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とってもご無沙汰しております。

今晩から関東は台風直撃。
私は明日は仕事で1日外に出ずっぱりなので、朝には台風が去って行ってくれればと願っている次第です。

さて、ともえ法律事務所を閉じて北千住パブリック法律事務所に移籍して、はや10か月目に突入しました。
現在19名の弁護士、事務局(産休中含め)常勤9名が在籍しております。

こんなに?大きい事務所に来たのは初めてで、当初は、主に事務局に対する指示の出し方などに戸惑っておりました。
が、今はおおむね慣れて、(自分的には)スムーズに仕事ができております。

北パブ、重たーい事件が多いので、ほぼほぼ全員が深夜遅くまで仕事しているんじゃないか、土日もなく働かねばならないのではないか、などと実は入所する前、戦々恐々としておりました。

が、実際にはそんなことはありませんでした。
もちろん、公設事務所も昨今は「利益」を求められるようになってしまったのではありますが、業務管理は常識的な範囲内で(ここ大事)個々の弁護士に任されており、お陰様で、まあまあマイペースに仕事ができております。

いやもちろん一人でやっていた時とは比べ物になりませんが…
以前がマイペースでやりすぎていたという話もありますので…
苦になるようなことはありません。

常々、弁護士の労働環境は「ブラックそのもの」と言われております。
確かに、業務の性格上、ある程度の長時間労働や休日出勤を余儀なくされることはままあります。
そして、それを残業代という形で評価してもらうことも企業内弁護士以外はほぼほぼないでしょうから、ブラックといえばブラックかもしれません。

しかし、「いざっていうときに四の五の言わずがっつり働かねばならない」世界だからこそ、常日頃は、ワークライフバランスを大切にして、過剰な長時間労働は避けるべきだと私は考えております。

新人などは要領もよくないので、顧客に顔向けできるレベルの書面等を作成するにあたり時間がかかるのは仕方なく、したがって、ベテランに比べて業務時間が長くなりがちなのは仕方ないでしょう。

ただ、「自分、夜中まで頑張ているんだよ」などと、自らのブラック労働状態を自負したり、ちょっと自慢したりするのは、全くいただけないと思うのであります。

夜中まで仕事しているのが、忙しい弁護士であることの証左、ステイタスにつながるなどという考え方は間違っています。
それは、自分が仕事が遅い弁護士であることを露呈しかねないものです。

人間らしい時間帯に人間らしい長さの睡眠がとれるように仕事時間を調整して働くということは、特殊なシフト制の仕事を除いて、社会人としてあるべき姿なのではないでしょうか。

夜中仕事をしているために睡眠時間が削られてしまうのであれば、いつか心身の健康を大きく崩します。
昼夜逆転することになれば、他の弁護士や事務局とのコミュニケーションが取れません。

いずれにせよ、仕事に大きな支障が生じるのです。

自らのブラックを自負しがちな世界なんて、弁護士業界くらいしかないのではないでしょうか。

「もう、そういうのは古いからやめようよ」なんていう人がずいぶん前からいるように思うのですが、未だに生息していますよね、そういう人。

こんな弁護士が労働問題を担当するなんて、それこそブラックジョークだよな、などと思うのであります。



# by terarinterarin | 2019-09-08 17:36 | Comments(0)
超お久しぶりです。
東京は、じめじめとすっきしりない天気が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

さて、去る7月8日、NHKのあさイチで「ビックリ!生理の新常識」という特集をやっていました。
↓これです。
https://www1.nhk.or.jp/asaichi/archive/190708/1.html

多少デリケートな話になりますが、生理の悩みを持つ女性はかなり多く、仕事や日常生活に差し支える症状が生理中や生理前に起こる人は少なくありません。
しかし、日本では、女性の生理のことは大っぴらに話してはいけないことと認識されているようで、大変な思いをしている個人が、その悩みを誰にも打ち明けることができず、一人で抱え込むということも少なくありません。
生理の負担は、体の負担に限られず、心の負担にもなるのです。

