川崎中1殺人事件判決を受けての投稿と思われてる方が多いと思いますが、その通りです(最近このパターン、多いな)。
昨日出たこの事件の判決。とあるサイトからの取材を受け、判決についての簡単な感想と少年事件特有の「不定期刑」について、コメントをさせてもらいました。

少年事件については以前にも違うサイトでコメントをしたことがあるのにこんなことを言うのは何なんですが、自分自身がやるときには、かなりな苦手意識があります。
国選事件で少年事件の配点を受けると、いまだにものすごく緊張します。

まず、私の感覚では、「時間がない」。
裁判員対象事件ではない少年事件の場合、捜査が終わって家庭裁判所に事件が送られて、観護措置決定が出てから(つまり少年が鑑別所に入ってから)、原則4週間以内に少年審判が行われることとなります。
そして、成人の事件の場合は、起訴されてから裁判になるまでの間、裁判官は記録を見ていません。ですので、それまでの間に、判決が決まっているということも(少なくとも建前上は)ない。

がしかし、少年事件の場合、審判が始まるまでの間に、裁判官は捜査記録を見ており、また社会記録という少年の成育歴に関する記録も見ており、「裁判官の片腕」たる調査官という人が処分に関する意見書を作成している。
この意見書の影響が、裁判官にとってはかなり絶大。
だから、少年に対する処分を軽くするための活動というのは、調査官が意見書を書く前にある程度結果を出すところまで行ってなくちゃいけないわけです。
示談するとか、就職口見つけるとか、そういうことを短期間で調整するというのは、結構至難の業だったりします。
(自白事件前提です。)

そして、少年事件の最大の難しさは、処分の見通しが立ちにくいところにあります(あくまでテラバヤシ的にはですが)。
成人の刑事事件の場合は、基本的には、どんなことをどんな方法でやったのか(結果の重大性とか態様の悪質性とかですね)ということで、量刑のおおよそが決まります。あとは前科がどれくらいあるかとか、示談しているかとか、その他考慮してあげてよい事情があるかということが、ある程度加味されるにすぎません。
ですので、事件を受けた時点で、ある程度量刑の見通しが付きます。

がしかし、少年事件の場合、少年の処分(保護観察にするか、少年院に入れるか、入れるとしてどれくらいの長さが必要か)は、「やったことの悪さ」だけでは決まらないのです。
重要な指標として「要保護性」というものがあるのです。この要保護性というもの、一言で言うと、「再び非行に陥らないようにするための改善教育の必要性」ということだと思うのですが、もう少し分解してみていくと、少年の性格がどれくらい非行的か、少年の環境がどの程度非行を発生しやすいものか、という具体的な要素に分かれていくことになります。

ですが、かなり極端な例を除くと、どんなに具体的な指標を立てられようとも、結局見方によって評価が変わりうることが多いように思え、時として「うー、処分の見通しが立たねえ!!!」と頭を抱え込んでしまうことになるわけです(つい最近そういう事件がありました。めでたく保護観察で終わりましたが)。
つまり、テラバヤシ的には「いや、この子の場合、性格も素直だし、家庭環境もそんなに悪くないし、保護観察でいいでしょ!!」とか思って調査官の意見書を見ると、「少年院送致相当」とか「在宅試験観察(いったん釈放したうえで、このまま少年院に入れなくてもいいかどうか観察したうえで最終的に判断するという中間的処分。この場合、数か月後にもう一度審判が行われます)」とか書いてあって、ショックを受けたりするのです。
で、逆転一発ホームランが打てない限り、意見書のまま処分が出てしまう、という…

さらに、正直に言おう。テラバヤシ、若い子、苦手なんです。
これは年をとったからではありません。
若いころから?、若い子(未成年とかそれに近い子)は苦手でした。
どうコミュニケーションをとればいいのだろうか…
どうやって話しかけたら、ちゃんと答えてくれるのだろうか…
私の言ってること、わかってもらってるんだろうか…
接見の前も後も、そんなことで頭がいっぱいになるのです。 

少年審判の席も、事実の確認というよりは、審判官(裁判官)が反省させるために、なんだか上から目線で威圧的に「どうして、こういうことになっちゃたか、ちゃんと考えてないんじゃないのかなあ」みたいな言い方をするのも、内心イライラさせられますし。
でまあ、現実こういうことになるわけなんだから、接見の時にもそれを想定して、若干説教的なことを本来したほうがいいのかなと思いつつ、説教はするのもされるのも嫌いなので、ヒールになり切れない自分がいたりして。

とまあ、私にとってはやりにくいこと満載なのが少年事件、だったりします。

テラバヤシの場合、少年の裁判員裁判は経験したことがありません。
捜査段階では裁判員裁判対象事件の罪名がついていたものの、家裁送致時に非対象事件の軽い罪名に落ちて、そのまま少年審判で処分が下ったということはありますが。態様もかなり悪質、被害もかなり大きくて、私としては、裁判員になってもおかしくないと思っていましたが、どうやら検察官が、少年がかなり若年だったことやかなり精神不安定であったことを考慮したようでした。

このケースも含め、弁護人・付添人として会った事件を起こした少年は、うまく言えないのですが、みなさん、「ふつうの子」でした。
思春期特有の恥じらいや反発心はあれど、性根が腐りきっていて、この後、社会生活は送れそうにないという子は一人もいませんでした。
こちらが挨拶をすれば、きちんと挨拶を返してくれましたし、私が尋ねることについて、自分なりに考えたことをきちんと話してくれましたし、私が話すことをちゃんと聞いてくれました(確かに、その答えが的外れになってることはありますが、まあ、それは置いておくとして)。そして、事件は起こしてしまったかもしれないけれど、とても働き者だったり、体を一生懸命鍛えていたり、両親や兄弟のことを思いやっていたり、尊敬できるところを持っている人ばかりでした。

私は、川崎中1事件の首謀者だった少年と会って話したことはありません。
だから、本当はどんな人なのかなんて、全くわかりません。
彼がしてしまったことは、とても凄惨なことです。
殺害された上村君のご両親が厳しい処罰感情を持つのは当然だと思います。
彼をモンスターだと感じるのも理解できます。

しかし、少なからず少年事件をやってきた弁護士たるテラバヤシの立場から見ると、きっと彼にだって、「ふつうの18歳」の側面があったと思うのです。
身近にいる人からすれば、「彼はここがいいとこだったよね」と言えるところがあると思うのです。
そういう普通の子が、こういう凄惨なことをしでかしてしまいかねないところに少年の微妙さがあり、少年事件の本来の難しさがあるのではないかと考えます。

テラバヤシの少年事件に対する苦手意識の本質は、ひょっとするとこういう「難しさ」が原因なのかもしれません。


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# by terarinterarin | 2016-02-11 21:27 | Comments(0)
清原逮捕!!を意識したネーミングと思われた方が多いと思いますが、その通りです。

「清原覚せい剤所持で逮捕」は、あ~そうだったのか~という「やっぱりね」感があると同時に(噂ありましたしねえ)、ああ、ちょっとショックだなあという気持ちもありました。
これを言うと年がばれますが(もうばれているか)、PL学園で清原桑田が大活躍していたころ、私はちょうど同じ年頃で、自分が体育会だったせいもあって、結構熱心に高校野球は見ていました。
巨人に移籍してからの清原はどうでもよかったけど、西武ライオンズ時代の清原の姿はとても印象に残っています。
それだけに、あ~、きよはら~…という残念な気持ちに昨夜は襲われました。

