人気ブログランキング | 話題のタグを見る
北千住パブリック法律事務所に移籍してから既に2年以上が経過しました。
この間、自分が担当する事件が(こんな言い方をすると失礼なのかもしれませんが)、どんどん「濃ゆい」ものになっています。
多方向に考えをめぐらし、先の展開を読めるところまで読み、それでも予想外の展開になることも少なくない、一筋縄ではいかない事件が増えました。

そして、移籍してから以前にも増して、家事事件(形式的には民事事件でも実際には家族内の問題というものも含みます)が増えてきました。

いわゆる「DV」が絡んでいる事件も少なくありません。

「DV」は、ドメスティックバイオレンス、つまり家庭内暴力の略であり、家事事件の領域では、主に配偶者間の暴力(そしてその多くは、夫から妻への暴力)を指す言葉です。
単にDVと言われるものは、身体的暴力が振るわれる場合ですが、他に経済的DV、精神的DVなどもあります。
経済的DVは、生活費を渡さない等の経済的な方法により配偶者を不当に苦しめる事象、精神的DVは、いわゆる言葉の暴力によって精神的に配偶者を不当に苦しめる事象と言えるでしょう(なお、モラハラより精神的DVのほうが宥恕すべき事態と考えます)。

配偶者に暴力を振るわれた、生活費を渡してもらえない、日々の暴言暴力に苦しめられている、というご相談は非常に多いです。

相談者からの話を聞いていて思うのは、これらのDVの本質は何かということです。

単にDVをする人間の性格が悪い、わがまま、あるいは発達上の問題があって爆発しがち。
DVという事象の背景を上記の程度にとらえるのは、適切ではありません。

DVをする側には目的があるのです。その目的を、DVをする人間が自覚しているかどうかはわかりません。
自覚していなくても、「骨の髄」からその目的を履行したいと意図して、DVをする人間は行動しているのです。

DVをする側の目的は、「支配すること」です。
配偶者や子供を支配する。
そのために、暴力や暴言、経済力をフル活用するのです。

なので、DVの完成形は、完全に支配することです。
具体的には、DVをされる側が、その状況から脱することをあきらめてしまう、あるいは洗脳されてDVをされていることに気づかない、DVをされていることが普通の状態になってしまう、というところに行きつくと、DVはその目的を達していることになります。

DVをする側は、その支配状態を継続するために、適宜DV行為を行えばよいということになります。おそらくは被害者が逆らっている状況よりも楽であろうと思われます。

そして、この域に達してしまうと、DV被害者の周囲がこの状況から脱しなければならないと思っていても、本人にはその気がないため、助力が困難になります。
私自身もこれに近いケースのご相談を何度か受けたことがありますが、被害者の方にこちらの言葉が届かず、スポイルされ続ける生活に戻ってしまうので、大変に悔しくもどかしい思いがします。

先ほど、DVの目的は「支配すること」と書きました。
逆に言うと、DVは「支配のための手段」ということになります。
ということは、配偶者の一方が、他方の配偶者やその他の家族を支配するために用いられる手段は、暴力や暴言、経済力には限られないということです。
単なるDV、経済的DV、精神的DVだけが、DVではないのです。


代表的な先の3つの例以外では、子どもを利用したDVが、よくあるケースです。
個人的には「面会交流DV」と呼んでいます。
この類型のDVは、主に別居しているケースで行われます。

同居親が相手方に対してDVをする場合には、面会交流やその他の問題について条件を付け、「従わなければ面会交流は行わない」という形で、支配をしようとします。
逆に別居親が相手方を支配しようとする場合には、子どもに会う権利を声高に主張して、相手方が従わない場合には、住居や職場に押し掛けたり、子らが通う教育機関にコンタクトを取ろうとしたり、種々の嫌がらせをしようとするのです。
いずれも執拗です。


