょう。
自分の合図の次の瞬間には、今そこにいる人が死んでいるわけですから。

その後の検死作業も、死んだばかりの生々しい遺体を目の前にして行われるわけです。
ついさっきまで自分の目の前を歩いていた人です。
その姿をどんな気持ちで刑務官たちは見るのでしょうか。
仕事だから、と割り切れるのでしょうか。
何も感じないのでしょうか。
そんなはずはないと思うのですが。

死刑の執行に立ち会ったこと、ボタンを押す係をしたことによって、精神を病んだ人はいないのでしょうか。
仕事を続けられなくなって、やめた人はいないのでしょうか。
その後の人生を、みんなつつがなく送れているのでしょうか。
この点に関するデータが何かあるのなら、見てみたいものです。

最前線ではありませんが、死刑の執行にGOサインを出すのは、法務大臣の仕事です。
鳩山邦夫は、法務大臣時代に、宮崎勤の死刑を執行すべきだと法務省の職員に自ら働きかけたという噂がありますが、歴代法務大臣は、こんな人ばかりではないでしょう。
GOサインを出した後の光景を想像して心的に大きなストレスを抱えた人だって、中にはいたはずです。

そして、死刑判決を下す裁判官や裁判員は、犯罪者を死に導く道筋を最初につける役割を担うこととなります。
裁判官は、裁判官になった時点で、多かれ少なかれ「いつか自分も死刑判決を書くことになるかもしれない」という覚悟をおそらく持つものでしょうし、それを分かった上で裁判官になっています。
が、裁判員の皆さんは、訳が違います。
ある日突然裁判員を務めることになり、自分の意思で事件を選ぶこともできません。
当たってしまった事件で死刑判決を出すことになってしまうのです。

評議において死刑に票を投じた人もそうでない人も、自分の目の前にいる人に対して死を命じる(正確に言うと「国家によって後に殺されなさい」と命じる)ことについて、良心の呵責を覚える人が多いでしょう。
実際、死刑判決が下された裁判員事件の後の記者会見で、担当した裁判員の皆さんが心的に大きくのしかかった重圧について吐露している記事を何度か目にしました。

自分が死刑判決を下した人の刑が執行されたと言うニュースを、裁判員の人はどんな風に聞くのでしょう(心境を吐露した裁判員の方の記事は一度読んだことがありますが)。罪悪感に苛まされ、心的なバランスを崩す人も、実際のところ少なくないのではないでしょうか。

裁判員制度を導入するなら死刑を廃止すべきだという議論もありました。もちろん死刑判決を出すことによって裁判員に生じうる心的なストレスを排除するためです。
しかし、大きくクローズアップされることもなく、死刑制度が存置された中で裁判員制度は開始されました。

もちろん、裁判官だって死刑判決を出すのに、実際は悩み苦しんでいるのではないかと思うのです。自分が死刑判決を書いた当人が実際に執行されたときに、裁判官が何を思うのか、聞いてみたいものです。

すっかり長くなってしまいましたが、一人の人の死刑を決め、死刑を執行するまでの間には、実に多くの人の手がかかっていて、関わった人たちの少なくとも一定数の人には、大きな罪悪感やトラウマを残しているといえます。

これは死刑という制度を置いていることによって生じている大きな犠牲ではないのでしょうか。
これだけ大きな犠牲を払って死刑を残していても、実際に、残虐な犯罪はなくなってはいません。

死刑は、死を命じ、刑を執行するまでの過程で、多くの人に多くの負担をもたらします。そして、その負担は決して軽いものではなく、とても重いものです。
死刑制度は、払われる犠牲の大きさに比べて効果が薄い制度ではないか、そう思わずにはいられません。

そういう意味でも、死刑はやはり廃止されるべきであると思うのです。









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# by terarinterarin | 2016-10-09 01:38 | Comments(5)
オウム真理教の教祖だった麻原彰晃氏の三女、松本麗華さんが、東京拘置所から再三に渡り麻原氏との面会を断られていることを公表して話題になっています。
今回は、松本麗華さんの記事を読んで思いついたことを、つらつらと書いていきたいと思います。