本日のワイドショーの前半は、もう清原一色。
警視庁本部に向かう警察車両の中でうつむく清原を大写しにして、その落ちぶれ具合を演出するマスコミに、今更ながらいやらしさを感じました。
とあるコメンテーターが、元警視庁の刑事とかいうゲストに対して「有名人や芸能人の逮捕は見せしめという意味もあると聞いていますが」などと言っており(元刑事さん、もちろん肯定)、もちろんテラバヤシ自身も、まあそうなんだろうな、とわかってはいたのですが、この芸能人を見せしめにする手法、果たしてホントに薬物使用者を減らすために効果なんてあるんでしょうか?とはなはだ疑問なんであります。

有名人・芸能人のみせしめ的意味合いは、おそらく今回の清原みたいに逮捕されたときの情けなさげな姿を大写しにして「クスリをやるとつかまるんだよ」と知らせたり、「こんな落ちぶれた感じになるんだよ」というイメージを植え付けたりというのが、まず第一だと思われます。
加えて、特に最近は芸能界から「干す」という手法を取り、「クスリをやると仕事をなくすよ、周りから人もいなくなるよ、人生取り返しつかないよ」というメッセージを与えることを指しているものと思われます。

個人的には、これは、手抜きであるとともに村八分的手法であり、全く意味がないのではないかと感じます。
死刑の存在が凶悪犯罪の減少に役立たないのと全く同じです。

手抜き…つまり、「覚せい剤その他の薬物の恐ろしさ」を子供のころから教育して、使用することによる危険を刷り込むという手間をかけていない。再犯防止のための治療、サポートの手間をかけていない(国が、という意味です)。

村八分的手法…よってたかって攻め立てて仲間はずれにすることにより、「仲間はずれ怖いでしょ。されるの怖かったら、するんじゃない」というものですが、これについては、かえって再犯を増加させる方向に働くように感じられます。
クスリをやる人は、何かにすがりたくて、すがる対象として薬を選ぶわけです。村八分にして周囲にすがれなくすればするほど、かつてすがって一時の享楽を得させてくれたクスリに回帰するのは、目に見えています。

また、「覚せい剤」や「大麻」などという法律で所持や使用が禁止された薬を所持使用したことだけが問題視されるのも、実に片手落ちです。
こういう薬に手を出すのと、精神科や心療内科で処方される向精神薬や睡眠薬を乱用することの根は、実は一緒だからです。つまり、後者も「頼るよすが」を、気持ちをどこかに飛ばしてくれるクスリに求めるものだからです(アルコール依存症なんかも同じですよね)。

今までやってきた刑事事件の中で、覚せい剤の使用歴のある人は結構な数いましたが、その中に一定割合、覚せい剤卒業後、「ドクターショッピング」(薬を処方してもらうために精神科や心療内科を受診しまくる)を繰り返し、向精神薬等を大量服用するようになってしまった人にお会いしました。
覚せい剤使用の後遺症や向精神薬等の過剰服用による副作用などが相まって、幻覚幻聴、それに伴う徘徊、奇行などが日常的に表れるようになった人も少なからずいました。
しかし、こういう人については、他に犯罪を犯さない限り、法的に問題視されることはないのです。

覚せい剤や大麻などを使ったことだけを取り上げて、芸能人をつるし上げにしたって、世の中にとって何の解決にもなっていない。
なのに、最近特に、この「つるし上げ現象」はドンドン増していくばかりではないかと思うのです。

かつては、大麻や覚せい剤に手を出した芸能人でも、芸能活動を続けて、その後活躍した人がたくさんいました。
研ナオコしかり、
コロッケしかり(コロッケが捕まった時は「コロッケあがる」とスポーツ新聞に書かれました)、
マッキーしかり。

脳に働きかける薬の恐ろしさを、教育としてしっかり伝える。
失敗しても、その失敗を回りが受け入れて、あなた自身も一生懸命できることをやっていれば、いつか道が開けるんだよというメッセージを与える。
これこそが薬物事犯をなくす王道ではないかと。

みせしめなんて、ナンセンスでしょ。




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# by terarinterarin | 2016-02-03 23:26 | Comments(0)
明らかにベッキー騒動に引っ掛けたタイトルに見えると思いますが、その通りです。

ベッキーとゲスの極みさんの不倫報道は、LINEのトークの流出から始まり、なんとLINE第二弾まで公開されてしまいました。
テラバヤシ、第一弾の方はきちんと見ていないのですが、第二弾の方はしっかり目にしました。
目にして、「はははは~」と思わず笑ってしまいました。
「不貞を理由とする離婚」「不貞を理由とする慰謝料請求」などのご相談で、証拠として見せてもらうLINEのやりとりと、そのテンションというか盛り上がり方というか「周りの見えてなさ」の雰囲気が、あまりにも似通っていたものですから…

不倫トラブルやその他男女トラブルで、最近、証拠として、LINEでのやりとりをお持ちになる方は、かなり多いです。
世代的には、20代から40代の方の相談が多いので、そうなるのも同業者の皆さん、うなずけるのではないかと。

なぜか、LINEなのです。
もちろん、LINEオンリーということはありません。
普通にメールのやり取りもあります。
しかし、いわゆるチャット的な機能のものの中では、ダントツでLINEなのです。
フェイスブックのメッセンジャーを持ってきた方には会ったことがありません。
ショートメールの人もごくわずか。

そして、LINEで繰り広げられる男女の会話は、不倫のラブラブカップルの場合、押しなべて、「二人の世界に没頭している」感にあふれまくっており、一見して親密度合いがありありと伝わってくるのであります…
そして、例えば電話の受発信履歴は消しているのに、なぜかLINEは消してないとか、そういうケースもちらほらあったりするのです。

なぜなんだろうか。LINEには、不倫カップルに周りを見えなくさせる魔力があるのだろうか。
あの一流芸能人のはずだったベッキーでさえ(もし、あのLINEが本物だったとしたらという仮定に立ちますが)、あんな「えー?それ文字に残しちゃうんだ」というメッセージを残す心理状態にさせてしまったのですから。

テラバヤシもLINEには登録しています。
でも、LINEでのやり取りをするのは、ごく限られた、ごくごく親しい人のみ。しかも、やり取りは毎日ではなく、ごくたまに、という感じです。
ですが、そのごく限られた人々とのLINEでの過去のやり取りを見て、気が付いたことがありました。

まず、LINEは、フェイスブックのメッセンジャーやショートメールと違って、画面が殺風景な感じがない。基本設定の背景(変えられるのかどうかわかりませんが)が、うすーい雲がかかったきれいな青空で、それだけでなんだか気分が高揚してきます。
そして、無料のものも含めてスタンプ類が非常に豊富で、文字ではなく「絵」を使って、自分の気持ちや状況を相手に伝えることができます。
相手から送られてきたスタンプを見れば、スマホの向こうにいる不倫相手がどんな表情でそこにいるのか、妄想膨らみまくりになるのは間違いありません。
そして、二人の空き時間がぴったり合えば、あまり間をおかずに返事も返ってくる。リアルタイムのやり取りが続く。

そんなわけなんで、自分が実際に相対しているのはスマホなんだけれど、相手のことをすぐ近くにいるかのような錯覚に陥り、「心はいつもそばにいるよ」「ほら、こんなにそばにいて理解しあえている」(おー、書いてて気持ち悪い)みたいな二人だけの盛り上がりがどんどん加速していき、他人が見たら、あっと驚くような飛んでもやり取りが出来上がってしまう…そういう仕組みなのではないかと思うのです。