世間一般ではもちろんDVと認知されていませんが、我々弁護士の間でも、上記のような事象が実はDVであると気付かない人が少なくないようです。

それがゆえに、「お子さんに会いたいのであれば、ある程度先方の主張を受け入れなければならない」、「面会交流は権利であるから、子どもは会わせなければならない」と、苦しんでいる被害者に結果的に寄り添わない対応を弁護士がしてしまうこともあります。

もちろん、最終的には、個々のケースに応じて対応することになりますが、子の監護が問題となっている事案において、早期に調査官を参加させる今般の調停の在り方に鑑みれば、早い段階で調停に持ち込むことが有効になることが多いのではないかと思われます。


このようなDV加害者は、自分が誰かの指示を受けることを嫌がります。
その一方で、お上には(若干ながら)弱いという一面があることも少なくありません。
そこを利用するのです。

調停に持ち込んで、裁判所に(調査官に)加害者の不当な対応を訴え、調整を求める。
もちろん100%、被害者側が望んだ結果にはならないでしょう。
しかし、100%、相手から言われるがままにはならない、つまり、支配がしにくい状況を作り出せる可能性が高まるということになります。

裁判所の手を離れたら、また、元の木阿弥ではないかと思う方も多いと思います。
しかし、同じことをやったら、また裁判所に持ち込まれるという刷り込みが加害者側にできることも少なくありません。
それは、加害者側にはとても嫌なことと思われます。

なので、調停に持ち込むということが大切になってくるのです。

ただし、代理人をつけずに調停に持ち込んでも、加害者はなめてかかってくるでしょう。
当事者間で連絡をしなければならない場合もあるので、そこを加害者が利用して支配しようとしてくることもあります。

なので、「面会交流DV」というものを理解した代理人を選任したうえで、調停に臨むことが大切なのではないかと思います。


DVの本質は支配です。
支配しようとする者は、利用できるものは何でも利用しようとしてきます。
「子ども」というのは、夫婦間ではある意味ウィークポイントであり、使える道具のひとつです。

弁護士は、そのことを忘れてはならないと思います。





# by terarinterarin | 2021-02-18 16:07 | Comments(1)
(時季に遅れましたが)皆様、あけましておめでとうございます。2021年もよろしくお願いいたします。

さて、大相撲の初場所が10日から始まりました。

私は子供のころからの相撲ファンで、休みの日などに家にいると、相撲中継にチャンネルを合わせています。

今回の場所は、コロナの影響で大変なことになっています。
横綱の白鳳関をはじめ関取16人が感染、濃厚接触などにより休場。
そのため、幕内力士の取り組みがとても少ない状況となっています。
部屋によってはクラスターが発生したところもあり、初場所の開催自体が危ぶまれました。

個人的には、大関貴景勝の綱とりがかかっているのと、興行収入やテレビ放映料を得る必要性から開催したのかな…などと思っております。

そんな中、コロナ休場を認められなかった力士が、引退するというニュースがありました。


この力士は、心臓に持病があり手術したことがあったため、コロナに感染することが恐ろしく休場を願い出たものの、相撲協会側から、「コロナが怖いで休場は通らない。出るか辞めるかだ」などと進退を迫られ、やむを得ず引退したということです。


この協会側の対応には、大きな非難が集まっているようです。


私としても、この対応はかなり問題があるように思います。


まず、そもそも、大相撲は感染リスクが高いスポーツと言えましょう。
マスクを外して、飛沫をガンガン飛ばして濃厚接触するスポーツです。
無症状で感染している力士と対戦した力士の感染リスクは極めて高いと言わざるを得ません。


加えて、力士は、一言でいえば皆さん肥満です
糖尿病などの基礎疾患をお持ちの方も少なくなく、多くの力士が重症化リスクを負っています。
力士だけではありません。親方衆もです。