拘置所や刑務所に勾留・拘禁されている人(死刑確定者以外)が外部の人と面会するにあたっては、法律上様々な制限が設けられています。
例えば、まだ刑事裁判によって有罪が確定していないいわゆる未決拘禁者については、「1日に1回、1度に3人まで」と決められています。
受刑者については、まず面会できる相手方が、親族や釈放後に雇用を予定している人など一定の範囲の人に限られます。また、面会の回数は、受刑開始直後は1か月に2回とされています。その後、その回数は、問題行動なく受刑生活を送っている場合には徐々に増えていくことになっているようです。
面会には、刑事施設の職員が立ち会って、会話内容に問題がないかなどをチェックします。
面会時間は1回につき15分から20分と短いものです。
未決拘禁者は、まだ「罪人」と決まったわけではなく、矯正教育を受けている立場ではないので、受刑者よりも幅広く外部の人との面会が認められているのです。
余談になりますが、未決拘禁者は、本や雑誌を購入したり差し入れしてもらったりして、基本的には自由に読めますし、お金があればお菓子などを買うこともできます。

未決拘禁者の場合も、受刑者の場合も、弁護士との面会には、特別なルールが設けられています。
まず、自身の刑事事件の弁護人との面会については「秘密交通権」が保障されているので、職員の立会いも、時間や回数の制限もありません。
また、拘置所や刑務所における処遇の問題について弁護士の法律相談を受ける場合、法的措置に向けて打ち合わせをする場合にも、職員の立会いを排除することができます。
ただ、これらとは関係ない単なる民事事件の法律相談については、一般の方との面会とほぼ同様に扱われることとなります(但し、事前に申請することによって面会時間は一般の方よりも延長してもらえることが多いです)。

死刑確定者の扱いは、未決拘禁者や受刑者とはかなり違います。

法律上は、親族や「心情の安定に資する者」(例えば、旧知の友人などが当たります。)など一定範囲の人から面会の申し出があれば、原則として面会が許可されることとなっています。
がしかし、実際の運用は異なります。
面会の申し出をしても、法律上の例外に当たるとは考えられないようなケースで、面会することが認められないケースが散見されるようです。
従来面会を認められていた人について、ある日突然認められなくなった。そんなこともあるのです。
松本麗華さんの件は、特殊な事例ではありません。

最近麗華さんが面会を求めた際には、麻原氏が面会に応じる意思を表明しなかったからという理由で面会が認められなかったそうです。
麻原氏は現在右も左も全く分からない心神喪失の状態にあるということですから、それを前提とすると、面会に応じる意思表明をすることはありえないわけで、松本麗華さんは、この先も麻原氏には全く会えないということになります。
そして「面会に応じる意思を表明しない限り」面会を許可しないなどというルールは明示的にないわけで、拘置所の職員が松本麗華さんに告げた不許可の理由は、合法的なものとは考えにくいと言わざるを得ません。

死刑確定者の場合は、弁護士との面会も、受刑者や未決拘禁者と異なります。
どんな理由の面会であっても、必ず立会いが付くのです。
施設側の処遇に対する法律相談のために面会する場合、未決拘禁者や受刑者であれば、職員の立会いなくして会うことができます。
しかし、このような相談であっても、死刑確定者の場合には立会いの職員を排除することはできません。

また、再審請求をしている場合、担当の弁護士と打ち合わせをするにあたっても、職員が立ち会います。
先ほども述べた通り、未決拘禁者が弁護人と打ち合わせをする際には立会いが付くのです。これは、職員(国家権力)の監視を受けない弁護人との十分な打ち合わせの機会を確保するためです。
そのような機会が死刑確定者の再審請求には認められていないのです。
死刑確定者にとっては、再審請求は、死刑を回避するための最後の砦です。
通常の刑事手続と同等あるいはそれ以上に弁護士との密な打ち合わせの機会が保障されてしかるべきのはずなのに、それが確保されないのです。
聞いたところでは、職員からの信頼を得ている(例えば、長年コンスタントに面会に通っているような)弁護士との面会の場合には、例外的に立会いの職員が付かない場合があるようですが、特例的な扱いにすぎません。