この日、あさイチで紹介された「生理の対処法」は、極めて斬新で進歩的で、女性の心身の負担を極めて軽減できるもので、タイトルにもある通り、「ビックリ!」でした。
例えば、生理の回数を年数回にしてしまうことができる新しい低用量ピル(種類は複数あります)。
子宮内に埋め込むタイプのホルモン薬(一度入れてしまえば、5年ほど放置でき、生理なしで暮らせます)。
プールや温泉もOKのシリコン製の月経カップ。

実は私は子宮内膜症をかつて患っており、弁護士になる少し前から低用量ピルを服用しておりました。
年齢が高くなってきたため、体に負担をかけないように、数年前からは、超低用量ピルに切り替え(年数回しか生理が来ないもの)、5月に服用をやめたところです。服用をやめたのは、日本の基準では、ピルの服用は50歳以上は禁忌となっているからです(血栓のリスクが高くなるのだそうです)。*6月で50歳になりました*
ピルを服用するようになったのは、子宮内膜症の治療のためという目的もありましたが、それ以外にも、生理ごときに自分の仕事を煩わされたくないという気持ちがあったからでした。
服用しているおかげで、今まで、生理のために仕事中つらい思いをしなければならないということがありませんでした。
私にとっては、ピルはまさに恩人、「神の薬」ともいえる存在でした。

しかし、ピルをはじめとするホルモン治療には「自然に逆らう」「生理はつらくて当たり前なんだから我慢して当然」という偏見がまだまだ強く、私のように「仕事に邪魔になるからコントロールしてしまえ」という考え方は、少なくとも今までは少数派でした。

あさイチの特集で紹介された様々な薬やグッズは、徐々にではあるけれど、そのような偏見が少なくなってきていることを表しているように思いました。
「自然に逆らう」「生理はつらくて当たり前なんだから我慢して当然」という考え方は、女性に対して、女性であるが故の悩みを押し付けるもので、そのためにしたいことができない、あきらめなくてはいけないという状況に女性を追い込んでしまいかねないものです。
つまり、女性の生理の負担を軽くするグッズや薬の進歩は、女性を女性であるが故の悩みから解放し、もっと自由に、もっと羽を伸ばして暮らすチャンスを広く与えることを可能にするものなのです。

私は、あさイチのこの特集を見て、もっと早くにこんな素敵なものがあれば、自分の苦しさはもっと軽減されていただろうなと思いました。
そして同時に、若い女性の皆さんには、こういう薬やグッズと上手に付き合ってほしいと心から思いました。
心身の負担から解放されて、仕事でも、遊びでも、子育てでも、自由に楽しんでほしいと思いました。

ネックになるのは、通院の負担や価格設定ではないでしょうか。
ピルに関しては、保険適用になるようですが、それでも決して安いものではありません。
また少なくとも数か月に一度は通院しなければならず、そのあたりのわずらわしさもあります。実は、このわずらわしさが偏見のもとになっているようにも思うのですが…

私の場合は、ピルを飲んでいれば半強制的に婦人科のがん検診を受けることになるので、健康管理にちょうどいい、くらいの意識でいましたが。

病院によっては、ピル処方に関しては2回目以降ネット受診でOKというところもあるようです。
このような柔軟な対応が広がれば、もっともっとピルは広がり、ハッピーに暮らせる女性も増えるのではないかと思います。

女性の権利を声高に叫ぶことも必要ですが、実はこういう体の問題を解決することも、女性が社会に出ていくためにはとても大切なことなのです。





# by terarinterarin | 2019-07-18 18:15 | Comments(1)
*今日のブログはかなり長いです…*

かねてより話題になっている上記判決、やっと時間ができて分析することにしました。

なお、私が分析するにあたって参照にしたのは、奥村徹弁護士が全文掲載したブログ記事です(一旦削除されましたが、2019年5月18日付で再掲載となっております。掲載にあたっての法的問題をクリアされたうえでのものと認識しております)。

→http://okumuraosaka.hatenadiary.jp/entry/2019/05/18/105015

1 起訴された事実
 詳細は避けますが、この事件で起訴されたのは、平成29年8月12日及び同年9月11日の2回の性交です。これ以前の過去の性交については、経緯としてあるいは「抗拒不能」の要件を満たすかという判断に必要な事情として記載されていますが、そもそも検察官が起訴していない(=有罪認定して処罰する旨を裁判所に求めていない)ということを、まずは皆さんにお判りいただきたいと思います。
 