おまけに若い力士は部屋で集団生活を送っています。
そもそも感染リスクが高い生活をしているということができましょう。


このような状況の中で、「コロナの感染リスクを踏まえて休場したい」という要望が力士から出るのは決して不自然なことでもなければ、単なるわがままでもないと言えます。

個人には、自分の生命を守る権利が当然あります。
その権利を行使することが妨げられるいわれはありません。
まして、先ほども述べたように、感染リスクが高い大相撲の特性上、権利の行使は認められてしかるべきではないでしょうか。


協会側としては、1人1人のこのような要望を聞いていては、場所が開催できなくなるのではないかという危機感を覚えたのかもしれません。
ですが、そうであれば、場所は中止するのが筋ではないかと思うのです。


仮に、この力士が、協会側の説得により引退せずに出場し、その結果コロナにり患したとなれば、どうなるのでしょうか。
もし、相撲関係者からの感染ということになれば、場合によっては、民事上の責任の問題が生じる可能性もあるのではないかと思われます。


先ほど、個人には自分の生命を守る権利があると話しましたが、協会側にも、力士の健康や安全を守る義務があると言えます。
協会のこの力士に対する説得は、このような義務があるということを理解していないことを表しているように思えます。


相撲ファンとして、場所が開催されないことは悲しいことではあります。
ですが、こんな接近戦で、力士はコロナに感染しないだろうかとはらはらしながら取り組みを見るのも、またつらいものがあります。

「コロナが怖いので休場」という言い分が自然に通る、そんな新しい相撲協会になることを望みます。




# by terarinterarin | 2021-01-12 12:59 | Comments(0)
気がつけば前回投稿から2ヶ月ほど経ってしまいました。
今回は弁護士業務や司法の世界とは関係のないことを書こうと思います。

ここ1週間、コロナの感染者が激増しており、春先の第1波を凌ぐ状況となってしまいました。

私は正直なところ、とても戸惑っています。
何故だかよくわからないけれど、とても絶望的な気分になってしまいました。

私自身は、おそらく世間一般の人の中では感染しないようにかなり気を付けている方だと思います。

除菌用のアルコールは常に携帯。
トイレに行くたびに手は石鹸でしっかり洗い、マスクは自宅にいる時以外はほぼ装着。
家に帰ったら、玄関先でまず手をアルコール消毒し、その後に衣服や鞄にブラシをかけて除菌スプレーをしてから靴を脱いで玄関から上がります。
そして、すぐに手を洗い、顔を洗い、それから部屋に入る。

帰宅途中でスーパーやコンビニで買ってきた食品のパッケージも、アルコールで消毒するほどです。

夜遊びは3月頃から一切していません。

なのに、ここまで感染が広がってしまった。
年齢的にも、そして喘息という疾患を持っていることからしても、私の場合、コロナに罹患すれば軽症では済まないでしょう。
後遺症も怖い。
なのでここまでしています。

なのに、世の中はコロナの危険だらけのように思えます。絶望的です。

私のような絶望的な気分になっている人は少なくない。そう思います。

しかし、この絶望的な気分を、ただ絶望的だと言って放置しておいても、自分が辛くなるだけです。

そこで、何故自分はそんなに絶望的になっているのか、ということを、ちょっと掘り下げて考えてみました。

最大の理由は、「自分のこの先の行動や活動の基準がわからない」ということだと、思い至りました。

つい最近までは、感染対策さえしっかりしていれば、制限的ではあっても、ある程度自由な行動をしても問題ない。
そう思っていました。

しかし、感染者激増とともに感染経路不明者も増えている昨今では、市中感染も進んでいると考えざるを得ず、ここまで対策をとっていても、いつ感染するかわからない。
果たして、自分の行動スタンスは正しいのか、大いなる疑問が湧いてしまいます。

最大の感染対策は、家に引きこもっていることでしょう。
ウィークデーは仕事があるため、それは難しいですが、休みの日は家にいる。
それが正しいということになるのかもしれません。