このように、死刑確定者の外部との接触は著しく制限され、かつ必ず監視がつくことになります。
なぜでしょうか。

簡単に言えば、「ちゃんと死刑が執行できるように」と言われています。
死刑確定者は、いつ刑が執行されるかわからない常人では予想できないような恐怖とともに毎日を過ごしています。
執行に至るまでの過程で精神に異常をきたす人も少なくないと言われています。
つまり、いつどこでどんなタイミングで精神のバランスを崩すかわからないわけです。
死刑の執行は、確定者が「心身ともに健康な状態」でなければできないとされています。
精神に異常をきたされては、死刑を執行できないのです。
自殺されても困るのです。
そのために、余計な刺激が与えられないよう、外部との接触を制限し、監視をつける。

もちろん、死刑になるような重大な犯罪を犯した人間なので逃亡を何としても防がねばならないという事情もあるでしょう。

しかし、それ以上に、死刑確定者が日々どんな暮らしをしているのか。そんな内部事情がさらされないように、ということなのではないでしょうか。
あるいは「死刑確定者」自体を社会にさらしたくない。そんな思惑もあるように思えてなりません。

死刑確定者が施設内に拘禁されていることを「刑に服していること」と思っている人が少なくないようですが、死刑確定者に課される刑はあくまで「死ぬこと」です。
拘禁は刑の執行を確保するために行われているにすぎません。
そうであれば、本来、「刑の執行を確保するために必要な範囲」での権利制限しかできないはずなのです。
そして、「心身ともに健康な状態」を保つためには、然るべき人と自由に会えることが最も重要なことのはずなのです。

これに加え、死刑確定者との面会は、その家族や近しい人の権利でもあります。
麻原氏は、確かに最悪のテロ犯罪の首謀者です。
しかし、麗華さんにとってみれば、お父さんです。
お父さんの今の姿がどんなものなのか。
それを確認する権利が麗華さんにはあるはずです。
それは、麻原氏が凶悪犯罪の首謀者であったこととは関係ありません。

死刑確定者は、被害者やその家族、世論から見れば極悪人です。
しかし、裁判所から「生きる価値がない」と烙印が押されたとしても、この世の誰かにとっては生きる価値がある命の持ち主であること(あるいは、あったこと)は間違いないはずです。
国は、人を殺してはならないと義務を課しておきながら、自ら人を殺せる制度を作っています。
その矛盾を償う意味でも、死刑確定者とその人を大切に思う誰かとの最後の時間を大切に見守るべきではないかと思います。

*なお、私は死刑廃止論者です。

<付記:平成28年10月7日>
本投稿を読んでくださった同業の方から、東京拘置所では、再審事件の打ち合わせに当たっては30分の時間制限は課されるものの、職員の立会いはないという情報がありました。
また、別の弁護士からは、処遇相談と再審事件相談にあたりやはり東京拘置所で職員の立会いはなかったという情報がありました。
テラバヤシ自身が数年前に死刑確定者の処遇に関する相談を受けた際には、都度申し入れをしたにもかかわらず職員の立会いは排除されませんでした。
あたかも原則が「立会いあり」のような書き方を本文中でしてしまいましたが、刑事施設毎・事案毎に扱いが異なる可能性が高そうなので、この点は訂正させていただきたいと思います。

これは、死刑確定者に限りませんが、細かな面会等外部交通の運用は、施設毎、あるいは施設責任者の交代により変わるものです。
以前、名古屋拘置所においては、公判前・公判中の未決拘禁者において、弁護士側による私的精神鑑定を行う際には、数時間にわたりアクリル板のない部屋で面談等を行うことが認められていた時期がありました。
ですが、とあるタイミングで、このようなことが認められなくなりました(現在どのような運用になっているかわかりません)。
東京拘置所においては、(少なくとも数年前までは)アクリル板のない部屋での鑑定のための面談が認められることはなく、面談時間も30分以内だったようです(現在また運用が変わっていれば情報をいただけると幸いです)。







