弁護士の業務広告のお話をした以前の投稿でも触れましたが、今年度、テラバヤシは東京弁護士会の所属派閥の執行部のお仕事をしています。
担当は弁護士業界の「業務改革」分野の様々なことです。
そんなわけで、月に1回ほど同じ担当の同業者と会合を開いては、弁護士業務にまつわる現代の問題点、新たな問題点について議論したり話し合ったりしています。

そんな会合があった先月終わりのこと。会合後の飲み会の席で、事務所のホームページの話になりました。
このブログでも何度か触れていますが、ともえ法律事務所のホームページは業者に頼まずにテラバヤシ本人が作りました。
見ていただければわかりますが、全く法律事務所っぽくないホームページです。自分の趣味全開です。
昨日なんぞ、とある法律事務所のホームページについてあれこれ論評していたところ(まあ、あまり褒めてはいない)、我が妹から「ひと様の事務所のホームページにあれこれケチつけてる場合か」というきっつい一言をもらってしまったくらいのものらしいです、どうやら。

これらに加え、このブログや各種ウェブサイトの記事などから、ともえ法律事務所にたどり着き、テラバヤシに依頼しよう、相談しようと思う人は、かなりな程度限定されているようで、お陰様で、事務所開設以来、依頼者との関係で大トラブルが生じたということは今のところほとんどない状況です。
つまり、様々な媒体を使って?テラバヤシの趣味嗜好を前に出した結果、テラバヤシでも我慢できるという方々だけが来てくださっている、と言ってよいと思うのです。

そういう話を飲み会の席でしたところ、とある大大大先輩にして、修習生や若手弁護士のセミナーでも有名なとある弁護士から、こんな話を伺いました。
少し前に、事務所のホームページの文字を小さくして、記載する内容を増やしたのだそうです。
そうしたところ、冷やかしみたいな法律相談の依頼や、法律相談・依頼をめぐるトラブルが格段に減ったのだとか。
「ホームページの業者の言うなりになっちゃだめだよね」と、その大先輩は話していました。

似たような話は、弁護士業界以外にもありました。

もう10年以上も前から、我が妹がお世話になっているフラワーアレンジメントの先生がいます。
先生は、普段はお花屋さんをやっています。
大きな通りからは少し離れたところにある、「知る人ぞ知る」お店です。
私も何度か訪れたことがありますが、置いてあるお花は白やくすんだ色のものばかり。赤や黄色やピンクなど鮮やかな色の花はほとんど置いてありません。

このお店のホームページは、先生がご自分で作っています。
ホームページには、お花の注文フォームはありません。
注文は来店か電話でしか受けません。
お花業界では(どこもそうかもしれませんが)、インターネットの注文のトラブルがとても多いらしいのです。
先生のお店では、注文をめぐるトラブルは一切ない、とのことです。

大先輩の話、お花の先生の話を聞いて、「自分のやり方はやっぱり間違っていなかったのだ」と思えました。

弁護士とてサービス業の一種(と私は思っています)。
そうである以上、常にトラブルとは隣り合わせです。
そのトラブルの因子を少しでも少なくするのが、仕事をスムーズに運ぶ大きなひとつのコツであることは間違いありません。
そして、トラブルを回避する1つの方法として、間口の部分で、自分の仕事のコンセプトや事務所の特質などを理解してくれる人がたどり着けるようにしておくことは、とても有効なのです。
ホームページを自分で作る、ホームページに自分なりの工夫を加えるということは、まさにその第一歩だといえるでしょう。

仕事をどういうルートで受けるかということも、「間口」の部分で、自分にマッチした人がたどり着くようにするという意味では非常に重要ではないかと思います。
テラバヤシは、電話相談もメールのお問い合わせもしているので、一見かなり受注のルートは広いように見えるかもしれません。

しかし、実際には、お問い合わせ方法は、事務所にダイレクト電話、弁護士ドットコム及び「シェアしたくなる法律相談所」サイトを通じての電話又はメール、ホームページのお問い合わせメールフォームだけで、あとは時折紹介で事件をお受けするのみです。
これだけたくさんの「登録サイト」の営業が日常的に来ることを考えれば、大都市圏で、上記だけのルートであれば、特段多い方とは言えないと思います。

ルートを広げれば広げるほど、様々な人が自分のところにたどり着きます。
登録サイトによって紹介のされ方は様々でしょうから、十分に弁護士の人となりや事務所の雰囲気などを考えずにたどり着く人がかなり増えてくることになります。そうすると、事件の処理方法や相談への回答をめぐってトラブルが発生しやすくなる。
必然的に、他の仕事に影響が生じてなかなか進まないことにもなるわけです。

このブログでは、今までも弁護士の広告方法について何回か投稿をしています。
斬新なことを言っているとか思われたり、「いろんな人を受け入れてやっていくことが弁護士なのに、間口狭めてどうすんの」といった否定的な受け止め方も少なからずあるようでした。

しかし、うまく言えないのですが、「自分の仕事」を仕事として全うしようと思えば、それを理解してくれる人に来てほしいと思うのはある意味当然であって、そういう視点からホームページ作りというものを考えた場合、立派なものよりはその人のカラーが出るものを作ることが必要であることは間違いなさそうです。









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# by terarinterarin | 2016-11-06 00:53 | Comments(2)
高樹沙耶さんが、大麻の共同所持で逮捕されました。
ご本人は自分のものではないと容疑を否認しています。
先の参議院選挙で、日本ではまだまだ耳慣れない「医療用大麻」の解禁を訴えたこともあり、今、高樹さんは好奇の目にさらされています。

大麻の所持、というと私には忘れられない出来事があります。
まだ登録一年目の頃でした。
法教育委員会の会務で、中学生を裁判傍聴に連れて行った時のことです。

傍聴したのは、大麻所持の刑事公判でした。
法廷に入り、傍聴席に座ると、何やら給食用のパンを入れるような大きなプラスチックのケースが2つ3つ検察官側においてあるのが見えました。
首を伸ばして覗き込むとジップロックの袋に入った葉っぱ様のものがいくつもある。
罪名に「営利目的」は入っていませんでした。
どうやって入手したのだ、と新人だった私は、少したじろぎました。

そのうち、被告人が拘置所の職員に伴われて入廷してきました。
小柄な細い男性で、ネイビーに白線2本のアディダスのジャージの細身のジャケットをオシャレに着こなしていました。下はスリムのジーンズを履いてました。
髪は背中の半分が隠れるほど長く、ドレッドが取れかかっていました。
ボブマーリーみたいだな、と思いました。

大麻の単純所持の、いわゆる認めの事件でした。

検察官の冒頭陳述やその後の審理から、被告人は、
北海道の大麻の自生地に赴き、
まさかりで嬉々として大量の野生大麻を刈り取り、
それをダンボールに突っ込んで宅急便で自宅に送り、
長いことかけて乾燥させて適量ずつジップロックして、
「これで当分困らない」とほくそ笑んでいたらしいことがわかりました。

被告人の自宅を訪れた母親が偶然ジップロックの1つを見つけ、数日間逡巡した後警察に持参して発覚した、ということのようでした。

被告人に対して裁判官がいくつか質問をした後、最後に「起訴状の職業欄に自由業と書いているけど、どんな仕事をしているのですか?」と尋ねました。

ハーブ雑誌のライターです。

被告人は臆することなく、そう答えました。
まだ、脱法ハーブとか危険ドラッグなどという言葉はなかった頃の話です。

傍聴が終了した後、引率した中学生に対して、「どう思った?」と尋ねてみました。
先生、あの人はまた絶対やると思います。
反省しているなら、頭を丸めろって感じです。
率直な感想が返ってきました。
言葉は幼いですが、よく見ていてよく感じているなあと感心しました。

ボブマーリーのような風貌。
自分の職業について、堂々と「ハーブ雑誌のライターです」と回答したこと。
野生の大麻を刈り取ってきたというその行動。

もちろん、被告人質問の最中には、反省しています、二度としませんという言葉を彼は発していました。
しかし、彼の風貌や行動からは、大麻を使うことに対する罪悪感や程の悪さというものは感じられませんでした。
まさに薬効のあるハーブのひとつとして大麻を嗜んでいる、そんな雰囲気が漂っていました。