2 ポイントその1:「抗拒不能」の解釈
 今回の事件で被告人が無罪となった1つめのポイントは、なんといっても「抗拒不能」という概念だったと思われます。
準強制性交等罪の趣旨及び「抗拒不能」概念の解釈について、この判決は、従来の裁判所の立場を踏襲して、概要、以下のように述べています。

「刑法178条2項は、意に反する性交の全てを準強制性交等罪として処罰しているものではなく、相手方が心身喪失又は抗拒不能の状態にあることに乗じて性交した場合など、暴行又は脅迫を手段とする場合と同程度に相手方の性的自由を侵害した場合に限って同罪の成立を認めているところである。」
「同項の定める抗拒不能には、身体的抗拒不能と心理的抗拒不能とがあるところ、このうち心理的抗拒不能とは、行為者と相手方との関係性や性交の際の状況等を総合的に考慮し、相手方において、性交を拒否するなど、性交を承諾・認容する以外の行為を期待することが著しく困難な心理状態にあると認められる場合を指すものと解される。」

この解釈は、「抗拒不能」という文言自体や、暴行脅迫を手段とする準強制性交等罪と法定刑が同じであることから考えて、決して不当なものではなく、裁判所としては、ここから逸脱して解釈を拡大することは不可能だったといわざるを得ません。

3 ポイントその2:事件前の被告人の暴行と娘の抵抗や行動
 今回の判決では、被告人が娘に対して、長年に渡り暴行や性的虐待を行っていたことが認定されています。その認定は、非常に詳細なもので、暴行の強度や頻度、娘が嫌がったり抵抗した場合の被告人の対応などについても、直近のものだけではなく、過去に遡ってなされています。また、判決を読む限り、これらの事実の認定は、娘の法廷での証言に基づいてなされているものと考えられます。

 まとめると、
・被告人の娘に対する暴行は小学生のころから始まったが、中学生になるとその頻度は小学生の頃より少なくなった。
・被告人による娘への性的虐待は娘が中学2年生ころから始まった。高校を卒業するまで、週1,2回の頻度であった。
・娘は、抵抗していた。
・娘が専門学校に入ると、性交の回数は週3,4回に増加した。
・娘の抵抗の程度は従前より弱くなった。
・H28に娘は弟らに性的虐待を打ち明け、同じ部屋で寝るなど対策をとったところ、性交はしばらくなかったが、H29に同じ部屋で寝るのをやめると再開された。
・H297月後半から8月11日までの間、就寝中に性交されそうになった際、娘が抵抗したところ、被告人が殴る踏みつけるなどの暴行を行うなどするが、結局性交はしなかった。
・娘がそれ以前にも大声で「嫌だ」と強く拒んだ際にも、被告人から暴行を受けたが執拗なものではなかった。
…というのが主要な事実かと思われます(学費負担などに関する記載は補充的なものと考えられるため、割愛します)。

 上記の事情は、被告人の娘に対する暴行や性的虐待は長年に渡り継続反復されてきた根の深いものであることを表すと同時に、娘がそういった父親の自身に対する異常な行為に対して嫌悪感を抱いて、(どの程度のものであったかはさておき)時にはノーという姿勢を表してきたこと、そのこと自体を娘自身が自認していることを表しているものといえます。

4 ポイントその3:娘に対する精神鑑定の内容と裁判所の評価
ア 娘の本件当時の精神状態について精神鑑定を行った医師は、「被告人による性的虐待等が積み重なった結果」娘において「被告人には抵抗ができないのではないか、抵抗しても無理ではないかといった気持になっていき、被告人に対して心理的に抵抗できない状況が作出された」旨、法廷で証言しており、この証言について裁判所は信用性を認めています。
 ですが、裁判所は、娘が「抗拒不能の状態にあったかどうかは、法律判断であり、裁判所がその専権において判断すべき事項である」として、精神鑑定の結果は娘の「精神状態等を明らかにする限度で尊重されるに止まり」、娘の「抗拒不能に関する裁判所の判断を何ら拘束するものではない」としました。
 この点は、一般の方にはわかりにくいと思いますが、要するに「医師が鑑定した結果、事件当時、娘が心理的に被告人に抵抗できない状況にあったことはわかったが、だからといって、その状態が、準強制性交等罪の「抗拒不能」の要件を満たすかどうかは別な問題であって、その点は、裁判所が判断すべき事柄だ。」ということです。