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# by terarinterarin | 2016-10-06 00:51 | Comments(0)
フリーキャスター長谷川豊さんのブログ「本気論 本音論」の9月19日の記事が物議をかもしていることは、多くの方が既にご存知だと思います。

重い腎疾患で人工透析を受けている患者の多くが「自業自得」であり、こういう人を経済的に年金や保険が救済できるため、病院が大変に大儲けしている。このような利権まみれの保険や年金システムは解体すべきだ…という趣旨の記事です。
この記事が人工透析患者を侮辱していると報じられて長谷川さんには多くの非難が集中し、結果、現在のところテレビ番組2つを降板することになったようです。

私は、一読して、国民の負担の上に一部の病院が大儲けできるような年金・保険のシステムを改革すべきだという趣旨のことを言いたいのだな、と思いました。
また、全ての人工透析患者を一緒くたにして「自業自得」と言っているわけでもないと感じました。
が、糖尿病も含めた生活習慣病は、実は貧困層に多いとも言われています。実際、仕事を通じて、テラバヤシもこの点は強く感じます。
また、体質的な問題で、それほど不摂生な生活を送っていない人でも糖尿病予備軍にはなるものです。何を隠そう、この私も、ヘモグロビンA1Cの値が何年もの間健診でひっかり続けており、遂に今年は栄養士の指導を受ける羽目になったくらいです(テラバヤシをよく知る人は、あのスリムな体型で?運動もある程度しているのに?と思うことと思います)。
一定の「自業自得」層がいることは否定できないとはいえ、それを人工透析患者の「大半」と書いてしまったことは、甚だ勉強不足・調査不足、あるいは「書きすぎ」でしょう。結果として記事のその部分に焦点が当たってしまい、多くの非難が集中したことは、致し方ないのではないかと思います。

長谷川さんといえば、今までもブログの記事が物議をかもすことが何度かありました(注:自分のことは棚に上げています)。
個人的に印象に残っているのは、昨年、安保関連法の議論が華やかに繰り広げられていたところ、日本国憲法と国連憲章の記載の違いを指摘して「憲法9条は違憲だ」という趣旨の記事を書いたことでした。
一国の憲法と国際法規の効力の優劣については、著名な憲法学の本のどれにも記載がありますし、最近であればネットてちょっと探せば苦労せずに調べることができる類のものです。
そういう最低限のことをしていないのか、したうえで敢て書いているのかよくわかりませんでしたが、いずれにせよ、自身の発信力の強さも考えずに、世間をミスリードする投稿を平気でする方なのだなと思いました。

一方で、元少年Aが書いたという「絶歌」については肯定的な意見を述べていました。世間の多くが、元少年A自身や「絶歌」に対して、強い嫌悪感を示していました。
「絶歌」については、テラバヤシも肯定的な意見を述べて非難のコメントもいくつか受けたのですが、正直なところ、長谷川さんが肯定的な意見を出していたことには驚いたものです。

今回の「人工透析騒動」に関しては、今まで長谷川さんに対してたまっていた「ツケ」が一挙に精算されてしまったなと感じています。
今までの様々な刺激的発言がなく、ポッと今回の記事が出てきただけであれば、彼には少なくとも、テレビなどで弁明の機会が与えられたように思うのです。
ですが、今までの物議をかもす発言によって、少しずつたまっていたアンチ長谷川な雰囲気や、テレビ関係者の「あまり何もしてくれるな」というハラハラ感が、この度限界線を越えてしまって、「テレビには出すべきでない」という見る側と作る側の暗黙の合意形成に達してしまった…そういうことではないかと思います。

ただ、長谷川さんの記事の内容が、仮に、例えば「生活保護受給者には人工透析を受けさせるべきではない」とか「貧困層に対する医療費支援策は即刻辞めるべき」、つまり、「貧乏人は医療を受けられずに死んでも構わない」という論調のものだった場合(あるいはそのように受け取られる記事内容だった場合)、今回の様な非難の嵐が巻き起こり、テレビ番組を降板させられるような事態にはならなかったのではないでしょうか(注:長谷川さんがこのようなポリシーの持ち主であることは私にはわかりませんので、あくまで、このようなことを書いたと仮定してのことです。誤解のないようお願い致します)。