しかし、それでは自分の楽しみというものが奪われてしまいます。
謳歌したいことが謳歌できなくなってしまう。
今ですら、ある程度自粛的に生活していて、心を縛られている状況であるというのに、感染を防ぐためにさらに自粛しなければならないのか。
そう思うと、とてもやりきれなくなってしまいます。

政府の無策にも腹が立ちます。
この感染者激増のご時世に「経済と感染対策の両立」をうたい、呑気にGOTOキャンペーンは継続します、と言い放つその姿勢には、単純に「今そんなこと言ってる場合か」と憤りを覚えます。

ですが、だからといって、緊急事態宣言を出して欲しいかというと、そうではない。
あの独特の閉塞感は、自分はもう耐えられないだろうと思います。
これはあくまで想像ですが、仮に今後緊急事態宣言を出しても、強制力がない限り、従う人は、第一波のときより少ないのではないかと思います。

自分はどう行動すればいいのだろう。
どうするのが正解なのだろう。
日本という国が感染対策と行動の自由、経済の自由の間で揺れているように、私自身も感染対策と「自分らしく生活したい」という思いの狭間で揺れている。
そんな状況なのです。

ネットニュースのコメント欄を見ると、無策の政府に対する批判が高まっているのが分かります。
しかし、私のこの気持ちが決して少数派ではないという仮定に立つと、それらの批判的コメントの本心は、「自分たちが行動するための基準を示してほしい」ということなのではないかと考えられます。

おそらく、GOTOを継続しても、緊急事態宣言を出さなくても、具体的に、このように行動してください、これはしないでください、あれはああしてくださいということを政府が示すのであれば、多くの人が安心し、閉塞感や緊張感、不安感が和らぐのではないか、そんなふうに思うのです。

そういう意味で言うと、結局私も「お上に、頼れる何か言って欲しい」という、下僕のような人間なのかもしれません。

ただ、結局、自分の身は自分で守るしかない。
そして、自分の自由は自分で守るしかありません。

今の私にできることは、今以上に感染対策ができないかを検討して可能なものを実行し、その上で、自分らしい生活を実践していくことなのだろうと思います。
これは、私だけでなく、結局、誰にとっても同じことなのかもしれません。

ただ、やはり、参考になる何かは欲しい。
政府にそれが期待できないなら、どうかマスコミの皆さん、医療関係者をはじめとする専門家の皆さん、私たちの行動の指針となる具体的な基準を、どうかお示しください。

コロナ禍を生きる一般市民の切なる願いです。



# by terarinterarin | 2020-11-20 14:41 | Comments(0)
すっかり秋めいてきた今日このごろです。

昨今、弁護士業界も、多かれ少なかれ、コロナの影響を受けています。
裁判所が緊急事態宣言下でクローズし、再開後も事件によっては期日が入りにくい状況であったり(私など、まだ裁判所から再開の連絡が来ていないものが1件あります。訴外和解に期待されているのでしょうか)、会務がオンライン中心になったりといったことが挙げられます。法律相談の実施方法も、オンラインを導入するなど、様変わりしたところもあります。

そんな中、ここ最近、改めて弁護士広告というものについて考えています。

最近は、書店に行っても、フェイスブックなどのSNSを見ても、「士業の広告戦略」セミナーみたいなものが出回っています。
真剣に見ていないので、そういったものがどういう広告戦略を推奨しているのかはわかりませんが。

今は、事務所ごとにウェブサイトを持つことは当たり前の時代になりましたし、フェイスブックサイトを持っている事務所もちらほらあります。最近ではyoutuber弁護士もいるほどです。テレビコマーシャルを導入している事務所もいくつかあります。

これらの広告戦略の根本的な発想は、「多くの人に事務所、弁護士を認知してもらう」ということだと思います。
広く認知してもらって、なにか弁護士に相談したいときに思い出してもらい、来てもらう。紹介してもらう。
そういうことを狙った広告なのでしょう。