世界には大麻愛好者が結構な数いるそうで、大麻愛好者のための雑誌も流通しているという話を聞いたことがあります(まさにハーブ雑誌)。
多くの人が知っているように、大麻の使用が解禁されている国(使用方法や使用場所に一定の規制はありますが)も決して少数ではありません。
そういう国の中には、タバコにバカみたいに高い税金をかけている国もあります。もちろん目的はタバコによる健康被害をなくすことです。
大麻を解禁している国でも覚せい剤やコカインなどは禁止されているでしょう。
つまり、大麻だけが特別扱いされているわけです。

他の薬物と一線を画した「大麻」の扱われ方は、単に「覚せい剤やコカインやタバコのような危険性や害はない」という理由(諸説あるところですが)に止まるものではないでしょう。
「大麻」には、覚せい剤やコカインなどが持つ薬効に対する単なる依存性とは違う精神的な依存性があるのでしょう。洗脳、崇拝と言ってもいいかもしれません。

そして、そのポイントは、おそらく大麻が「自然に生えてくるもの」であるところにあるのでしょう。

高樹沙耶さんは、選挙の際に医療用大麻を天然の生薬として医療現場で使えるようになればいいと訴えていました。
ナチュラリストとしての生活を極めるため、沖縄に移住し、おそらくは志を同じくしている人と生活していたようです。
今回の共同所持の件への関与は脇に置いておくとしても、高樹さんが大麻に対して多大なる信頼を寄せていたことは疑いがなく、やはりそこには「崇拝」あるいはそれに近い信仰心のようなものを強く感じるのです。

そういう意味でいうと、大麻が人を惹きつける力というのは、覚せい剤やコカインなどの比ではないのかもしれません。
それを「依存性」というのであれば、大麻は非常に強い依存性を持つものと言えるでしょう。
単純に薬効だけで人を惹きつける薬物よりも、よほど恐ろしいものなのかもしれません。



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# by terarinterarin | 2016-10-29 22:48 | Comments(2)
ここ1~2か月ばかり、広告のお誘いが非常に増えております。

司法試験の合格発表もあり、新規登録目前のこの時期というのも何か影響があるのでしょうか。
テラバヤシの記憶にあるだけでも、「弁護士の広告サイトをやっているのですが掲載しませんか」というお誘いが2~3社、登録制のチャット式法律相談のお誘い1社、「駅テン!」とかいういわゆる「駅近」地域の情報発信サイトからの広告のお誘いなんかがあります

「駅テン!」の勧誘FAXは、ここ2か月くらい、10日から2週間に1回くらいの割合で来ていて、少なくとも、ともえ法律事務所に対しては、やたら積極的です。

テラバヤシ的にちょっと気になるのは、元々弁護士やその他士業に特化した広告サイトではない、そういうところが弁護士ターゲットにやり始めた、重点を置き始めたと思しきものがいくつかあるという点です。

先ほど挙げた「駅テン!」は、駅の近くのお店や施設の情報を載せているサイトで、開業して2年を目前とした今の時期まで、勧誘のFAXなど来たことがありませんでした。
確かに、相手方についた代理人について調べるためにネット検索するときにたまに駅テン!で引っかかることはありますが、それほど多いわけでもありません。
先ほども言った通り、うちの事務所へのFAXの頻度はここ最近結構なものになっているので、なにか急に弁護士相手の営業に力を入れ始めたのか、それとも最近になってうちの事務所の存在を知ったとしか思えません。

「弁護士用の広告サイトを出すことになったのでどうですか」という勧誘をしてきた業者の中に、「ココナラ」というサイトが含まれておりました。知っている方も少なくないかもしれませんが、ココナラは「自分のスキルや経験、知識のオンラインマーケット」をうたい文句とする、いわゆるクラウドソーシングサイトの1つです。
フェイスブックアカウントやヤフーIDで会員登録もできる、元々は匿名性が高いクラウドソーシングサイト、というのがテラバヤシの認識です。

以前、郵便局の現金封筒に事務所の名前を出すという広告を出していたことから感じたのですが、都市圏において、「地域」を前面に押し出した広告というのは、弁護士に限ってはあまり効果的ではないように思います。
現金封筒を見ました、相談したいです、依頼したいですという電話やメールは、テラバヤシの場合、1度もありませんでした。
「駅テン!」をわざわざ見る人って、例えば、とある駅の近辺に引っ越そうと思っている、あるいは勤務先がその辺になり、周囲にどんなものがあるか調べる人…とかではないかと思われ、弁護士を探すためにわざわざ駅テン!を見る人はいない、あるいはごくごく少数ではないかと思うのです。
駅テン!への掲載というのは、「そういえば、あそこの駅の近くに○○という弁護士がいたはず」という、「記憶喚起型」であり、そういう意味では現金封筒と同じ、つまり即効性がない広告であることは間違いありません。

弁護士用広告サイトのお誘いは、営業さん、皆さん決まって「弁護士ドットコムさんがやられているようなのと同じなんですが」といううたい文句でご説明をされます。ココナラもそうでした。そのうえで「一度お伺いしてお話をさせていただきたい」というわけです。つまり、自分らが二番煎じ、三番煎じであることを露呈して営業しているわけです。
そうである以上、事務所に来てもらってお話を聞けば、おそらく何らかの差別化が図られているか、何かものすごいリーズナブルであるとか、そういった売りをお持ちなのだと思います。なお、ココナラさんは、3か月無料とお電話で言っておられました。

しかし、冷静に考えてみれば、圧倒的な知名度と圧倒的なシェアを持つ弁護士ドットコムを凌駕するほどの差別化を図れている業者なんて、そうそうあるとも思えません。
また、弁護士ドットコムは、以前弁護士業務広告に関するシンポをしたときに勉強したのですが、非常によく広告方法が研究されていて、弁護士業務広告の規制に(ぎりぎり?)引っかからないような工夫がきちんとされていたりします。

ココナラの営業の電話がかかってきたとき、今まで弁護士をコアなターゲットにしてこなかった新規参入組?の広告業者って、弁護士広告の規制とか、きちんと把握していらっしゃるのだろうかととても疑問に感じました。
なぜかというと、携帯電話からの着信だったからです。営業電話を外注に出しているんじゃないのかと思いました。もしそうだとしたら、とても気軽に「弁護士の広告」を考えている、つまり、規制に関する知識がないんじゃないか?ということです。

出さなければならない情報は何か。
出してはいけない情報は何か。
その他、やってはいけない表示。

以前もこのブログで書いたような細かな規制が弁護士の世界には存在しているわけです。
それらをちゃんとクリアした広告を新規参入の業者さんはきちんと提供してくれているのでしょうか。

ついでに言うと、チャット法律相談の登録の勧誘なんて、チャットの向こう側に誰がいるのかわからない状況で(つまり、知らず知らずに利益相反を生じさせてしまっている危険性がある)、さらに会話内容が漏れない保証もなく、守秘義務違反の問題とかクリアできてるんだろうかと、もう聞いただけで怖くて手を出そうという気になりません。

「弁護士に仕事がない」という情報が広く流布されてしまっているこの世の中、あの手この手の集客ビジネスは、、百花繚乱になりつつあるようです。
中には、詐欺まがいの業者だっているのかもしれません。
非常に不勉強で、弁護士の広告規制や各種義務に反することになるかもしれない広告を勧誘してくる業者もいるのかもしれません。

いいカモにならないためには、目の前の人参にかぶりつく前に、弁護士の側が、広告規制や職務倫理を叩き込んでおくことが必要だということでしょう。







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# by terarinterarin | 2016-10-17 01:49 | Comments(2)
10月7日、日弁連の人権擁護大会で死刑廃止宣言が採択されました。
テラバヤシは仕事のために行けませんでしたが、(おそらく採択されるのだろうとは思っていたものの)どうなるのやらと、そのなり行きはとても気になっていました。

あとで詳しく書きますし、前回の投稿でも書きましたが、テラバヤシは死刑廃止派です。が、死刑廃止宣言の採択については、正直、複雑な気持ちでいます。

死刑は廃止すべきだということを強く政府に働きかけていくためには、個々の弁護士でも、有志一同でもなく「日弁連」という形でかかっていかねばならないことは言うまでもありません。