そして、いったん出来上がったLINEのトークは、削除したい部分をチョイスできるわけではなく、消すのであれば、その人とのそれまでのトークを全削除しなければなりません。(1月24日追記:その後、iPhoneの場合は特定のトークを選んで削除できるというご指摘をいただきました。いずれにせよ…消さないか)
ラブラブな会話なんて、そうそう消したくないですよね…翌日とか翌々日とか、ひとりの時に、ふっとふたりのやり取りを見返して、ふたりの背徳ながらも純粋な?愛を再認識したいですよね…
だから、消せない。そして発覚するわけです…

スマホって、パスコードでロックがかかっているので、いくら妻でも夫でも見れるまい、という油断もあるのかもしれません。
いやでもね、パスコードのロックなんて、当てになんかなりませんて。スマホいじっている傍らに夫や妻がいたら、盗み見していることだって十分あるだろうし、仮に預金通帳の暗証番号とかを知られているような場合には、あてずっぽうで同じ番号入れたら開けるなんてこともあるだろうし。

脳天気に親密なやり取りをしやすいLINEの特性。
「愛する人とのやり取りをすぐに消したくない」というラブラブなふたりの心情。
スマホはロックかかっているから大丈夫という油断。

これらが三位一体となって、LINEのトークが不倫の中心的証拠にのし上がってきたということになりましょうか。

学説の中では、不貞行為に不法行為は成立しないというのがかなり有力な説のようですが、判例を動かすにはまだまだ時間がかかるでしょうし、今回のベッキー騒動がきっかけで、不倫カップルの脳天気なLINEの利用に歯止めがかかるかもしれません。つまり、今後は、不貞された側が、相手の慰謝料請求の証拠がつかみにくくなるということもありうるのかな、などと漠然と考えています。
もしかすると、やり取りしやすくするために、わざわざLINE始めた不倫カップルなんかもいるかもしれないので、そうすると今回の件で、そもそもLINEの利用者数に歯止めがかかる、なんて事態にもなるかもしれませんね(まあ、私が心配することではないかもしれませんが)。
あるいは、LINE側の方が、トークの流出を防ぐために何らかの措置を講じるか。

LINEを出版社に流したの誰だよとか、そもそもこんなプライベートなやり取りでつるし上げにされなきゃいけないイワレなんてベッキーにないだろとか、ベッキーは文春訴えてもいいよな、法的には、といろいろ思うところありますが、書くと長くなりそうなので、今回はこの辺で。



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# by terarinterarin | 2016-01-24 00:09 | Comments(0)

調停の待合室のこと。

テラバヤシといえば「刑事弁護」のイメージを持つ方が同業者の中では、非常に多いように思うのですが、現在仕事で大きなウェイトを占めているのは離婚を中心とする「家事事件」となっています。実は、本日現在手持ちの刑事事件はゼロだったりして。

弁護士のところに依頼がある家事事件というのは、もう当事者同士の話し合いではどうにもならないことが多く、相談にいらした時点で「協議」が難しいもの、すでに調停の申し立てがされちゃっているものが大半を占めています。
で、そうすると必然的に仕事の中で、手続代理人として「調停」を申し立てたり、答弁書を書いたり、当事者と一緒に調停の期日に出席したりすることが多くなります。

東京家裁の場合、午前の調停は10時から12時までがめど。午後は13時30分から15時がめど。例外的に?15時30分から17時という時間帯も用意されています。しかし、場合によっては予定が大幅オーバーすることもままある。特に、調停成立直前の調停条項の内容を詰めたりするときなんて、結構長引きます。13時30分に始まって全部終わったら18時回ってた、なんてこともありました。

で、家事調停は原則的に、申立人と相手側が交互に調停室の中に入り、調停委員や裁判官・調停官、時に調査官と話をするので、反対当事者が調停室の中に入っているとき、あるいは事件の進行や成立する調停条項の内容について調停委員と裁判官・調停官、調査官らと打ち合わせているとき(評議と呼びます)などは、それぞれ「申立人待合室」「相手方待合室」で、次に呼ばれるのを待っていることになります。

待合室は、調停開始時間からしばらくの間は、当事者と代理人、当事者が連れてきた子供、当事者に付き添ってやってきた親兄弟などなどであふれかえっています。開始少し前の時間帯なんかになると、座る席がなくなって立って待つ人も出るくらい。

テラバヤシの場合は、調停のある日は、東京の場合だと家裁の1階、場合によっては隣の弁護士会館の1階で依頼者と待ち合わせをしてから、一緒に待合室に向かいます(依頼者と一緒に遠方に行くときは駅で待ち合わせとかもある)。
第1回の時には、その道すがら、あるいは待合に入ってから、簡単に最初の進行などについてお話したりして(ただ、一応裁判所が説明する一般的な手続を話しても、実際の調停委員がそれを踏襲するとも限らないので、あまり詳しく説明はしないのですが)、最初に呼ばれるまでの時間を過ごします。

依頼者の方は、当たり前の話ですが、特に第1回開始前は、かなり緊張しているので、あまりわーわーしゃべりすぎないようにはしています(注:自分としてはそのつもりですが、根が沈黙が怖い小心者なので、ひょっとすると依頼者からすると、「も少し静かにしてくれればいいのに」とか思っているかもしれません)。

その後の待ち時間は、依頼者の方と世間話をしながら過ごすことが多いかなあと思います。
もちろん、調停委員からの話や、調停委員から伝え聞いた反対当事者の意向や状況等を踏まえて、必要に応じて、その後の持って行き方について話をすることもあります。
が、それだけで終わるわけじゃない。
30分40分、時には1時間以上待つこともあるわけで、その間ずーっと打ち合わせてる事件なんていうのは多分まれでしょうし、事件の話だけなんて、普通に考えて、間が持たない。

まあ、時折スマホでメールチェックをしたり携帯電話チェックしたりして、急ぎの時には「ごめんなさい」と断ってから、返信したり電話かけに行ったりすることもないではないですが、性格的に、こういう落ち着かない状況で仕事のメールに返信したり仕事の電話かけに行ったりするのは苦手なので、ほとんどやりません。

世間話は、本当にその場のノリと雰囲気で種々様々です(世間話ってそういうものですよね)。
依頼者さんの方から、テラバヤシのことや弁護士の仕事のことについて尋ねてきて、それをきっかけに話が広がることもありますし、私の方から、依頼者のお子さんのこととかお仕事のこととかうかがうこともありますし。
たまたま、依頼の方が持っていたものが自分の愛用品でもあった場合に、そのことで盛り上がる、なんてこともありますし。
で、そこから、身の上話とか、最近の公立の小学校の学区割の話とか、種々様々に話が広がって続いて行って、そうこうしているうちに調停委員が迎えに来る…という感じです。
緊張して落ち着かなくて、タバコを吸いに行ったりトイレに行ったり、飲み物を買いに行ったりとずっとそわそわしている依頼者をお待ちしている、なんてことも過去ありましたが。

個人的には、弁護士の多くは、調停の待合室でこういう風に過ごしているんだろうなと思っています。
待合室で、依頼者そっちのけでパソコンに向かっている弁護士らしき人は、少なくとも目についたことは私の場合ありませんし。
テラバヤシの場合、別に、依頼者の方の緊張をほぐそうとかいう意図は全くありません。自然発生的に流れのままに話している感じです。