これらはおそらく広告の王道なのだと思います。
が、費用対効果という点で正解なのかと言われたら、必ずしもそうではないのかもしれないとも思うのです。

インターネット、SNSというものがここまで普及した世の中になれば、人々が「必要な情報を探す」ことも、容易になっているはずです。
つまり、広告としては、必ずしも広く網をかけなくても、自分に必要な情報を探している人のところに、事務所や個々の弁護士の情報が届くようにしておけば、依頼は来るのではないかと思うのです。
そして、そのために必要なことは、情報の蓄積です。

このように考えたのは、自分のことをふとした時に振り返ってみたことが発端でした。

私は、リーガラスというサイトで広告を出している他、自分のウェブサイトを持っており、そして、このブログを書いております。
緊急事態宣言中は、開店休業気味だったこともあり、なかなか話のネタがなく、ブログの更新も滞っておりました。そのためウェブサイトを更新するネタもなく、そちらの更新も滞っておりました。
さらに、リーガラスの方は、日々の業務に追われたりして、なかなかQ&Aへの質問に回答できないということが続いておりました。

しかし、そうであるにも関わらず、ウェブサイトやリーガラス経由でのお問い合わせは、途切れずに続いています。
お問い合わせの末、ご相談にいらした方に「何で知りましたか」と伺ってみると、ブログを読んで、とかリーガラスのQ&Aを見てとお答えになる方がほとんどなのです。

このブログのアクセスは、特に多いものではありません。
ここ最近は、爆発的なヒットを記録した投稿もありません。

そうであるにも関わらず、ブログを読んで、ウェブサイト経由で私にたどり着く方がいるのです。
リーガラスの私の回答を見て、問い合わせをしてみようという気になる方がいるのです。

そこで私は思いました。

多くの人を対象にして、広告を広げる必要はない。
自分を必要としてくれる人は、今のこの時代、自分のところにたどり着いてくれる。
自分がしなければならないことは、自分にたどり着いてもらえるように、ウェブ上に痕跡を残し、その痕跡に引っかかるための棘のような発信をすることではないかと。

つまり、今まで自分がやってきたことは間違いではないということがわかりました。
そして、今後さらに自分を必要としてくれる人が自分にたどり着きやすくするために、引っかかる棘をどう作るかを模索していくことが必要ではないかと思うに至りました。

広告戦略と言うと、広告のプロが広く流布していることが正しいと思いがちです。
もちろん間違ってはいないでしょう。
しかし、それが自分にマッチしているのか、「今」にマッチしているのかは、自分なりに咀嚼して取り入れる、取り入れないを考える必要があると思いました。

私はこれからも私なりのやり方で、私を認知してもらい、私を必要としてくれる方にサービスを届けたいと思うのでありました。


<<追伸>>

新たなサービスを始めまして、ウェブサイトに掲載しております。
ご興味のある方はウェブサイトをご覧の上、お問合せフォームからご相談ください。


# by terarinterarin | 2020-09-22 18:16 | Comments(6)
先日、乙武洋匡さんが離婚した元奥様との間のお子さんとの面会交流調停を起こしていたことについて、報道がなされました。



記事によれば、申立がなされた後、裁判所の調査官による調査が行われたものの、お子さん方が乙武さんに会いたくないという意思を表示し、乙武さんは申し立てを取り下げたとのことです。


別居中あるいは離婚した夫婦の間のお子さんについて、別居親が会いたいと望んでも、お子さんのほうが会いたくないという意思を表示することは少なくありません。
その場合、同居している親は、多くの場合「子どもが会いたくないというのであれば無理に会わせるわけにはいかない」と判断して、面会の求めを断ります。
そこであきらめてしまう別居親も少なくありませんが、一定数は、お子さんとの面会を求めて家庭裁判所に調停を起こします。
これがいわゆる「面会交流調停」と呼ばれるものです。