 この部分の記載は、被告人の責任能力が争われている場合にも裁判所がよくするものであって、特段珍しいものではありません。医師の診断結果が、即法律上の概念に判断されるわけではないというもので、個別の事件で、「この鑑定結果でこの法的判断はないだろう」と思うことはあれど、一般的にはおかしなことを言っているわけではない部分ということになります。

イ また、鑑定医は、娘が「本件各性交時において離人状態に陥っていたと推測できる」と述べていた点については、裁判所は、本件各性交時の娘の記憶が比較的よく保たれていることや解離性障害の程度に関する心理検査が実施されていなないことから、「離人状態にまで陥っていたものとは判断できない」としていますが、「推測」として述べられた評価を、裁判所が他の根拠もないのに認定の基礎事情にすることができないことは当然のことといわざるを得ないでしょう。

5 ポイントその4:被告人の供述調書の取り扱い
 被告人は、捜査段階で供述調書を作成されており(なんで黙秘させなかったのかが疑問です。当該事案はどう考えても黙秘事案です。もっとも、被告人のキャラクターが黙秘向きではなかったのかもしれませんが)、供述調書中には、被告人が娘の抵抗不能状態を自認していた旨などが記載されていた部分があります。
 しかし、法廷で捜査段階の取調を録音録画したDVDを検討した結果、「同供述部分に対応する被告人の供述が見当たらないか、取調べを担当した検察官が問いただした内容に対して被告人が明示的に否定しなかったことをもって被告人が明示的に否定しなかったことをもって被告人が供述したかのような内容として記載されていることが確認できる」として、証拠として採用されませんでした。
 被告人の供述調書は、娘の心理状態やこれに対する被告人の認識を示す大きな証拠だったはずですが、裁判所が認定した取調状況を前提とすると証拠採用されないのは当然のことと考えざるを得ません。

6 判決に対する私見
 以上、今回の無罪判決のポイントとなった点と思われる部分を4つほどピックアップして、それぞれ検討してきました。
そのうえで、今回の判決については、立法論云々の前に、「捜査段階、公判段階における検察官の活動に問題があり、これが無罪判決につながった」といえるのではないかと考えます。

ア まず、捜査段階の問題として、被告人の供述調書の「捏造」が挙げられると思います。5で記載した部分です。
 実は、この程度のことは、捜査段階で結構な頻度で実施されていることであり、要するに供述調書は、捜査機関にとって「被告人による署名捺印さえもらえればそれでOKの、警察官や検察官による作文」でしかないのです。今回の起訴検事(捜査を担当し起訴をした検事。岡崎支部だと公判を担当した検事と異なるのではないかと思います)もまた同様の認識で、詳細な被害者の供述調書があり、これに沿う被告人の供述調書も作文できたことから、「抗拒不能」及び「これに対する認識」について、(鑑定書もあることだし)問題なく公判で立証できると安易に考えて起訴してしまったのではないかと思われます。DVDに取調べを録音録画していることを軽く見すぎだと言わざるを得ません。
 つまり、無罪判決のベースは、すでに捜査段階にあったといっても過言ではありません。
(ただ、逆に言えば、先ほども述べた通り、捜査段階で黙秘を貫いていれば起訴されること自体がなかったのではないかと思われ、弁護人サイドとしてはいかに捜査段階での対応が大切かを改めて感じざるを得ません。)