もしかすると、中には明確に依頼者さんの気持ちを和らげようという意図で積極的に世間話をしている弁護士もいるのかもしれませんが、テラバヤシの場合、そんなことまったく考えておりません…自分の退屈しのぎの側面も多々あり。
が、自分にとっては、いくつかの意味で、結構大切な時間だなあと思います。

単純に、一緒にいる依頼者のことをより理解するという面もあります。「あ、こういうところがある人だったんだ」とか「もしかすると自分が思っていたより、相手方に対して恐怖心を持っていたのかもしれない」とか、言葉の端々やその方の行動なんかで気づくこともあります。それが、そのあとの打合せや提案の仕方なんかに活きることも結果としてあります。

後は単純に、自分の引き出しが増えるということでしょうか。
テラバヤシは、「テラバヤシの人生」という1つの人生しか生きられないわけで、経験できることはごくごく限られている。
世間話をすると、自分以外の人が経験してきた生活を知ることができるし、その人が見てきた世界をおすそ分けしてもらうこともできる。
それが、違う依頼や相談でお会いした人と話を進めるうえで、知識として役に立つこともあれば、その方の話の理解の手助けになることもあれば、話題作りに一役買ってくれることもあるわけで。
そこを離れたとしても、自分自身が何かの情報源に触れるときに「そういえば、あのとき○○さんがこんな話してたっけ」と思い出して、より深い理解につながることもあったりするわけです。

弁護士は、事件によって成長するとはよく言いますが、依頼者さんとの関係で引き出しを増やしてもらうことが多々あるな…と調停の待合室で過ごす時間が増えてきた昨今、しみじみ感じ入ります(うーん、いい人な発言でなんだか恥ずかしいなあ)。

そんなわけですので、依頼者の皆様方(未来の依頼者の皆様方も含む)には、これからも、調停待合室でのテラバヤシの退屈しのぎにお付き合いを願うこととなります。
もちろん、私は静かに過ごしたいの、できればあんまり話したくないの、という方は、どうぞご遠慮なくお申し出くださいませ。






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# by terarinterarin | 2016-01-17 18:30 | Comments(0)
あけましておめでとうございます。
というのもはばかられますが、2016年初めての投稿ですので、一応ご挨拶を。

さて、新年一発目の投稿は、結構どうでもいい話です。

フェイスブックで知り合いの同業の皆さんの投稿を見ていると、

「連休の中日は、○○岳に登ってきました!!」
「妻と△△劇場で、「****」を観劇してきました」
「今宵は、銀座のフレンチレストラン◆◆で、ワインの夕べ」
「●●マラソン、完走しました~。タイムは3時間35分24秒!!」

などという投稿を、結構な頻度で見かけます。大抵は素敵な笑顔のお写真とともに。

なんで?
みんな忙しいですよね。ろくに休む間もないですよね。
なんで、時間ないのに、そんなことができるのですか?
疲れているはずなのに、そんなことをやる体力が残されているのですか?

だって、2週間も3週間も休みなく働いて、その翌日に標高1000メートル級(なのかどうかわからんが、たぶんそうだろう)の山にさくっと登るなんて、信じられますか?
オリンピックに出るような一流選手でさえ、途中でゲ*吐いちゃうときすらある42.195キロなんて距離を、なぜに完走できるのだ。
恐ろしく長ったらしく、舌をかみそうな名前のワインを、名前を聞いただけで、おおよその味の検討がつけられるなんて教養をどこで身に着けるのでしょう。
感動や余韻がしばらく続いてしまう演劇を、仕事帰りのその足で、見に行けるその気持ちの切り替えはどうやってつけるのだ。

と、ここまで書いてふと思ったのですが、ビッグな人というのは、気持ちの切り替え方法もビッグなのかもしれません。
岡村隆史がインタビュアーをやった「プロフェッショナル」スペシャルで左官職人の男性の方(名前が出てこない)が、その人のレベルが上がれば息が抜ける方法もそれに応じて変わっていくということを言っておられたのですが、まさにそういうことなんでしょう。

つまり、(弁護士家業とは別方面の)体力や気力や教養がビッグに必要な趣味を持っている方は、それだけ本業の方で、とんでもないプレッシャーや責任にさらされている、大きなものを背負っている。精神的なバランスを保つためには、趣味の方もビッグにならざるを得ない…とそういうことなんでしょうか。

実際、「ビッグな」投稿をされている皆さんは、お世辞でもごますりでもヨイショでもなんでもなく、テラバヤシ的には「できる弁護士」の皆様方です。
いつも、事件に会務に社会活動に忙しくしていらして、休む間もないほど動き回っている。
はずの皆さんに限って?、登山、観劇、ワイン、マラソン等々の、結構時間を取られ、体力を使い、あるいは教養を要する趣味を堪能しておられるのです。

さて、かくいうテラバヤシは、というと、自他ともに認めるインドア派。
子供のころ、近所の山から大雪山からさんざん遠足や修学旅行で登らされて、「自然はもういい」とおなか一杯状態。
体を動かすのは好きだけど、長い距離を走るのは嫌い。
酒は体がなんともないときはまあちょっと飲みますし、できればいいお酒を飲みたいけど、銘柄を覚える気は全くなし。
観劇や映画鑑賞は、余韻を引きずってぼーっとなるのがちょっと怖くて、見ようと決意するのに時間がかかる。
という、ちっちゃい人間です。

趣味と誇れるものもほとんどなし。
唯一他人に語れるものといえば、フィギュアスケートのうんちくくらいかと。
まさに、小テラバヤシです。

いつかこんな私でも、「そこに山があるから」と登山に目覚める日が来るのでしょうか。
ホノルルマラソン完走したるで、とハワイに旅立つ日が来るのでしょうか。
はたまた、一度もかまずに長い長いワインの名前を語ったり、堪能し演劇の演出や役者の演技についてうんちくを語れる日が来るのでしょうか。

いやいや、肝心なことは、山やマラソンやワインや演劇を堪能するパワーが出るほど、まっとうに仕事ができるようになること、なのですが。

そもそも体力がない小市民テラバヤシですが、本年も、目の前の仕事を一個ずつ地味にやり切っていければと思っております。

というわけで、よくわかりませんが、本年もよろしくお願い致します。



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# by terarinterarin | 2016-01-11 23:21 | Comments(3)
御用納めです。
私の御用も納まったはずです(とりあえず裁判所からの連絡はもう来ないだろう、しばらく)。
先日、今年最後になりそうな投稿です、とか書きましたけど、もうひとつ投稿することにしてみました。

ありがたいことに?12月は、様々な意味において大忙しでした。
日曜日に(アマゾンで買った荷物を引き取るために待機を強いられて)自宅で起案、その日のうちに裁判所に送付せねばならないということがありました。
そして、ちょいと事情があって(仕事もかねて)クリスマスイブの夕方には、札幌に帰省しました。
イブの午前は、東京家裁にいて、手続終了後に、別な裁判所から連絡が入り、書面を1つ郵送しなければならなくなりました。できる限り早く。
そして、帰省してからは、12月に申し立てた調停や申立書の期日がどんどん指定され、受書を送る羽目になりました。

ここで威力を発揮したものが3つありました。
カムスキャナー。
ネットプリント。
インターネットFAX。
もちろん、スマートフォンないしPCが手元にあることが前提条件となります。

カムスキャナー。
知らない人のために若干解説しますと、スマホアプリの1つで、これで文書を写真撮影するとPDFファイルに変換して連携したクラウドサービスに保存したり、メールでそのまま送ったりできる機能を持っています。