今回、長谷川さんがここまで叩かれてしまったのは、世間の大半が「叩いてはいけない」と考えているであろう「人工透析患者」を叩いていると受け取られる記事を書いてしまったからでしょう。
「生活保護受給者」「貧困層」に対しては、「自分たちが納めている税金を食いつぶしている」「ろくに働きもしない怠け者」などと揶揄・非難する層が相当程度おり、そのため、世間の一定数の人々は、こういうカテゴリーに属することになった人々の内情に対する理解もないまま、「叩いていい人」と認定しています。
仮に今回の長谷川さんの記事がこういう「叩いていい人」と世間的に思っている層を叩くとも受け取れるものだった場合、ネット上には、彼を擁護・称賛するコメントが多々寄せられることとなり(もちろん非難するコメントも多々寄せられることとは思いますが)、番組降板という事態には至らなかったと思うのです。

これは、対象が在日朝鮮人・中国人といった人たちでも同じでしょう。在特会の元代表者桜井誠氏が東京都知事選で在日朝鮮人を排斥するような公約を掲げたところ、かなりな票数を獲得したことからも想像に難くありません。

今回の騒動の本質は、結局のところ「リサーチ不足の不適切な発言」や「誤解を生むような過剰な言動」が非難の的になったというものではなく、なんとなく世間的に叩いちゃいけないことになっている層を叩いてしまったというKY感を責めているものにすぎないように思えます。
日本の世の中に巣喰っている、弱者や異物は叩いていい、みんなで同じ方向を向いていて当たり前という同質性を強要する雰囲気が透けて見えてしまう、なんともいやな騒動だと、つくづく思うのです。


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# by terarinterarin | 2016-10-01 15:33 | Comments(2)
先日、ばったり法テラス時代の後輩に会いました。
結構長いことスタッフ弁護士をやっていたその方、ついに法テラスを出ることになったとのことでした。
退任後は知り合いの事務所に就職することになるそうで、ホッと一安心のご様子。

バリバリと仕事していた人で、私も自分が受けられない件をお願いしたこともありました。良い転職先?が決まったようで、テラバヤシもなんだか嬉しくなりました。

テラバヤシがスタッフ弁護士をやめたのは、2013年の3月のことでした。やめようと決心したのは2012年の12月。考え始めたのはその年の秋頃だったように記憶しています。

これは法テラス以外の事務所を辞めるケースでも同じだと思うのですが、やめようと考えた時、真っ先に考えたのは、辞めたあとどうするか?でした。

友人と一緒に理想に満ちた事務所を立ち上げようとか、こういう仕事がしたいとか建設的な方向性でやめたわけではありません。
その後のことを考えずに、とりあえず辞めることを決めた、という状況だったので、決めた後で辞めた後のことを考えねばならなかったわけです。

独立は、できれば避けたいと考えていました。
最大の理由は、依頼者と「委任契約を交わす」ことの感覚が、どうにもわからなかったということです。

法テラスのスタッフ弁護士として名古屋に行く前の1年間は、一般の事務所にいて、事務所のボスや先輩弁護士たちと仕事をしていました。
が、実際に契約締結の場面に立ち会うということは、ほんの数回だったように記憶しています(ボスはど*@りだったし)。

司法過疎地の法テラス法律事務所は、民事法律扶助や国選に業務が限られないため、地域によっては、スタッフ弁護士でも、依頼者との間で自分が主体的になって委任契約を締結することが比較的多かった人もいると思います(ただ、多分普通の二者間の委任契約ではないと思いますが)。
テラバヤシが赴任していた法テラスはいわゆる都市型。例外的に一定の要件を満たすケース以外は、民事法律扶助と国選以外の仕事はできません。
つまり、依頼しに来た人との間で、着手金や実費、報酬について協議して取り決め、契約書を作るという経験が皆無と言っても過言ではない、ある意味異常な弁護士生活を何年も送っていたということです。