しかし、日弁連は、刑事被疑者被告人、受刑者の人権保護活動だけでなく、犯罪被害者の人権保護活動も行っている組織です。
そして、強制加入団体です。

被害者やその遺族の多くが持つ報復感情、加害者の死を望む感情は、人間として無理もないものです。その気持ちに寄り添う活動をする弁護士がいるのも、だからこそ当たり前です。

ですが、このような弁護士は、弁護士としての活動を続けていく限り、日弁連をやめることはできません。今回の採択は、個々の弁護士の思想信条を損なう恐れも内包しているようにも思えるのです。

採択の前には、かなり長時間の討議がなされていたようです。決して存続派の意思を蔑ろにしての採択ではなかったのでしょう。
そして、今後も政府への働きかけにあたっては、存続派の弁護士の意見聴取の機会も設けられ、死刑に代わる制度や新たな被害者支援の政策提言もなされていくことと思います。
しかし、多数決は多数決です。存続派の意見は、少なくとも7日の採択の時点では切り捨てられてしまったと言わざるを得ません。

だからこそ、私個人は死刑廃止派とはいえ、宣言が採択されたことについては、諸手を挙げて「良かったですね!!」と言うことが、躊躇されるのです。

とはいえ、テラバヤシは何度も繰り返して申し上げますが、死刑廃止派です。
私が死刑を廃止すべきだと考える理由をお話ししたいと思います。

死刑に犯罪抑止効果を期待できないということ(死刑制度が設けられていても凶悪犯罪は日々起こっています)。
冤罪だった場合に取り返しがつかないこと。
死刑は憲法が禁じる残虐な刑罰に当たること。
廃止派があげる大きな理由はこのみっつかと思います。

これに加えて廃止すべきと考える理由として、「ひとりの人を殺すために多くの人を巻き込みすぎる」ということが挙げられます。

死刑を執行するとは、死刑確定者を勝手に死なせることではありません。ルールに則ってその人を殺害するのです。ルールに定められた手順に従って、死刑確定者を死に至らしめるための担当者がいるのです。

その最前線にいるのが、刑務官をはじめとする刑事施設の職員です。

日本の死刑の方法は、絞首刑。死刑確定者が首を紐にかけた後、足元の床が抜けて首を吊った状態にさせて、死に至らしめるものです(余談になりますが、窒息死させるものではなく、頚椎を折って死なせる方法です。場合によっては、首が切断されると聞いたことがあります。この方法が残忍であるとして、死刑に反対する見解もあります。しかし、この理由によれば、他の方法であれば死刑が許容され得ます)。

この床を抜くための装置を動かす担当の職員が、自ら死刑確定者の死に手をかけることになります。
話によれば、ボタンが5つあって、複数の職員が上司の合図で一度にそのボタンを押すことになっているとのことです。これは、「自分が殺した」という罪悪感を軽くするため、と言われています。

がしかし、こんなもので、精神的負担なんて軽くなるわけはないでしょう。
自分じゃないかもしれないけど、自分かもしれないのです。
別に自分がその人に恨みを持っているわけでも、その人の死を望んでいるわけでもないのに、自分が殺めたのかもしれない。
その気持ちは、そんな簡単に消えるものではないでしょう。

ボタンを押すよう合図をする刑務官の心的負担だって相当大きいでしょう。
自分の合図の次の瞬間には、今そこにいる人が死んでいるわけですから。

その後の検死作業も、死んだばかりの生々しい遺体を目の前にして行われるわけです。
ついさっきまで自分の目の前を歩いていた人です。
その姿をどんな気持ちで刑務官たちは見るのでしょうか。
仕事だから、と割り切れるのでしょうか。
何も感じないのでしょうか。
そんなはずはないと思うのですが。

死刑の執行に立ち会ったこと、ボタンを押す係をしたことによって、精神を病んだ人はいないのでしょうか。
仕事を続けられなくなって、やめた人はいないのでしょうか。
その後の人生を、みんなつつがなく送れているのでしょうか。
この点に関するデータが何かあるのなら、見てみたいものです。

最前線ではありませんが、死刑の執行にGOサインを出すのは、法務大臣の仕事です。
鳩山邦夫は、法務大臣時代に、宮崎勤の死刑を執行すべきだと法務省の職員に自ら働きかけたという噂がありますが、歴代法務大臣は、こんな人ばかりではないでしょう。
GOサインを出した後の光景を想像して心的に大きなストレスを抱えた人だって、中にはいたはずです。

そして、死刑判決を下す裁判官や裁判員は、犯罪者を死に導く道筋を最初につける役割を担うこととなります。
裁判官は、裁判官になった時点で、多かれ少なかれ「いつか自分も死刑判決を書くことになるかもしれない」という覚悟をおそらく持つものでしょうし、それを分かった上で裁判官になっています。
が、裁判員の皆さんは、訳が違います。
ある日突然裁判員を務めることになり、自分の意思で事件を選ぶこともできません。
当たってしまった事件で死刑判決を出すことになってしまうのです。

評議において死刑に票を投じた人もそうでない人も、自分の目の前にいる人に対して死を命じる(正確に言うと「国家によって後に殺されなさい」と命じる)ことについて、良心の呵責を覚える人が多いでしょう。
実際、死刑判決が下された裁判員事件の後の記者会見で、担当した裁判員の皆さんが心的に大きくのしかかった重圧について吐露している記事を何度か目にしました。

自分が死刑判決を下した人の刑が執行されたと言うニュースを、裁判員の人はどんな風に聞くのでしょう(心境を吐露した裁判員の方の記事は一度読んだことがありますが)。罪悪感に苛まされ、心的なバランスを崩す人も、実際のところ少なくないのではないでしょうか。

裁判員制度を導入するなら死刑を廃止すべきだという議論もありました。もちろん死刑判決を出すことによって裁判員に生じうる心的なストレスを排除するためです。
しかし、大きくクローズアップされることもなく、死刑制度が存置された中で裁判員制度は開始されました。

もちろん、裁判官だって死刑判決を出すのに、実際は悩み苦しんでいるのではないかと思うのです。自分が死刑判決を書いた当人が実際に執行されたときに、裁判官が何を思うのか、聞いてみたいものです。

すっかり長くなってしまいましたが、一人の人の死刑を決め、死刑を執行するまでの間には、実に多くの人の手がかかっていて、関わった人たちの少なくとも一定数の人には、大きな罪悪感やトラウマを残しているといえます。

これは死刑という制度を置いていることによって生じている大きな犠牲ではないのでしょうか。
これだけ大きな犠牲を払って死刑を残していても、実際に、残虐な犯罪はなくなってはいません。

死刑は、死を命じ、刑を執行するまでの過程で、多くの人に多くの負担をもたらします。そして、その負担は決して軽いものではなく、とても重いものです。
死刑制度は、払われる犠牲の大きさに比べて効果が薄い制度ではないか、そう思わずにはいられません。

そういう意味でも、死刑はやはり廃止されるべきであると思うのです。









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# by terarinterarin | 2016-10-09 01:38 | Comments(5)
オウム真理教の教祖だった麻原彰晃氏の三女、松本麗華さんが、東京拘置所から再三に渡り麻原氏との面会を断られていることを公表して話題になっています。
今回は、松本麗華さんの記事を読んで思いついたことを、つらつらと書いていきたいと思います。

拘置所や刑務所に勾留・拘禁されている人(死刑確定者以外)が外部の人と面会するにあたっては、法律上様々な制限が設けられています。
例えば、まだ刑事裁判によって有罪が確定していないいわゆる未決拘禁者については、「1日に1回、1度に3人まで」と決められています。
受刑者については、まず面会できる相手方が、親族や釈放後に雇用を予定している人など一定の範囲の人に限られます。また、面会の回数は、受刑開始直後は1か月に2回とされています。その後、その回数は、問題行動なく受刑生活を送っている場合には徐々に増えていくことになっているようです。
面会には、刑事施設の職員が立ち会って、会話内容に問題がないかなどをチェックします。
面会時間は1回につき15分から20分と短いものです。
未決拘禁者は、まだ「罪人」と決まったわけではなく、矯正教育を受けている立場ではないので、受刑者よりも幅広く外部の人との面会が認められているのです。
余談になりますが、未決拘禁者は、本や雑誌を購入したり差し入れしてもらったりして、基本的には自由に読めますし、お金があればお菓子などを買うこともできます。