そして、ネットプリント。これは同業であれば知っている人が多いと思うのですが、各コンビニエンスストアの複合機で、事前にネット上で登録した書類をプリントアウトできるサービス。1枚20円で、セブンイレブン系とその他のコンビニ系(ローソン、ファミマ、サークルK、サンクス)のサービスに分かれています。
例えば、刑事弁護の世界では、逮捕直後の初回接見の後に勾留却下するよう意見書を作成し急ぎ提出する際によく使われています。

インターネットFAXも既によく知られたサービス。
メールアドレスに送信先の電話番号を組み込んだアドレスを入力し、送付したい書面を添付ファイルにして普通にメール送信すれば、FAXが送れるものです。定額制で決められた枚数を送れます(テラバヤシが利用しているのは送受信1500枚までで月1500円+消費税)。

自宅にはプリンターがありません。
自宅待機しつつ書面作成、郵送しなければならなかった日曜日。作成した書面は、ネットプリントを利用して、徒歩2分のコンビニで受け取り、職印を押した後、カムスキャナーでデータに取り込んでクラウドに保存。その後封筒に入れて徒歩1分のポストに投函してミッションを無事に完了しました。

イブの日は、地裁の弁護士待合でおにぎり食べつつ、書面作成。裁判所地下のファミマのネットプリントでプリントアウトした後、同じく裁判所地下の郵便局でレターパック360を購入。そのまま中身をつめて郵送完了しました。

そして、帰省後の期日受書攻撃。裁判所名や当事者名を手書きで書ける期日受書ひな型を作成して、それを必要な分、実家近くのローソンでプリントアウト。自宅で空欄を埋めて職印を押しまくって、カムスキャナーを利用してデータを取り込み、インターネットファックスですべてFAX送信。
後回しにすると出すのを忘れがちな期日受書の送信を完了することに成功したのでした。

個人的に、必要な連絡をできる限り迅速に行うことは、対依頼者との関係だけでなく対裁判所との関係でも信頼を得るために必要なことだと考えています。たかが期日受書かもしれませんが、可能な限り早く送りたかったので、テクを多用しました(書記官の皆さん、たまに連絡が遅くなるのはお許しください→予防線)。

複合機完備の事務所で仕事をするのと比べて、結構ドタバタするのは否めません。
が、この3つ+パソコンないしスマホがあれば、出先で最低限の事務処理は何とか出来てしまう。
何とも恐ろしい世の中です。
その昔、ポケベルや携帯電話ができたとき、世の営業職のおじ様たちは、ちょっとした隙間に喫茶店やパチンコ屋でさぼれなくなったと嘆いておりました。
そう、こういうものをそろえてしまうと、帰省しても仕事ができてしまうので、やってしまうことになるわけです(ただ、ある程度やりきることができれば、その後ほっとしてお休みできるというメリットもあります。私のような小心者は、細かい仕事でも完了できずに休んでしまうと、気になって却って休めなくなってしまうので)。

こんなことができてしまうと、ほぼ完璧に「ノマド弁護士」が可能になってしまいます。
が、ネットプリントでプリントアウトする書面は往々にして事件に関するものが多くなることは間違いないので、書面の取り忘れにはもちろん注意しなければなりませんし、プリントアウト中、プリントしたものを取り出してしまう場合には、他の客に書面を見られないようあたりにかなり気を配らねばならないこともまた事実です。
急を要するときに利用は限るべきで、多用がまずいことは間違いないでしょう。

なお、個人的には最近はセブンイレブン系よりはそれ以外系のネットプリントのほうが便利だと思っています。
なぜなら、プリントアウトしたいページを指定できるからです。
ただ、セキュリティという点では、書面ごとに番号が変わるセブンイレブンの方が優れていると思います。

さらに、カムスキャナーでPDF化した書面は、普通のPDF書面よりもデータが重いので、カムスキャナーでデータ化した書面を添付ファイルで送ったりするときには、枚数が多いと、送信先の環境によっては受信できないことも少なくありません。
インターネットFAXも同じで、送る書面のデータ量があまりに多いときは、送るのにものすごく時間がかかったり、場合によっては遅れないこともあります。

要は、3種の神器とはいえ、いずれも「ちょこっと使い」「緊急使い」用のアイテムということを忘れてはならんということです。

とはいえ、事務員を置かないお一人様事務所、かつ出歩くことの多いノマド弁護士にとっては、これらのアイテムを使いこなすことで、仕事の効率が上がること、事務処理のための無駄な移動、無駄な時間を節約できることは間違いありません。

事務員がいない分は、アイテムと工夫で切り抜ける。
来年もおひとり様で切り抜ける予定のテラバヤシとしては、様々なアイテムを活用して、事務員がいないハンデ?を埋めていこうと思います。

ではでは。皆さま、よいお年を。






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# by terarinterarin | 2015-12-28 23:34 | Comments(0)
冬至です。カボチャも食べず、ゆず風呂にも入らず、おそらく年内最後になりそうな投稿です。

ようやっと、12月16日の最高裁夫婦同姓合憲判決を読みました。
まあ、いろいろ突っ込みどころはあれど、論理的に詰めた批評は、大雑把なおつむしかない私なんぞに似つかわしくないので、判決を読んでのざっくりとした感想と、それを踏まえたうえで、ふと思ったことをちょっと書いてみようかな、と思います。

テラバヤシが、今回の最高裁判決でまず一番「はあ?」と思ったのは、「氏の変更を強制されない自由」の位置づけです。
この判決、氏の変更が「アイデンティティの喪失感」を招くことを認めているにもかかわらず、「氏の変更を強制されない自由」を憲法上の人格権と評価せず、それよりもランクが低い「人格的利益」と位置付けてしまっている。

いやいや、「アイデンティティ」の確立って、まさに「個人の尊厳」の核なんじゃないんですかね…憲法13条で保護すべき自由の根幹がこれなんじゃないんですかね…と判決読みながら、ここでまず突っ込みを入れてしまったという…

で、この一段低い「人格的利益」という評価を前提に、安易に立法裁量論に話が流れていき、まさに水が流れるように、夫婦同姓は立法裁量の範囲内という結論が導かれているわけで。

さらに、寺田補足意見は、まさにこの多数意見に追い打ちをかける「補足」をしていて、極めてザックリまとめれば、「選択肢がないことの不合理は、よほどのことがない限り民主主義的プロセス(つまり多数決の論理)で何とかするしかないわけね。裁判所はいかんともしがたいの」という、「少数者の利益保護」という人権保護の基本、人権の砦たる裁判所の役割を放棄するかのようなことを言ってのけちゃっているわけです。

つまるところ、この多数意見&寺田補足意見は、「法律婚をする以上、個人の利益やアイデンティティは捨てて、『家族制度』に組み込まれることを覚悟してね。制度としてみんな名字は一緒ってことになってるから、夫婦でよく話して、どっちの名字を名乗ることにするか決めてね。でね、結果として夫の名字を名乗る家族が多くなっちゃっても、裁判所は知ったこっちゃないの」ということを言うがために、長々と論旨を述べまくっているわけです。

しかし、この結論、逆説的に読むと、「家族制度に組み込まれるのが嫌で、個を大切にしたい人は法律婚をしなきゃいいだけなのよ」というメッセージも暗に含まれているのではないか、とそんな風に感じなくもない。
いや、そういう風に読む人、感じる人、少なくないと思う。