イ また、公判段階では、鑑定意見に頼りすぎたことが無罪判決が出た大きな要因だったと思われます。
 娘の証言自体から、事件に近い時期も含めて、その時その時で被告人に抵抗していた事実や事件当時の記憶が比較的よく保たれている事実が表れているのですから(注:記憶の問題に関しては、あくまで裁判所の認定を前提とすることになりますが)、鑑定事案を扱ったことがある法曹であれば、到底この状況をもって「離人状態であった」という評価はされないとわかるわけですし、「抗拒不能」という要件にはとても当てはまらないということもわかります。また「離人状態」については、あくまで医師の「推測」の域を出ていなかったという事情もあります。
 そうであるにもかかわらず、鑑定意見に依拠して「抗拒不能」を立証しようとしたというのは、検事の公判活動として大きな間違いだったのではないかと思います(もっとも、公判検事と起訴検事が別な場合、公判検事は起訴検事がやった「無理筋起訴」の尻ぬぐいをしなければならない立場にあります。もしかすると、公判検事は、アに書いた被告人供述調書の問題点に気づき、「抗拒不能」要件について、苦肉の策として鑑定意見に依拠するという方法をとったということもありうると思います)。

ウ この事案は、現在は監護者性交罪が適用される事案であり、事件当時は当該条文がなかったことから、検察官としては対応が難しかったものと思われます。だからといって、この事案で「抗拒不能」を要件とする準強制性交罪というハードルが高い罪名で有罪を狙うのは、対応として不適切だったのではないかと思われます。

 ただ、捜査状況を知らない私の勝手な感想なのですが、むしろ、8月の1件に絞って、「強制性交等罪」で起訴するということは考えなかったのか、という疑問があります。
 判決を読む限り、8月の事件の直前には、(少なくとも)強制性交未遂があり、その際に相当程度強度な暴行が加えられています。脅迫的な文言もあります。娘の体にはあざも残っており、弟らがそのあざを見ています。この1件に絞れば、あるいは、強制性交等罪にいうところの「暴行脅迫」が認められた余地があるのではないか、などと考えました。
 むしろ、9月の分も含めて、「心理的抗拒不能」に基づく準強制性交等罪で起訴(8月の件も訴因変更)してしまったために、8月の件1本に絞っていれば、「強い事実」として使えたかもしれない直前の暴行等が使えなくなってしまった。そういう問題があるようにも思われました。

7 控訴審はどうなるか?
 一般論としては、高裁で判断が覆る可能性は残されています。
 私としては、今回の件は、検察官の対応がまずかったために無罪になったといえる事案であると思います。したがって、検察官の追加立証や訴因変更等次第で、判断が覆る可能性があるのではないかと思います。
 インターネットに寄せられている弁護士のコメントを見る限り、「微妙な事案の微妙な判断で、裁判官次第で有罪になる可能性がある」という意見が多かったように思いますが、判決全文を読み込んでいくと、そのような感想にはなりませんでした。
 実際には証拠を見ないと分かりませんが、一審判決を読む限り、この件では、起訴された事実に対して、準強制性交等罪は無罪とされざるを得なかったのではないかと考えます。

8 最後に
 この判決には大きな抗議の声が上がり、裁判官をつるし上げて罷免を求める活動まで起こりました。しかし、改めて判決を読むと、裁判官が非難される事案では全くもってないと強く感じます
 むしろ、この判決は、結論こそ無罪ではあるものの、「裁判所」として、被告人による長年の暴行や性的虐待の事実を認定しました。それだけに、被害者や同様の立場に置かれた人からは「ここまで認めておきながらなぜ無罪なんだ」という気持ちが沸き上がったことと思います。しかし、それが刑事裁判というものなのだとしか言いようがありません。
 最初にも書きましたが、今回「有罪か無罪か」の判断の対象となっているのは、あくまで平成29年8月と9月の2回の性交だけであり、それ以前の暴行や性的虐待は判断の対象になっていないのです。そして、この事実だけをピックアップして「有罪か無罪か判断してくれ」と設定するのは検察官の仕事です。裁判所は、検察官が設定した判断対象に対して「準強制性交罪としては有罪とはいえない」と判断したに過ぎないのです。