未決拘禁者の場合も、受刑者の場合も、弁護士との面会には、特別なルールが設けられています。
まず、自身の刑事事件の弁護人との面会については「秘密交通権」が保障されているので、職員の立会いも、時間や回数の制限もありません。
また、拘置所や刑務所における処遇の問題について弁護士の法律相談を受ける場合、法的措置に向けて打ち合わせをする場合にも、職員の立会いを排除することができます。
ただ、これらとは関係ない単なる民事事件の法律相談については、一般の方との面会とほぼ同様に扱われることとなります(但し、事前に申請することによって面会時間は一般の方よりも延長してもらえることが多いです)。

死刑確定者の扱いは、未決拘禁者や受刑者とはかなり違います。

法律上は、親族や「心情の安定に資する者」(例えば、旧知の友人などが当たります。)など一定範囲の人から面会の申し出があれば、原則として面会が許可されることとなっています。
がしかし、実際の運用は異なります。
面会の申し出をしても、法律上の例外に当たるとは考えられないようなケースで、面会することが認められないケースが散見されるようです。
従来面会を認められていた人について、ある日突然認められなくなった。そんなこともあるのです。
松本麗華さんの件は、特殊な事例ではありません。

最近麗華さんが面会を求めた際には、麻原氏が面会に応じる意思を表明しなかったからという理由で面会が認められなかったそうです。
麻原氏は現在右も左も全く分からない心神喪失の状態にあるということですから、それを前提とすると、面会に応じる意思表明をすることはありえないわけで、松本麗華さんは、この先も麻原氏には全く会えないということになります。
そして「面会に応じる意思を表明しない限り」面会を許可しないなどというルールは明示的にないわけで、拘置所の職員が松本麗華さんに告げた不許可の理由は、合法的なものとは考えにくいと言わざるを得ません。

死刑確定者の場合は、弁護士との面会も、受刑者や未決拘禁者と異なります。
どんな理由の面会であっても、必ず立会いが付くのです。
施設側の処遇に対する法律相談のために面会する場合、未決拘禁者や受刑者であれば、職員の立会いなくして会うことができます。
しかし、このような相談であっても、死刑確定者の場合には立会いの職員を排除することはできません。

また、再審請求をしている場合、担当の弁護士と打ち合わせをするにあたっても、職員が立ち会います。
先ほども述べた通り、未決拘禁者が弁護人と打ち合わせをする際には立会いが付くのです。これは、職員(国家権力)の監視を受けない弁護人との十分な打ち合わせの機会を確保するためです。
そのような機会が死刑確定者の再審請求には認められていないのです。
死刑確定者にとっては、再審請求は、死刑を回避するための最後の砦です。
通常の刑事手続と同等あるいはそれ以上に弁護士との密な打ち合わせの機会が保障されてしかるべきのはずなのに、それが確保されないのです。
聞いたところでは、職員からの信頼を得ている(例えば、長年コンスタントに面会に通っているような)弁護士との面会の場合には、例外的に立会いの職員が付かない場合があるようですが、特例的な扱いにすぎません。

このように、死刑確定者の外部との接触は著しく制限され、かつ必ず監視がつくことになります。
なぜでしょうか。

簡単に言えば、「ちゃんと死刑が執行できるように」と言われています。
死刑確定者は、いつ刑が執行されるかわからない常人では予想できないような恐怖とともに毎日を過ごしています。
執行に至るまでの過程で精神に異常をきたす人も少なくないと言われています。
つまり、いつどこでどんなタイミングで精神のバランスを崩すかわからないわけです。
死刑の執行は、確定者が「心身ともに健康な状態」でなければできないとされています。
精神に異常をきたされては、死刑を執行できないのです。
自殺されても困るのです。
そのために、余計な刺激が与えられないよう、外部との接触を制限し、監視をつける。

もちろん、死刑になるような重大な犯罪を犯した人間なので逃亡を何としても防がねばならないという事情もあるでしょう。

しかし、それ以上に、死刑確定者が日々どんな暮らしをしているのか。そんな内部事情がさらされないように、ということなのではないでしょうか。
あるいは「死刑確定者」自体を社会にさらしたくない。そんな思惑もあるように思えてなりません。

死刑確定者が施設内に拘禁されていることを「刑に服していること」と思っている人が少なくないようですが、死刑確定者に課される刑はあくまで「死ぬこと」です。
拘禁は刑の執行を確保するために行われているにすぎません。
そうであれば、本来、「刑の執行を確保するために必要な範囲」での権利制限しかできないはずなのです。
そして、「心身ともに健康な状態」を保つためには、然るべき人と自由に会えることが最も重要なことのはずなのです。

これに加え、死刑確定者との面会は、その家族や近しい人の権利でもあります。
麻原氏は、確かに最悪のテロ犯罪の首謀者です。
しかし、麗華さんにとってみれば、お父さんです。
お父さんの今の姿がどんなものなのか。
それを確認する権利が麗華さんにはあるはずです。
それは、麻原氏が凶悪犯罪の首謀者であったこととは関係ありません。

死刑確定者は、被害者やその家族、世論から見れば極悪人です。
しかし、裁判所から「生きる価値がない」と烙印が押されたとしても、この世の誰かにとっては生きる価値がある命の持ち主であること(あるいは、あったこと)は間違いないはずです。
国は、人を殺してはならないと義務を課しておきながら、自ら人を殺せる制度を作っています。
その矛盾を償う意味でも、死刑確定者とその人を大切に思う誰かとの最後の時間を大切に見守るべきではないかと思います。

*なお、私は死刑廃止論者です。

<付記:平成28年10月7日>
本投稿を読んでくださった同業の方から、東京拘置所では、再審事件の打ち合わせに当たっては30分の時間制限は課されるものの、職員の立会いはないという情報がありました。
また、別の弁護士からは、処遇相談と再審事件相談にあたりやはり東京拘置所で職員の立会いはなかったという情報がありました。
テラバヤシ自身が数年前に死刑確定者の処遇に関する相談を受けた際には、都度申し入れをしたにもかかわらず職員の立会いは排除されませんでした。
あたかも原則が「立会いあり」のような書き方を本文中でしてしまいましたが、刑事施設毎・事案毎に扱いが異なる可能性が高そうなので、この点は訂正させていただきたいと思います。

これは、死刑確定者に限りませんが、細かな面会等外部交通の運用は、施設毎、あるいは施設責任者の交代により変わるものです。
以前、名古屋拘置所においては、公判前・公判中の未決拘禁者において、弁護士側による私的精神鑑定を行う際には、数時間にわたりアクリル板のない部屋で面談等を行うことが認められていた時期がありました。
ですが、とあるタイミングで、このようなことが認められなくなりました(現在どのような運用になっているかわかりません)。
東京拘置所においては、(少なくとも数年前までは)アクリル板のない部屋での鑑定のための面談が認められることはなく、面談時間も30分以内だったようです(現在また運用が変わっていれば情報をいただけると幸いです)。







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# by terarinterarin | 2016-10-06 00:51 | Comments(0)
フリーキャスター長谷川豊さんのブログ「本気論 本音論」の9月19日の記事が物議をかもしていることは、多くの方が既にご存知だと思います。

重い腎疾患で人工透析を受けている患者の多くが「自業自得」であり、こういう人を経済的に年金や保険が救済できるため、病院が大変に大儲けしている。このような利権まみれの保険や年金システムは解体すべきだ…という趣旨の記事です。
この記事が人工透析患者を侮辱していると報じられて長谷川さんには多くの非難が集中し、結果、現在のところテレビ番組2つを降板することになったようです。