この点においては、法テラスをやめようと決めた時点で、新人弁護士も同然な状況だったといえます。

法律相談の時の相談料のもらい方、着手金や報酬の相場感、提案の仕方、契約書の内容をどうするか?
こういう初歩的なことが真っ白な赤ちゃんの状態でいきなり独立するなんて、もう怖くて怖くて、とってもいきなり独立してひとりでなんてできないわ。
そんな心境で、まずは私を入れてくれる事務所を探そうと思いました。

公設事務所へのアタックという選択肢もなくはありませんでした。
が、(今だから言いますが)自分としては、せっかく法テラスを離れるのに、法テラスに類似した雰囲気がありそうなところに再び入ることには、若干の抵抗がありました。

時はちょうど、弁護士業界の不況が深刻化してきたところでした。

その時点でテラバヤシは弁護士経験6年目でした。普通の事務所に移るとなると、普通に考えれば、パートナーとして一緒にやっていくことを求められることになるでしょう。
しかし、刑事事件や個人破産、財産分与なんて問題にならない離婚、そんな金にならない事件ばかりやってきた自分には、普通のマチ弁の事務所に移ってパートナーになれる才覚はないように思えました。

そもそもが営業下手なうえ、ギリギリまであまりおおっぴらに法テラスを辞めるということも公表したくありませんでした。
就職活動は難航し、このままじゃ、いきなり独立かも、おっかない契約締結も、いきなりひとりでやらなきゃならなくなるかも、と覚悟をしかかった頃、琥珀法律事務所のボスの川浪さんに声をかけてもらったのでした。

琥珀法律事務所に入って、川浪さんと一緒に相談を受けたり、契約締結に同席するようになって、次第に委任契約を結ぶ際のおっかなさがなくなりました。「どういう費用で受けるかについては一応の基準は設けておくにしても、最後は、その場で決めざるを得ないこともままあるのだ」(もちろん暴利を貪ってはいけない)と思うこともできるようになりました。

法テラスを退職してからの琥珀法律事務所での1年半が、普通の?弁護士になるために必要な時間であったことは間違いありません。

私が法テラスのスタッフ弁護士をやっていた頃は、3年の任期を更新する人はそれほどいなくて、おそらく同期の半分以上は1回目の任期を終えて法テラスを退職していたように思います。
元々の出身事務所が公設事務所(やこれに類似する事務所)だった人の多くは、そこに戻って行きましたし、元々は公設事務所出身じゃなかった人の中にも、退職後公設事務所に入るという人がいました。
いきなり独立した人は少数派だった記憶ですが、司法過疎地域の法テラスに赴任した同期の中には、退職後独立してその地に定着するというケースもありました。
公設も含めて出身事務所に帰るケースでは、テラバヤシが持ったような恐怖感を持たずに済むんだろうなと思いますが、いきなり独立した人は、怖くなかったのかな、凄いなと思わずにいられません。

最近は任期を更新するスタッフ弁護士も多いようで、しかもスタッフ弁護士在任中に出向したり、法テラスの本部に在籍したりして、弁護士業務そのものから離れることも少なからずあるようです。
法テラスを辞めて、いざ「普通の弁護士」に戻ろう(というか、「なろう」といったほうが正しいかもしれませんが)というとき、法テラスにいた期間が長ければ長いほど、恐怖心は募らないのかなと、小心者のテラバヤシは考えてしまいます。

それとも、長くスタッフ弁護士をやっていた人の中で、「普通の弁護士」に戻ろう、なろうという人は少数派なんでしょうか。「任期付公務員」になったり、あるいは、スタッフの頃に興味関心を持った分野に特化した弁護士の道を歩んでいくことが多いのでしょうか。
いずれにせよ、門戸はそれほど広くなく、ゆるくない道が待っていることは間違いなさそうです。

これからスタッフ弁護士になろうという人、スタッフ弁護士をやめようと考えている人に、今回テラバヤシが書いたことがほんの少しでも参考になれば幸いです。





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# by terarinterarin | 2016-09-23 16:24 | Comments(2)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terarinterarin