このようなケースで調停が行われる場合、「お子さんが会いたくないって言ってるそうですからねえ」という理由で簡単に調停が終わることはありません。
何らかの形で面会交流を実施することができないか、現時点で実施できないにしても将来的に実施する「目」を残しておくことはできないかという観点で、裁判所は様々な調整を試みます。
なぜなら、面会交流というのは別居親の権利であり、また、子どもの「会いたくない」という言葉は額面通りに受け取ることができないと一般的には考えられるからです。

裁判所の上記のような考え方はかなり強固なもので、例えば別居親がDV親であったとしても、また、子に対して虐待を行っていた親であったとしても、「本当に子どもは親を拒絶しているのか」という視点で考えようとします。

家庭裁判所の調査官の調査は、そのような観点から、両親のインタビュー、家庭訪問、子に対するインタビューなどが行われ、最終的に「調査報告書」という形にまとめられます。
この調査報告書は「会わせるべき」「会わせるべきではない」などと結論を明示していないことが多いですが、実際にはこれをもとに、「こういうスタイルでこうこうしてはどうだろう」などという提案が調査官からなされることも多く、これを機に最終的な調整がなされて調停成立という段取りになることも少なくありません。


面会交流調停は数多く経験していますが、お子さんが別居している親御さんに会いたくないと強く言っている例でも、あらゆる意味においてお子さんと別居親がノーコンタクトという事例は、私個人は経験したことがありません。


現時点で直接的な面会は実施しないにしても、将来的に子が会いたい、会ってみてもいいかなと思ったときに、会う段取りが取れるように何らかの道筋をつけておくことが多いと感じます。


それは両親と子ども3者の意思の間をとった解決とばかりもいえず、子が将来、別居親を完全に拒絶し、関係性を永続的に絶ってしまったことについての傷を負わないようにという配慮、もう少し言えば「親が恋しい」と子が感じるときのための念のための準備をとっておこうという考え方に基づくのではないかと私個人は思っています。


もちろん、私が担当してきた案件の中には、「この件でそこまで面会交流の将来的な実施にこだわる必要があるのだろうか」と当時思われたものもありました。
ですが、今そういう案件を思い返してみると、「あの時の調停の約束は今もまだ守られているだろうか」、「あの子は親に会っただろうか」と考えることもあります。


離れてしまった親子の関係をどうやって継続していくかということを調停の場で話し合うことは、遠い将来を見据えると意義深いものなのだろうと思います。


報道によれば、乙武さんの息子さんたちは乙武さんに対する拒絶感が強く、会いたくないという意思をはっきり表示していたとのことです。
調査官の調査が行われたようなので,このお子さんの「会いたくない」という意思についてどのような評価がされたのかが非常に興味深いところです。
ある程度年長のお子さんの意思表示なので、調査の場でもそれなりに言葉自体が尊重されてしかるべきとは感じるものの、一方で多感な年齢のお子さんの意思表示でもあり、言葉の裏には複雑な思いが隠されているのではないかという気がします。


乙武さんがどのような理由で調停を取り下げたのかは情報がなくわかりませんが、このまま取り下げずにいたとしたら、どのように調整されたのか興味深いところでもあります。


乙武さんの家庭での振る舞いについては芳しくない評価も少なくありませんが、調停の世界では、どんな親も親に変わりはないのです。
調停を起こしたということは、乙武さんも「親」として何らか子に関わりたいというお気持ちがあったことは間違いないでしょう。
そして、そういう気持ちは、一度家族というものを持ったことがある人であれば、誰しもが持ちうる感情ではないかと思うのです。


実務をやっていれば、案件によってさまざまなことを思い、考えます。
必ずしも一般論どおりに代理人としての活動をするわけではありません。

ですが、少なくとも今回の乙武さんの件について、外野が、調停を起こしたこと自体がそもそもおかしい、というような論調で記事を書くのは、ちょっと違うのではないかと思うのでありました。








# by terarinterarin | 2020-08-31 16:08 | Comments(1)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terabayashi