私は、一読して、国民の負担の上に一部の病院が大儲けできるような年金・保険のシステムを改革すべきだという趣旨のことを言いたいのだな、と思いました。
また、全ての人工透析患者を一緒くたにして「自業自得」と言っているわけでもないと感じました。
が、糖尿病も含めた生活習慣病は、実は貧困層に多いとも言われています。実際、仕事を通じて、テラバヤシもこの点は強く感じます。
また、体質的な問題で、それほど不摂生な生活を送っていない人でも糖尿病予備軍にはなるものです。何を隠そう、この私も、ヘモグロビンA1Cの値が何年もの間健診でひっかり続けており、遂に今年は栄養士の指導を受ける羽目になったくらいです(テラバヤシをよく知る人は、あのスリムな体型で?運動もある程度しているのに?と思うことと思います)。
一定の「自業自得」層がいることは否定できないとはいえ、それを人工透析患者の「大半」と書いてしまったことは、甚だ勉強不足・調査不足、あるいは「書きすぎ」でしょう。結果として記事のその部分に焦点が当たってしまい、多くの非難が集中したことは、致し方ないのではないかと思います。

長谷川さんといえば、今までもブログの記事が物議をかもすことが何度かありました(注:自分のことは棚に上げています)。
個人的に印象に残っているのは、昨年、安保関連法の議論が華やかに繰り広げられていたところ、日本国憲法と国連憲章の記載の違いを指摘して「憲法9条は違憲だ」という趣旨の記事を書いたことでした。
一国の憲法と国際法規の効力の優劣については、著名な憲法学の本のどれにも記載がありますし、最近であればネットてちょっと探せば苦労せずに調べることができる類のものです。
そういう最低限のことをしていないのか、したうえで敢て書いているのかよくわかりませんでしたが、いずれにせよ、自身の発信力の強さも考えずに、世間をミスリードする投稿を平気でする方なのだなと思いました。

一方で、元少年Aが書いたという「絶歌」については肯定的な意見を述べていました。世間の多くが、元少年A自身や「絶歌」に対して、強い嫌悪感を示していました。
「絶歌」については、テラバヤシも肯定的な意見を述べて非難のコメントもいくつか受けたのですが、正直なところ、長谷川さんが肯定的な意見を出していたことには驚いたものです。

今回の「人工透析騒動」に関しては、今まで長谷川さんに対してたまっていた「ツケ」が一挙に精算されてしまったなと感じています。
今までの様々な刺激的発言がなく、ポッと今回の記事が出てきただけであれば、彼には少なくとも、テレビなどで弁明の機会が与えられたように思うのです。
ですが、今までの物議をかもす発言によって、少しずつたまっていたアンチ長谷川な雰囲気や、テレビ関係者の「あまり何もしてくれるな」というハラハラ感が、この度限界線を越えてしまって、「テレビには出すべきでない」という見る側と作る側の暗黙の合意形成に達してしまった…そういうことではないかと思います。

ただ、長谷川さんの記事の内容が、仮に、例えば「生活保護受給者には人工透析を受けさせるべきではない」とか「貧困層に対する医療費支援策は即刻辞めるべき」、つまり、「貧乏人は医療を受けられずに死んでも構わない」という論調のものだった場合(あるいはそのように受け取られる記事内容だった場合)、今回の様な非難の嵐が巻き起こり、テレビ番組を降板させられるような事態にはならなかったのではないでしょうか(注:長谷川さんがこのようなポリシーの持ち主であることは私にはわかりませんので、あくまで、このようなことを書いたと仮定してのことです。誤解のないようお願い致します)。

今回、長谷川さんがここまで叩かれてしまったのは、世間の大半が「叩いてはいけない」と考えているであろう「人工透析患者」を叩いていると受け取られる記事を書いてしまったからでしょう。
「生活保護受給者」「貧困層」に対しては、「自分たちが納めている税金を食いつぶしている」「ろくに働きもしない怠け者」などと揶揄・非難する層が相当程度おり、そのため、世間の一定数の人々は、こういうカテゴリーに属することになった人々の内情に対する理解もないまま、「叩いていい人」と認定しています。
仮に今回の長谷川さんの記事がこういう「叩いていい人」と世間的に思っている層を叩くとも受け取れるものだった場合、ネット上には、彼を擁護・称賛するコメントが多々寄せられることとなり(もちろん非難するコメントも多々寄せられることとは思いますが)、番組降板という事態には至らなかったと思うのです。

これは、対象が在日朝鮮人・中国人といった人たちでも同じでしょう。在特会の元代表者桜井誠氏が東京都知事選で在日朝鮮人を排斥するような公約を掲げたところ、かなりな票数を獲得したことからも想像に難くありません。

今回の騒動の本質は、結局のところ「リサーチ不足の不適切な発言」や「誤解を生むような過剰な言動」が非難の的になったというものではなく、なんとなく世間的に叩いちゃいけないことになっている層を叩いてしまったというKY感を責めているものにすぎないように思えます。
日本の世の中に巣喰っている、弱者や異物は叩いていい、みんなで同じ方向を向いていて当たり前という同質性を強要する雰囲気が透けて見えてしまう、なんともいやな騒動だと、つくづく思うのです。


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# by terarinterarin | 2016-10-01 15:33 | Comments(2)
先日、ばったり法テラス時代の後輩に会いました。
結構長いことスタッフ弁護士をやっていたその方、ついに法テラスを出ることになったとのことでした。
退任後は知り合いの事務所に就職することになるそうで、ホッと一安心のご様子。

バリバリと仕事していた人で、私も自分が受けられない件をお願いしたこともありました。良い転職先?が決まったようで、テラバヤシもなんだか嬉しくなりました。

テラバヤシがスタッフ弁護士をやめたのは、2013年の3月のことでした。やめようと決心したのは2012年の12月。考え始めたのはその年の秋頃だったように記憶しています。

これは法テラス以外の事務所を辞めるケースでも同じだと思うのですが、やめようと考えた時、真っ先に考えたのは、辞めたあとどうするか?でした。

友人と一緒に理想に満ちた事務所を立ち上げようとか、こういう仕事がしたいとか建設的な方向性でやめたわけではありません。
その後のことを考えずに、とりあえず辞めることを決めた、という状況だったので、決めた後で辞めた後のことを考えねばならなかったわけです。

独立は、できれば避けたいと考えていました。
最大の理由は、依頼者と「委任契約を交わす」ことの感覚が、どうにもわからなかったということです。

法テラスのスタッフ弁護士として名古屋に行く前の1年間は、一般の事務所にいて、事務所のボスや先輩弁護士たちと仕事をしていました。
が、実際に契約締結の場面に立ち会うということは、ほんの数回だったように記憶しています(ボスはど*@りだったし)。

司法過疎地の法テラス法律事務所は、民事法律扶助や国選に業務が限られないため、地域によっては、スタッフ弁護士でも、依頼者との間で自分が主体的になって委任契約を締結することが比較的多かった人もいると思います(ただ、多分普通の二者間の委任契約ではないと思いますが)。
テラバヤシが赴任していた法テラスはいわゆる都市型。例外的に一定の要件を満たすケース以外は、民事法律扶助と国選以外の仕事はできません。
つまり、依頼しに来た人との間で、着手金や実費、報酬について協議して取り決め、契約書を作るという経験が皆無と言っても過言ではない、ある意味異常な弁護士生活を何年も送っていたということです。

この点においては、法テラスをやめようと決めた時点で、新人弁護士も同然な状況だったといえます。

法律相談の時の相談料のもらい方、着手金や報酬の相場感、提案の仕方、契約書の内容をどうするか?
こういう初歩的なことが真っ白な赤ちゃんの状態でいきなり独立するなんて、もう怖くて怖くて、とってもいきなり独立してひとりでなんてできないわ。
そんな心境で、まずは私を入れてくれる事務所を探そうと思いました。

公設事務所へのアタックという選択肢もなくはありませんでした。
が、(今だから言いますが)自分としては、せっかく法テラスを離れるのに、法テラスに類似した雰囲気がありそうなところに再び入ることには、若干の抵抗がありました。

時はちょうど、弁護士業界の不況が深刻化してきたところでした。

その時点でテラバヤシは弁護士経験6年目でした。普通の事務所に移るとなると、普通に考えれば、パートナーとして一緒にやっていくことを求められることになるでしょう。
しかし、刑事事件や個人破産、財産分与なんて問題にならない離婚、そんな金にならない事件ばかりやってきた自分には、普通のマチ弁の事務所に移ってパートナーになれる才覚はないように思えました。