地方あたりではまだまだかもしれませんが、都市部では、もうかなり前から、「個」を大切にする生き方は浸透してきているように思うのです。これは、結婚するとか、誰かとパートナー関係を築くとかと関係ない。複数の人間で1つ屋根の下で暮らしていくことを選択することと自分の「個」を大切にするということは別に矛盾することではありません。
誰と、どういう関係を結んで、どういう生活を送りたいかということを一人一人が自由に考えて、それをかなえることができる相手と一緒に暮らしていく。これはまさに「個」を大切にすることであり、「アイデンティティ」を確立するプロセスの1つになるものでもある。

誰かと「家族」になりたいけど、でも、なにもかもひとくくりにされてしまうのはいや、という考えはごくごく自然であり、別にわがままでも何でもない。そういう感覚は間違いなく浸透しています。
そうすると、誰かと家族にはなるけれど、じゃあ、「家族制度」に乗っかるのか、乗っからないのかという選択が、この先、ごく普通に行われていくことになるのではないかと。
つまり、とりあえず異性婚を前提とする場合、法律婚は内縁と等置される選択肢の1つにしかならなくなり、法律婚のメリットや自分のアイデンティティを天秤にかけて、どちらを選択するか、カップルごとに判断する風潮がどんどん広まっていくと、そんな風に思うのです。

そもそも、法律婚じゃないと受けられないメリット、法律婚じゃないとできないことって、どんなものがあるんでしょう?
確かに所得税の配偶者控除は、法律婚をしていないと受けられない。
でも、健康保険は、内縁の妻、夫でも「未届の妻、夫」と書いとけば3号被扶養者として適用あり。
子の親権は共同親権にならず、父あるいは母のみが親権を持つことになるけれど、同居している以上それで何か具体的に困るということはないし、内縁関係解消するときに必要があれば親権者変更の手続をとることでクリアできる。
相続の問題も、遺言さえ残しておけばカバーできる。
最近は企業の家族手当も内縁関係を対象に支給されるケースも多いですし…
細かいところではおそらくまだまだ何かあると思うけど、世間が内縁というものに寛容になってきているこのご時世、自分のアイデンティを捨ててまで、法律婚したほうがいいと思わせるまでの制度上のメリットなんて、ないんじゃなかろうか。
つまりそれだけ、明治以降に構築された「家族制度」なんてものは、別に制度として絶対的に保護すべき何かなんて持たない空虚なものでしかない。単に同じ名字を名乗らせて、世帯の識別をしやすくして、おかみが民を管理しやすくしようとした、それだけのものでしかないんですよ。

そういうことを考えると、今回の判決は、「ああああ、やっちまったよなあ」とテラバヤシは思う。
「部屋とYシャツと私」を地で行くような古式ゆかしい男子女子を念頭に置いちゃって、中身がない「社会の構成要素である家族の呼称としての意義」なんてものを重視しちゃって、だからこそ「夫婦同姓」は間違っていないなんて言ってのけてしまったんだから。

そんなものに疑問を持っている人は、このご時世、たくさんいる。
国民はそんなにアホじゃあありませんぜ。
もっと冷静に判断している。
一部の自治体では、同性パートナーシップを夫婦同様に保護しようという動きも出てきているこの世の中。
あろうことか、最高裁が、「家族」「夫婦」の考え方を変えられなかったということになりましょうか。









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# by terarinterarin | 2015-12-22 22:19 | Comments(3)
今年は、身の回りで、とりわけ悲しい訃報がいくつかあった年でした(今年の終わりまで、もうそういう訃報には接したくないなあと思う次第です)。
そのうち、最後に接した訃報は、本当にびっくりで、本当に口惜しいものでした。

テラバヤシが弁護士になった当初、法テラス愛知赴任前にいた事務所、その隣のビルに法律事務所を開いていたとある先生が、8月末に亡くなられたのでした。
50代前半の男性の先生でした。
明るく楽しく、決して偉ぶらない、後年は被災地の復興に熱心に取り組んでいらした先生でした。
テラバヤシのFBのくだらない投稿を面白がって、さらに面白いコメントをつけてくださるような、そんな先生でした。
もともと慢性的な疾患をお持ちでした。名古屋から東京に戻り、久しぶりにお会いした際には、かなりお痩せになっていましたが、その後もパワフルに活動されていたので、それほど健康面での問題はないのだと思っておりました。
お亡くなりになったのは、突然のことでした。

先生の事務所は、二人の事務員さんと運営していました。イソ弁やノキ弁、共同経営者はいませんでした。
亡くなった後、継続中の事件の処理、事務所閉鎖のための対応で、当然てんやわんやすることとなりました。
東京弁護士会には、いくつかの派閥があり(どこでも大抵そうなんでしょうが)、私はその先生と同じ派閥に所属していました。
その派閥のメーリングリストから、事件の引き受け手や事務所閉鎖の後始末などは、先生とゆかりが深かった別の弁護士らが有志となって対応していたことを、なんとなく知っておりました。

先日、愛知赴任前に所属していた事務所のボスの呼びかけで、近隣の事務所所属の弁護士や事務員さん(元近隣の事務所所属の皆さんも含む)を集めて、亡くなった先生を偲ぶ会が営まれました。テラバヤシも呼んでもらいました。
亡くなられた先生の事務所で働いていた事務員さんも、もちろんいらっしゃっていました。
その時に初めて、先生が亡くなられたときの状況や、その後テラバヤシの前事務所が、事務所閉鎖のための諸手続のためにかなり尽力していたことを知りました(口の悪い酔っぱらいのボスですが、そういう面倒見の良さは相変わらずだなあと変に感心してしまいました)。
事務処理はあともう少し残っているそうで、事務員の方々は、今でもテラバヤシの前事務所の一角で、その作業を行っているとのことです。

事務所の前のココ一番屋で週14回食事をして、遂には店で腸閉そくを起こした、などの武勇伝?もあり、笑いが絶えない偲ぶ会でした。
が、テラバヤシがつきつけられた現実がありました。
それは、テラバヤシがある日突然死んだりしたら、きっと、この先生の時よりも、もっともっともっともっと、大変なことになるであろう、ということです。
なんせ、正真正銘ひとりでやっている、「ぼっち事務所」。
他の弁護士と一緒にやっている事件以外、事件の内容や進行状況をテラバヤシ以外に把握してくれている人は誰もいません。
「事務所に来ないぞ」「裁判所に行ってないぞ」と、早々と異変に気が付いて気を効かせて生存確認等をしてくれる人も、いないわけで。
そうすると、依頼者にかける迷惑は、それこそ「ハンパない」ことになります。
自宅や事務所で孤独死したりしたら…と思うと、「こりゃ、ちょっと対策せなあかんな…」という気になりました。

実際、偲ぶ会の席では、参加された先生方の何人かが、そんなテラバヤシの状況を非常に心配して、「この際、ノキ弁でも置いたらどうだ」「事務員さん一人くらい雇った方がいいんじゃないか」などとアドバイスをくださいました。
がしかし、まだまだ事務員さんを雇って、きちんと給料が払えるだけの自信がないこのワタシ…「やっぱり収益上がんないから解雇~」なんてできるわけないですから。ノキ弁というシステムそのものも、ちょっとどうなのかと思ってますし、正直。

で、そうすると、おひとり様事務所を当面運営するという前提で、万が一の時に、極力依頼者も含めて仕事関係者にかける迷惑を縮小するための「備え」を施しておかなくてはいけない、となるわけであります。