そもそもが営業下手なうえ、ギリギリまであまりおおっぴらに法テラスを辞めるということも公表したくありませんでした。
就職活動は難航し、このままじゃ、いきなり独立かも、おっかない契約締結も、いきなりひとりでやらなきゃならなくなるかも、と覚悟をしかかった頃、琥珀法律事務所のボスの川浪さんに声をかけてもらったのでした。

琥珀法律事務所に入って、川浪さんと一緒に相談を受けたり、契約締結に同席するようになって、次第に委任契約を結ぶ際のおっかなさがなくなりました。「どういう費用で受けるかについては一応の基準は設けておくにしても、最後は、その場で決めざるを得ないこともままあるのだ」(もちろん暴利を貪ってはいけない)と思うこともできるようになりました。

法テラスを退職してからの琥珀法律事務所での1年半が、普通の?弁護士になるために必要な時間であったことは間違いありません。

私が法テラスのスタッフ弁護士をやっていた頃は、3年の任期を更新する人はそれほどいなくて、おそらく同期の半分以上は1回目の任期を終えて法テラスを退職していたように思います。
元々の出身事務所が公設事務所(やこれに類似する事務所)だった人の多くは、そこに戻って行きましたし、元々は公設事務所出身じゃなかった人の中にも、退職後公設事務所に入るという人がいました。
いきなり独立した人は少数派だった記憶ですが、司法過疎地域の法テラスに赴任した同期の中には、退職後独立してその地に定着するというケースもありました。
公設も含めて出身事務所に帰るケースでは、テラバヤシが持ったような恐怖感を持たずに済むんだろうなと思いますが、いきなり独立した人は、怖くなかったのかな、凄いなと思わずにいられません。

最近は任期を更新するスタッフ弁護士も多いようで、しかもスタッフ弁護士在任中に出向したり、法テラスの本部に在籍したりして、弁護士業務そのものから離れることも少なからずあるようです。
法テラスを辞めて、いざ「普通の弁護士」に戻ろう(というか、「なろう」といったほうが正しいかもしれませんが)というとき、法テラスにいた期間が長ければ長いほど、恐怖心は募らないのかなと、小心者のテラバヤシは考えてしまいます。

それとも、長くスタッフ弁護士をやっていた人の中で、「普通の弁護士」に戻ろう、なろうという人は少数派なんでしょうか。「任期付公務員」になったり、あるいは、スタッフの頃に興味関心を持った分野に特化した弁護士の道を歩んでいくことが多いのでしょうか。
いずれにせよ、門戸はそれほど広くなく、ゆるくない道が待っていることは間違いなさそうです。

これからスタッフ弁護士になろうという人、スタッフ弁護士をやめようと考えている人に、今回テラバヤシが書いたことがほんの少しでも参考になれば幸いです。





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# by terarinterarin | 2016-09-23 16:24 | Comments(2)
「法廷技術」という言葉は、(特に法曹界以外の皆さんにとっては)耳慣れない言葉かと思います。

我々の業界で「法廷技術」という言葉が意味するのは、裁判員裁判における公判活動(冒頭陳述や最終弁論、尋問、異議)における(弁護人の)スキルをさす場合がほとんどだといってよいでしょう。

裁判員裁判が日本で導入されることになり、それまで書面中心だった日本の刑事裁判は、一般の方が、法廷で弁護人や検察官の主張立証内容を理解し、心証を形成できることを目指す「法廷中心」の裁判に変わることとなりました(なったはずです!!)。
刑事裁判は「法曹だけ」がわかればよかったものから、「法曹じゃない人」もわかるように変わらねばなりませんでした。

そこで、一般人が刑事裁判に参加する陪審制度を古くから採用しているアメリカ合衆国の法廷技術を日本の刑事裁判でも普及させようということになりました。日弁連はプロジェクトチームを作り(その後委員会に昇格)、各弁護士会や日弁連で全国から弁護士を集めて、実演型の研修を行うようになりました(この経緯、かなり省略しています)。

この法廷技術のスキルで一番のポイントは、極めてざっくりいうと、「メモを持たない」「シンプルな言葉・表現」と思います。
例えば冒頭陳述や最終弁論などでは、弁護人の事件の見立て・あるべき結論を事実認定する裁判官と裁判員に対して「説得」しなければなりません。
説得するには、その人の目を見て語りかけなければなりません。メモを見ながらやっていては始まらないわけです。
また、耳で聞いてすぐにわからない言葉や言い回しを使っては、すぐに理解してもらえません。理解してもらえないのですから、共感してもらえるはずもないのです。ですから、難しい専門用語や言い回し、複文的表現を使わず、シンプルに伝えていくことが必要になります。

尋問でも同じことです。
メモを見ながら尋問をしては、メモにばかり気を取られて証人や被告人の話を聞かずに結果として頓珍漢な質問をしたり、必要な答えを言わせようとするがために、かなり無理筋な質問をしてしまうということになります。
難しい言い回しや言葉を使えば、証人や被告人に質問の意図が伝わらず、お門違いな答えが返ってきてしまう危険性もあるわけです。

法廷技術の教えには様々なルールがありますが、テラバヤシ個人としては、スキルのなかで一番大切なのはこの2つだろう、そう考えています。

法廷技術の教えは小手先のスキルに尽きるものではありません。様々なスキルを支える根本には「依頼者の利益を守る(自分たちの主張に対して裁判官や裁判員に共感してもらう)」、「法廷にいるすべての人に敬意を払う」、「フェアな姿勢で法廷に臨む」などといったポリシーが存在しています。

テラバヤシは、実は、先に紹介した日弁連の法廷技術を普及させる活動を行う委員会に所属しております。こんなご立派なことを言っていてなんですが、怠惰な私は、委員会に所属している割にスキルが向上している様子はさっぱりありません。ですが、これまでお話しした法廷技術の教えは、基本的には正しい(注:細部に渡ると委員会内部でも見解が割れたりします)と考えています。

悲しいことに、この技術には、「アメリカ人向けの大仰なプレゼンスタイルに過ぎず、日本人や日本の裁判には向かない」という根強い反発があります。そして、「裁判員裁判」だけのための特異な技術であると考えている弁護士も少なくありません。裁判官の中にも、強い反感をお持ちの方が少なからずいるようです。

しかし、テラバヤシとしては、法廷技術の考え方(特に尋問について)は、裁判員裁判だけに特化したものでもなければ、刑事裁判だけのものでもなく、民事事件や家事事件(離婚など)の法廷活動についても当たり前にあてはまるものだと考えています。

まず、根本的なポリシーのうち「依頼者の利益を守る」「フェアな姿勢で法廷に臨む」というのが刑事裁判以外の場面でも当然必要とされるのは、誰でもわかることだと思います。
しかし、民事事件や家事事件の法廷で、何より忘れてならないのは「法廷にいるすべての人に敬意を払う」ということではないでしょうか。

民事事件や家事事件において、尋問が行われるのは原告と被告の二者であることが圧倒的に多いといえます。とすると、刑事裁判における「被告人と目撃者」「被告人と被害者」という関係にもまして、ガチンコで利害が対立する者が同席して順に尋問を行うことになるわけです。

「法廷にいるすべての人に敬意を払う」という意識を持たないと、自分の依頼者の反対当事者(原告から依頼を受けているのであれ被告、ということですが)に対して、威圧的・侮辱的な姿勢で尋問をしてしまうことになります。
具体的には、うそを言っているだろうと決めつけたり、相手方当事者の回答を歪曲してとらえて次の質問をしたり、ひどい弁護士に至っては、相手方当事者が座っている証言台のすぐ近くに立って、上から当事者を見下ろして尋問を続けたりします。

また、「法廷にいるすべての人に敬意を払う」という意識を持たないと、なにか書面や物を見せながら尋問をしている最中に裁判官や書記官にお尻を向けて、尋問している様子を見えなくするという失態を犯しがちになります。つい先日もこんな場面に出くわしました。

これが自分の失敗だけなら別に構わないでしょう。
しかし、こういう振る舞いは、弁護士本人やその主張に対する信頼を失墜させます。最終的には、依頼者の利益が守れなくなってしまうわけです。