例えば、倒れた時のために身分証なんかと一緒に「私が倒れたり死んだりしたときには、すぐにここに連絡してください」というメモ書きを一緒に持ち歩いておく。
故郷にいる家族には、テラバヤシ死亡、倒れるなどの一報が入った時には、葬式の手配なんぞ後回しでいいので、とりあえずここに連絡しろという同業者の連絡先を預けておく(その前に、「こうなったら、そちらの事務所に連絡してもらうことにするから」というネゴをしておく)。
そして、業務引継のための覚書みたいなものをきちんと事務所のわかりやすいところに置いておく。

事務的な段取りは、おそらくこれくらいで何とかなると思うのですが(そうかな?)、こんなことよりも先に、最も欠かせないことがあると思われます。
それは、日ごろから、きちんと同業者とつながりを持っておくということです(注:いやいや、事務処理押し付けるために皆さんにいい顔しとくって意味ではないですよ!!)。
この度亡くなった先生の件、有志の先生方が、それこそ手弁当で、事件を引き受け、後処理を引き受け、円滑に事務所を閉鎖できるように運んで行ったのは、何よりこの先生が、最初に書いたように、様々な弁護士と関わり、様々な活動に尽力し、弁護士同士の繋がりを大切にしていたから、です。
こういう繋がりがなければ、おそらく先生が残していった遺産は、深刻なカオスとなり、わずか4か月程度で収束が見える、なんてことにはなりえなかったと思うのです。

6月には、テラバヤシが法テラス愛知にいた時代にお世話になっていた副所長の先生がお亡くなりになられました。
その先生が亡くなられたときも、人との関わり、弁護士同士の関わりってつくづく大切だなあと思いました。
今回も、この時とは違う意味合いではありますが(注:この件もブログで触れておりますので、ご興味ある方は、6月頃のブログをほじくり返してご覧になってください)、やっぱり、この仕事、人とのつながりは欠かせないと痛感したのであります。

で、「同業者ときちんとつながっておく」というのは、複数の弁護士で事務所をやっているケースよりも、おひとり様で事務所をやっているテラバヤシのような弁護士の方が、遥かに意識しなければならないことです。
テラバヤシも最近特にそうなのですが、おひとり様事務所は事務所の切り盛りをすべて一人でしなければならないので、知らず知らずのうちに気持ちが「事件をどう回すか」「仕事をどう切り盛りしていくか」ということに集中しやすくなるのです。内向きになってしまうわけです。
で、飲み会キャンセル、委員会に出なくなる(さぼっている委員会の皆様方、本当にごめんなさい。あ、ブログ書いてる暇あったら委員会に出ろとか突っ込まないでください…)などなどが頻発し、人とのつながりが薄れていくという。

人とのつながりって、単に仕事をもらうためだけに必要なわけではないのです。
自分の万が一の時のために、自分のところに来てくれた依頼者に迷惑をなるべくかけないようにするためにも、必要なのです。
そこのところが盲点だったなと気が付いた偲ぶ会でした。

Y先生、教えてくれてありがとう。安らかにお眠りください。

追伸
後日、テラバヤシの後始末事務所という不名誉な指名を受けてしまった先生方、怒らないで相談に乗ってください、お願いします…





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# by terarinterarin | 2015-12-10 18:44 | Comments(0)
師走最初の土曜日、皆様いかがお過ごしでしょうか。
テラバヤシは、お昼の仕事が1つキャンセルになり、ブログでも更新するかと思い立ったところです。

ともえ法律事務所というかテラバヤシは、弁護士になって以来、一貫して主に個人の依頼者の事件を受けてまいりました。
そんな中で、最近特に思うのが、解決するとは、これ如何にということです。

企業が依頼者のケースや個人に依頼者でも過払い請求が依頼内容だったりする場合、お金の支払いを受ける、建物の引渡しを受けるということが、そのまま解決につながることが多かろうと思います。
しかし、個人対個人の場合は、必ずしもそうならないことの方が多い。
請求したお金を返してもらっても、訴訟で相手に完勝しても、その後に忸怩たる思いが残ることが多い。
そういう場合、紛争の処理自体はそれで終了なんだけれど、果たしてその人にとって事件が解決したと言えるのかというと、決してそうではないと言わざるをえないわけで。

つまるところ、解決というのは、その人自身が「解決した」と思える状態に至ることなんだろうな、と現時点でのテラバヤシの結論はここにあります。

ただ、「解決したと思えること」というのも分解してみると種々様々あるわけで。
例えば、「思い通りのお金をゲットできたので大満足」という場合、「自分の思い通りには必ずしもならなかったけれど、代わりにお金をもらえたからまあいいか」という場合、「結局負けてしまったけれど、やれるだけやったからもういいや」という場合。どれも、その人にとっては、「解決した」ことになるのだろう、と思います。

あるとき、職場のパワハラでお悩みの方の相談を受けた際、その人は、こういう問題がある場合には、必ず法的手段をとらなければならないんだと思い込んでいたということがありました。
どうしてそう思い込んだのかはわかりませんでしたが、お話をしていて、気持ちを切り替えることで解決を図りたいと思っているのかなとなんとなく感じて、「法的な手段というのは、あなたがそれを採りたいという場合に使えますよというだけの話であって、例えば、違う観点から物事を捉えたら全然気にならなくなった、相手をかわせるようになった、というのであれば、別に無理に法的な手段に出ることはないと思いますよ」ということを思い切って伝えたことがありました。
そうしたら、その方は、すごくスッキリした顔をして帰って行かれました。
その後どうなったのかはわかりませんが。

解決するということが、こういう極めて主観的な問題であるとすれば、テラバヤシのように個人の依頼者の事件を中心に据えて業務を行っている弁護士というのは、相談にみえた方が、本当はこの件に関してどういう形になることを望んでいるのかということを、的確に汲み取ることが必要になるのだろうなと思います。
相談にいらっしゃる方の中には、時として、自分がどうしたいのか迷宮にはまり込んでしまってわからなくなっているケースもあります。
そういう場合には、まずは自分がどうしたいのか考えてください、とはっきり伝えることが必要でしょうし、見当が多少でもつく場合には、その答え探しを一緒にすることも時として必要でしょうし。

こういう問題だったら、これこれこういう請求ができますよ、相手にお金がないからやめた方がいいねえ、くらいのことを言うだけでは、おそらく真の法律相談とはいえないんだろうなと。

以前別な弁護士に相談したんだけど、ちゃんと話を聞いてもらえなかったという話も、実は割りによく聞くのですが、案外、こういう相談者が心の芯で望んでいるところに弁護士の言葉が届いていないことがこういう不満を生んでいるのかなと、なんとなく考えます。

もちろん弁護士は法律家ですので、どんな要望を出されようと、法的にできるかできないかを判断しなくてはなりません。ですから、その人の要望に対して代替手段としての法的措置を提案せざるをえない場合も結構あります。
そういうときに、その代替手段をとることで納得を得られるように気持ちを持っていくようにするのも、ひとつ、依頼者に満足してもらうための技術なんだろうなあ。。。
そして、依頼者にとって真の解決を導くための引き出しが多ければ多いほど、いいんだろうなあ。。。

うーん、こう考えると、なんだかどんどん落ち込んで夜も眠れなくなりそうなので、この辺で終わることにします。
さて、夕方からの仕事に向かいましょうか。
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# by terarinterarin | 2015-12-05 15:14 | Comments(2)
大沢樹生が喜多嶋舞との間の子について親子関係不存在確認の訴えを起こしていた件で、親子関係を否定する判決が出たのは、多くの方がご存じのニュースと思います。
訴訟提起前に先立って大沢さんが行ったDNA鑑定でも親子関係は0%という結果が出たのだとか。