スキルという点でも「メモを持たずに」「シンプルに」が重要であることは間違いありません。
原告や被告は、法律の知識がない一般の人です。テレビで見てる裁判所の証言台の前なんかに座って極度に緊張しています。
当事者がどんな精神状態なのかを把握して、その状態に合わせて話しやすいように尋問を行う、何を聞いているのかすぐに理解してもらう。そのためにはやはり、当事者に目線を向けながら、シンプルに行うことが一番なのです(とはいえ、このテラバヤシも、民事家事の法廷で完全にメモなしで尋問をやり遂げることはいまだできていないことをこの場において自白しておきます。ですが、メモにかぶりつきにはならずに、一問ごとに依頼者と目線を合わせることは忘れないようにしています…という苦しい言い訳)。

最近は、一般の方が法廷で裁判を傍聴することが増え、刑事裁判だけでなく、家事事件や民事事件の尋問にも当事者と関係のない皆さんがちらほらと傍聴にいらしています。
メモにかぶりつきで当事者の顔も見ずに尋問をしている弁護士、批判めいた口調で相手方当事者に尋問している弁護士、相手方当事者と言い合いになっている弁護士などを見かけた方も少なくないのではないかと思います。

「尋問が苦手だ」と感じている弁護士も、実のところ少なくないようです。
「私は尋問が大好きだ」なんて言う弁護士、テラバヤシの周りでは、先ほどお話しした日弁連の法廷技術の委員会のメンバーくらいしかいません(法廷技術のオタクの集団といっても過言ではありませんので)。

「苦手意識」を持っている人の多くは、その苦手意識の理由を戦略的な部分に求めたり、自分のキャラクターに求めがちですが、実際のところは、「心構え」や「スキル」を持たないというところに負うのではないかと思います。
私も「尋問大得意」とはまだ到底言えませんが、法廷技術の研修を何度も受けたり、果ては講師なんぞをするようになって、心構えやスキルが身に着いていくとともに、徐々に苦手意識が払しょくされ、尋問の準備で「これを引き出すにはどう聞くのが効果的か」と考えるのが、楽しくなってきたほどですから…

なので、裁判員裁判なんてやらないよという弁護士も、法廷技術の研修を受ければいいのに、なんて思ったりしています。
志やスキルが高い弁護士がハイレベルな尋問を繰り広げる法廷は、刑事でも民事でも離婚でも、そりゃ迫力があって、裁判官が居眠りするなんてこともなくなるでしょうから。




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# by terarinterarin | 2016-09-16 22:58 | Comments(0)
高畑裕太さんが釈放されました。
なんでも被害者の女性との間で示談が成立したから、とのこと。

前にも書きましたが、被疑者について被害者と示談したら、検察官はまず被害者に示談内容について弁護人からきちんと説明を受けたか確認します。
その上で、被害届や告訴の取下げの手続きをして、完了したら、不起訴、釈放という流れになります。

今回物議を醸しているのは高畑さん釈放後の弁護人のコメントです。

悪質ではなかった。
合意があったという認識を高畑さんが持っていた。
公判になったら無罪主張した可能性がある。

というコメントが被害者に二次被害を与えているのではないか?
同業者間では、このような観点から、たくさんのコメントが飛んでいました。

私の知人で芸能界に割り合い近いところにいる弁護士の推測では、おそらく、口外禁止条項、つまり事件の内容や示談内容について第三者に口外することを一般的に禁じる条項を入れた上、例の内容のコメントを弁護士が発表することについては例外的にOKとしているのではないかということでした。そして、コメント発表をOKとすることを前提として示談の金額を決めたのではないかと。

確かにそういうことであれば、あのようなコメントを発表したことも弁護士としては、ある程度理解はできます。コメント内容自体の評価はさておくとして…

このコメントを受けて、ネット上では早くも、女性の側は金目当てだったんじゃないかという心ないコメントが出回っているそうです。

確かに、強姦や強制わいせつの事件の中には、ざっくり言えば、男女トラブルの延長みたいなものも一定数あり、男性の側がはっきりと女性の拒絶の意思を認識できなかったケースもあります。私も経験があります。
また、美人局みたいに「金目当てのだまし討ち」みたいな例も案外少なくないようです。

美人局的案件はさておくとして、「男女トラブルの延長線上」の事件についてみると、男性側に加害者意識が希薄である一方で、女性側も「無理やりされた(途中からでも)」という意識を持つことが多分にあります。
そうすると、こういう事件の場合、示談に際して、この辺の意識のすり合わせ、相互の認識の理解をするという作業は、普通に考えれば必要なことも少なくないでしょう。

しかし、事件当事者がともに一般人のケースで、「示談すれば釈放がほぼほぼ見えてくる」という案件の場合、様々な事情を考慮したうえで、むしろ、このようなすり合わせを行うことなく、男性の側が女性の側の被害意識をある意味一方的に受け入れたうえで、お支払いをするという選択の方が多い、いやむしろスタンダード、であるように思えます。
男性の側がタレントや政治家のような、常に露出する存在でない限り、どうして示談したのかということを公に問われることは、ほぼないからです。

優秀な刑事弁護人からはぶん殴られるかもしれませんが、「無罪」「悪質でない」という主張で正面から裁判を戦うことのコスパを考えてみた場合、ぶっちゃけたところ、「金で時間を買う」ではないですが、自分の言い分はぐっと飲みこんで示談して釈放された方が本人の利益ということもあるわけです。

つまり、何が言いたいかというと、今回のこの件、高畑さんの弁護人がああいうコメントを発表した大前提として、先に書いたような「意識のすり合わせ」「相互の認識の理解」の作業をしていたはずであろうと、まともな弁護人であれば、当然そのような選択をしていたはずだと、いうことなんであります。

ただ、この作業、そんなに簡単に済むわけではないでしょう。
ある意味、検察側の事件に対する「見立て」との齟齬も問題にされうる話なわけですから、被害者、そのバックにいる検察側との調整には、相当な労力を必要とすることになるだろうと思います、弁護人サイドから見れば。

そして、この点を女性側から見ると、果たして弁護側がどういう態度で、先に書いたような認識理解を女性にしてもらったのか、あるいはさせたのかということが気になります。
高畑さんの側からするとこういう言い分なんですよ、ということが丁寧に丁寧に説明されただけなんだろうか。女性の側の気持ちが十分に聞き取られたのだろうか。
もし、そのような作業に弁護側が終始して、女性の側が納得したのであれば、真の事件解決と言えるでしょう。

しかし、「裁判になったら無罪を主張したであろう」という趣旨の弁護人のコメントを見て、テラバヤシには、「示談に応じないで裁判になった場合に女性の側にどういう嫌なことが起きるか」ということを強くおした示談交渉が行われていたのではないかという、若干の気持ち悪さが残るのです。

裁判になったら、こちらは無罪の主張をします。
強姦の成立を争います。
そうしたら、あなたは裁判所に証人として呼ばれることになります。
裁判所で、傍聴人が大勢見ている前で、あなたは事件の日の夜、彼との間で起こったことを話さなければなりません。
今、示談して終われば、そういうことはしないで済みます。

もちろん、示談に応じた場合に生じる不利益、応じない場合の不利益を説明することは弁護人サイドからすると必要です。
しかし、今回の場合は特に、「応じない場合の不利益」の説明は、言い方ひとつで非常に威圧的になってしまう危険性が高いように思うのです。事件に対する注目度が非常に高いわけですから、「さらされる」恐怖心は女性の側にとっては、ただならぬものでしょう。

女性の側に弁護士がついていて、高畑さん側と対等な力関係が保たれた状態での交渉であれば、ある程度、このような問題は回避されると思います(もちろん、弁護士の力量の差、経験の差にもよりますが)。しかし、仮に女性の側に弁護士がついていなかった場合、真に紳士的な交渉態度だけで、あのようなコメントに至るような示談が成立しうるものなのでしょうか…

そして、ああいうコメントを発することによって、このご時世、インターネット上に女性側を逆にたたくようなコメントが出るということまで予測され、説明されていたのでしょうか。

もちろん、全てのリスクを回避する義務まで、示談に際して弁護人に課されるわけではありません。
「示談交渉」とはつまり「和解契約」の交渉なのですから、男性の側がやみくもに(言葉は悪いですが)下手に出る必要もないという考え方もあるかもしれません。特に弁護側から見て、裁判になったら争う余地がありそうだと考える案件においてはなおさらでしょう。