それを受けての調停申立→調停で合意できず(注 正確に言うと、当事者が大沢さんと子の間に親子関係がないこととその旨の審判をすることに合意する「合意に相当する審判」というものが喜多嶋さんの意向でできなかったということになりましょう)→訴訟提起→親子関係を否定する判決という流れだったと思うのですが、弁護士として不思議なことがひとつ。

それは、タイトルにあるとおり、なんでこの件、大沢さんが叩かれているのか?ということです(個人的には、訴訟にしたって結果は目に見えているんだから、どうして調停段階で喜多嶋さんがけりつけなかったのかなあと考えてしまいます。これ、同業者であれば色々考えちゃうところではないでしょうか。依頼者や相談者の中で結果が目に見えている中で、コストや時間がいたずらに費やされるにもかかわらず、出るであろう結果を認めようとしない方は少なくありませんので。まあ、それは今回はおいておきます)。

話題になったのは、ニュースキャスターの安藤裕子さん。「子どもにとっては切なすぎる。なんでそんなに親とか子とかきっちり決めなきゃいけないのか」などと、DNA鑑定をしたこと自体や調停や訴訟を起こしたことに対する批判とも受け取れるコメントをしていたようです。
さらに、本日、仕事に出る前に見ていた「アッコにおまかせ」では、男性対象の「もし子どもが自分の子でないことがわかったらどうするか」というアンケートの結果を発表。回答方法も回答した男性の抽出方法も全く明かされない怪しいものではありましたが、1位はなんと「墓場まで持っていく」で、確か3割超の人がこの意見だった気がします。

つまり。
子どもは自分のことを父親だと思い込んでいる。
本当の父親がだれなのかはわからない。
自分さえ何も知らなかったことにしておけば、万事うまくいくんだ。
よし、このことは俺が墓場まで持って行って、決して誰にも言うまい。
そういう「自己犠牲」「男のやせ我慢」「男は黙ってサッポロビール」みたいな気構えを良しとする人がなかなかに多かったということです。

「きもちわりー」と家の中で叫んでしまいました(私以外には誰もいない部屋です)。
これほどに、大沢さんの身に起こったことが「他人事」であり、かつ、夫婦関係や男女関係、家族関係に対する想像力が欠如している結論が相対的多数になっているというその現実がアンビリーバブルなのでした。

大沢さんが、子どもを自分の子じゃないんじゃないか、と現実的に感じ始めたのは、喜多嶋さんと離婚した後とのこと。
つまり、大沢さんと喜多嶋さんとの信頼関係はとっくのとうに失われている段階でした。
しかも結婚時に酔っぱらって喜多嶋さんが「あの子は別な男性の子どもだ」と吐いたこともあった。
子どもは離婚後、大沢さんが親権をとり、育てている。

大沢さんにしてみれば
・彼女は、別な男の子だと知っていながら、色んな思惑があって自分の子どもだということにした方が都合がいいから真実を告げずにそういうことにして、自分と結婚したのではないか?
・(離婚時に親権問題が生じなかったという仮定の下ですが)しかも、離婚の時に自分が育てるのが面倒だから、自分の子じゃないとわかっていながら体よく子供を押し付けようとして、まんまと俺がそれに乗っかっちゃたんじゃないのか?
などなどなどなど、「どうして自分がこんな目に遭っているのだ」という「心の中、嵐」になって当然なのです。
妻との間でラブラブ状態が継続している(あるいはそう思い込んでいる)状況で発覚した事実とはわけが違うのです。

さらに、他の男性が血縁上の父親だとすれば、本来認知によって、その男性が養育の負担を負うべきなのです。
他人が負うべき義務を何も知らない自分が半ば騙されて負わされてきた。
そう考えるのはちっともおかしくない。いや、当たり前のことです。

確かに、お子さんは非常に気の毒です。
今まで大沢さんのことを本当のお父さんだと思ってきたんですから。
本当の父親が誰かということも、知らされてこなかったのでしょう。
多感な年ごろのお子さんのようですので、精神的なダメージ、それが今後の生育に与える影響が心配されるところではあります。

しかし、だからといって、大沢さんに「お前が我慢しろよ」というのは、筋が違います。
大沢さんには、親子関係があるかどうかを調査し、血のつながりがないのであれば、それを否定してもらう権利があります。
その権利を使うか使わないかは、大沢さんが自分自身の判断で決めていいことなのです。
それが「個人を尊重する」ということだと思うのです。
親のために子が犠牲になってはいけないのと同じように、「子」のために親が犠牲になることも強いられてはいけないのです。

大沢さんとしては、血縁上の親子関係がないということを確定したうえで、やっぱりその子を自分の子として育てたい、その子も大沢さんの子として生きていきたい、ということであれば、養子縁組を改めて行うという手段だってとることができます。
一回関係を白紙に戻したうえで、双方今後どうしたいかを考えたうえで、採れる手段を採ればいいだけの話です。

「そんなの無駄じゃないか」という人もいるかもしれません。
しかし、本来の父親が認知すれば、戸籍上は、「血の繋がった」父親と養親としての大沢さんの名前が併記されることになるわけで、身分関係が正確に反映されることとなります。将来的なところでは「相続」という点からすると、その子にとっては、より利益が高い結果になる可能性もあります。
DNA鑑定の結果を受けて、それに見合った正しい結果に一度リセットすることは、今後の大沢さんとお子さんの関係、お子さんと真の父親との関係をどうしたらよいか考えるうえで、決して悪いことではないと、そう思うのであります。

子どもができた段階で本当のことを言わなかった喜多嶋さんにも非難が集まっています。
確かに、喜多嶋さんが子どもが大沢さんとの間の子だと100%確信していた…というのは、なかなか考えにくい状況であるように思います。
しかしだからといって、その段階で「あなたの子じゃないかもしれない」と告白すべきだったのかというと、やはり、その点はその時のお二人が置かれていた状況がわからないので、何とも言えません。
仮に、喜多嶋さんが純粋に大沢さんのことを愛していて、大沢さんとの結婚を心から望んでいたということであれば、それだけに告白しにくかったかもしれないなあなどと思ったりもします。

ただ、せめて離婚するとき、あるいは、DNA鑑定の結果が出たときに、きちんと認めてご自身の口から大沢さんやお子さんにお話ししていたら、お子さんや大沢さんの苦しい思いは軽減されていたかもしれないと思います。
(本当の父親がだれかわからないという華やかな?生活を送っていたのであれば、そのような説明もかなわないかもしれませんが…)

とにかく、テラバヤシが言いたいことはただひとつ。
男女のこと、家族のことは、男女の数、家族の数だけ事情があります。
具体的な事情についてまで想像が及ばないのは当たり前の話ですが、ある程度年齢を経たいい大人だったら「まあ、色々あるよな」ってことくらい、わかるでしょ。
にもかかわらず、大して物も考えず、「これがあるべき姿」「これが美しい姿」みたいなものを勝手に作り上げて、それにそぐわない行動している人間を派手にたたくってのは、本当に気持ち悪い。

なんだか最近「叩く対象」的なものがニュースに浮上してくると、同じ方向性からやみくもに叩く風潮がすごく強い気がする、この国。
弱い者いじめすることでしかストレス解消できない閉塞感が、それだけ蔓延しているということなのでしょうか。



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# by terarinterarin | 2015-11-22 22:36 | Comments(3)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terarinterarin