しかし、刑事事件を前提とする示談を行う場合、お金を支払う側としては、示談成立後に「禍根」を残さないように最大限の努力・配慮をすることが必要ではないかとテラバヤシは思います。

今回の高畑さんの件、それはできていたんだろうか。
弁護人が名高い人なだけに、非常に気になるし、さっきも言ったように一抹の気持ち悪さが残るのであります。
















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# by terarinterarin | 2016-09-10 17:29 | Comments(2)
前回の投稿、「弁護士にはとってもつらい性犯罪」は、犯罪を犯した側に弁護士が立った時の目線で書きました。
今回は、犯罪によって被害を受けた側(被害者やそのご遺族を含みます。)と弁護士の問題について書いてみようと思います。

弁護士の第一の使命が「依頼者の利益を守る」ことにあることは前回もお話しした通りです。
つまり、弁護士は、犯罪を犯した人の弁護人になればその人の利益を守るべく活動しますが、被害者から委任を受ければ、被害者の利益を守るべく活動することになるわけです。
テラバヤシも、比率としては、「弁護人」として犯罪を起こした側、起こしたとされる側に立つ割合が多いですが、被害者側の代理人の仕事をしたことも何度かあります。

被害者側の代理人の活動としては、被害弁償の請求を行うこと、「被害者参加」という刑事手続への参加につき代理をすることが主にあげられます。

被害弁償の請求については、まずは、示談交渉を行うことが考えられます。示談交渉で満足が得られない場合には、従来であれば民事訴訟を起こさなけれがなりませんでしたが、現在は、損害賠償命令といって、有罪判決後に刑事事件を担当した裁判所が、引き続き損害賠償請求について審理を行い、賠償を命じる制度があります。「訴訟提起しなおし」による費用や時間が節約できることになった点で、損害賠償命令は、被害者を経済的に救済する大きな意味を持つ制度であるといえるでしょう。
「被害者参加」というのは、刑事裁判に被害者が参加する制度で、被告人に対して質問することもできますし(質問できる範囲には一定の制限がありますが)、また、裁判の最後に意見陳述することもできます。

もちろんどれも被害者本人が行うことが可能です。
示談に関しては、弁護士が代理人としてついていない場合、捜査中や裁判前、裁判中であれば、検察官が間に入って連絡窓口を務めたりします。
被害者参加についても、意見陳述は、書面に書いたものを裁判官に代読してもらえます。

がしかし、弁護士を頼まずに対応するとなると、なかなかにハードルが高くなって、できなくなることも出てくることは事実です。
例えば、示談の打診を受けたけれど、その金額に納得できないという場合、加害者側についている弁護士と「交渉する」という気持ちを持つことについて気後れする人も少なくないでしょう。
示談書の文言についても、入れてほしい言葉があるにもかかわらず、それがうまく言えないということもあるかもしれません。
なにより、損害賠償命令であるとか民事訴訟に持ち込むということは、一般の方ではかなり難しいように思います。

被害者参加についても、本来であれば、犯人に聞いてみたいことがあるという方も少なくないのかもしれません。
しかし、自分に害を与えた人間と直接対峙することに恐怖心があるでしょう(非公式に検察官が被害者から聴きたいことを聴取して質問していることも少なくないかなあと思いますが)。
弁護士に頼むという選択肢を持たない場合には、あきらめてしまう場合も多いのかもしれないと思います。

犯罪被害者代理人については、法テラスによる費用援助のシステムもありますし、警察や検察庁でインフォメーションがあるようです(一部の検察官は積極的に進めているという話も聞いたことがあります。本当かどうかはわかりませんが)。
そうであるにもかかわらず、思ったほど「被害者に弁護士がつく」という流れは定着していないように思うのです(交通事故による傷害や死亡のケースは除きますが)。

私が被害者の代理人を担当したのはいずれも財産犯のケースで、どちらも示談交渉のみの受任でした。
自身が被告人の弁護人をやったケースで被害者に代理人がついたことは何度かありますが、「被害者参加代理人」として弁護士が関与したケースは少ないです。
性犯罪の被害者の方でも、代理人が付くケースはわずか、という印象です(もちろん正確にデータをとっているわけではありませんが)。

被害者に代理人がつくことは、独りでは躊躇することをできるようにしておくという意味で重要性が高いと思います。そして、さらに「限界を理解する」「できないことを理解する」という意味でも、非常に重要だと思うのです。

一番典型的な問題は、やはり、示談です。

先方から提示された金額が納得できない。
弁護士から見ても、生じた被害を考えれば、本来ケタ一つ違うだろうという提示しかない場合があります(弁護人として示談交渉する場合に、そういう提示しかできない場合もままあります)。
裁判をやれば、もっと多額の支払いが認められることは目に見えている。
それでも、犯人本人に資力がない場合、スポンサーが親兄弟で、出せるお金に限界がある場合、判決で勝っても、その判決が「絵に描いた餅」でしかなくなってしまうことが往々にしてあります。親兄弟のお金を差し押さえたりすることはできませんので。
しかも、刑事事件の判決が出てしまえば、犯人についている弁護人の仕事は終了。交渉の窓口もなくなってしまう。

そういう状況下で「実を取る」としたら、ケタ一つ下がる金額でも、示談に応じる(あるいは被害弁償を受けておく)という選択をしておいた方がまだマシということが往々にしてあります。

もちろん、犯人についた弁護人が、被害者本人に対してこういう説明をすることもすることも多いと思います(まともな弁護人ならやるはずです)。
ただ、被害者からしてみれば、「自分に害を与えた側についてる弁護士」からこんな話されたって、「はいそうですか」とはなかなかなりにくいであろうと思うのです。不条理さが増すばかりということも少なくないでしょう。

「被害者側についた弁護士」が被害者の気持ちを聞いて理解したうえで、「実を取るのはどうですか」と提案してこそ、ある程度納得して受け入れる余地が初めて出てくるのだと思います。
もちろん、「絵に描いた餅でもいいから、犯人に自分がやったことの重みはこれくらいの金額になるんだとわかってもらいたい」と被害者が言えば、被害者の代理人としては示談を蹴って訴訟を選択することになります。そういう意味では、実はとれなくても被害者の意向を反映した手続を踏むことが可能になるわけです。

なのに、被害者の代理人が付かないことが多いのはなぜなのでしょうか。

ひとつには弁護士費用の問題があるように思います。
被害を受けた自分が、さらに弁護士費用を負担しなければならないということの不条理感が、弁護士に依頼することを躊躇させているのかもしれません。

また、特に性犯罪の場合なんかだと、捜査機関に対してだけでなく、弁護士にも被害事実を話さなければならないという心理的負担が足掛けになっているように思います。
それ以前に、外界のあらゆる人物との接触をしたくないという心情から、弁護士にたどり着かないという人も相当数いるのかもしれません。

一般の方からしてみれば、悪いことをした犯人には、金がなくても国の費用で弁護士を付けることができるのに、被害者には弁護士の手が届きにくいという点で、不公平に感じられるのだろうと思います。

そうすると、全ての犯罪とは言わないまでも、性犯罪を中心とした一定の犯罪については、名簿制の弁護士派遣制度を作るのも1つ手かもしれません。
例えば、捜査機関(警察署や検察官)が被害者に対して「弁償などについて弁護士の相談を受けたいか」などと意向を聞き、被害者がイエスという返事をすれば、各地域の弁護士会の担当部署に相談弁護士の要請を行う…といった制度です。
私が思いつくくらいだから、既に導入している弁護士会もあるような気がするんだけど…どうなんでしょうか。

一度犯罪の被害に遭った人の恐怖心や心理面の問題を解消することは(遭った被害の内容にもよりますが)困難で、法律家だけでどうにかできるような問題ではないでしょう。
しかし、助力できる人間が適切に助力することによって、軽減することは可能なはずです。

ちなみに、「優秀な刑事弁護人は優秀な被害者代理人である」と思っています。敵の手の内が大体わかるわけですから。
刑事専門を謳う弁護士の中には、被害者側はやらないという信条の人もいるかもしれません。
が、基準としては間違っていないと思いますので、(必要ない情報かもしれませんが)弁護士選びの参考にしてもらえればと思います。












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# by terarinterarin | 2016-08-29 01:07 | Comments(0)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terarinterarin