 裁判所が、過去の暴行や性的虐待について詳細に事実認定したことには、大きな意味があるでしょう。
 まず1つは、(どうも被告人は当時生活保護受給者で、経済的には余裕がなさそうなので、実際には意味がないかもしれませんが)この判決をもって、損害賠償請求が可能となるということです。もちろん、幼少期のものを含めて請求できるかどうかについては、継続的不法行為が成立するか(時効の問題をクリアできるか)といった問題はあります。が、今回無罪になったものも含めて民事上の責任が肯定されるに足りる事実が認定されたのは大きいことではないかと思います。

 2つめは、家族の関係も含め、このような事態をなぜ誰も防げずに長期化させてしまったのかということが「公的な」資料として残ったということです。今回の事案は、決して性虐待事案では珍しい話ではないでしょう。行政機関レベルでは、事情聴取に基づく様々な資料があることとは思いますが、それらが表に出てくることはほぼないといっても過言ではありません。この判決は、そういう「実はよくあるけれど公開される資料としては残りにくい」というケースで、「公開の判決」という形で残すことができたという意味で、大きな意味があると思います。

 今後、今回のような事案について処罰ができるよう立法の動きが活発になってくると思います。
 しかし、先にも見た通り、今回の件は「処罰の間隙の不幸な事案」だとは、必ずしも思いません。また、拙速な立法は、かえって不都合を生むと思います。それはもしかすると、思ったよりも処罰できる範囲が狭いという被害者側の不都合かもしれませんし、えん罪の危険が拡大するという刑事司法の根幹にかかわる不都合かもしれません。
 拙速に不十分な立法をするのではなく、「どうして無罪判決が出たのか」「どうして気付かれない、対策がされない性虐待事案が蔓延するのか」を検討していくことが必要なのではないかと考えます。

長文失礼しました。


# by terarinterarin | 2019-05-19 21:16 | Comments(0)
批判大好きな人間たちが
我が物顔で振る舞う場に成り下がった
ツイッター

岡口裁判官が、前回の私の記事を読んで、このようなコメントをされていました。

確かにその通りです。
なぜ、そうなるかというと、批判が同調を集めやすく、承認欲求を満たしやすいからです。 
敵の敵は味方、の原理です。

自分自身も、遅くとも性犯罪無罪判決批判騒動のあたりからは確実にそうなっていました。

あるコメントを批判して、いいね!をいっぱいもらうと、自分に賛同している人がそれだけたくさんいる気になります。

ツイッターを見る目が、叩きやすいツイートを探す目になります。
おそらく私を敵視していた人は、私のツイートの粗探しに夢中になっていたことでしょう(140字の作文なんて粗だらけに決まっていますが)。
こいつのツイートなら粗が探せると思うと、ツイートした人間すら覚えていない過去ツイートをほじくり返して叩いて吊るし上げるようになります(私はそこまでせずに済みましたが)。

自分も含めて、ツイッターが批判や晒しで同調を集める場になっていることを、性犯罪無罪判決批判騒動はよく表していたように思います。

批判ツイート以外で支持が多かったのは鵜飼裁判官の吊るし上げツイートか、新潮記事の拡散ツイートくらいではなかったかと思えるほどです。

少なくとも今のツイッターの世界で、ポジティブなツイートでたくさんの支持を集めるのは、すごく難しいと思います。
ポジティブなメッセージで多くの賛同を得られるのは、一芸と言っても過言ではないでしょう。

そういうツイッターの世界に嫌気がさして、ツイートを止める人が、今後増えてくるかもとも思います。
既にそういう現象は始まっているかも。

最近、女子高生の間ではツイッターではなく、インスタグラムのストーリーズを使うのが流行ってきているんだとか。

言い捨てても残ってしまうツイッターよりも、24時間で消えるインスタグラムのストーリーズに魅力を感じているのだそうです。

ツイッターに最終的に残るのは、どんな人たちなんだろう?
叩き合うことに生き甲斐を感じる人ばかりになるのかな?

SNSといえばツイッターという時代?が終わるのは、案外もうすぐかもしれません。




# by terarinterarin | 2019-05-06 19:37 | Comments(3)
ツイッターの、自身のアカウントを削除しました。

例の性犯罪無罪判決騒動の折、私の発言を巡ってツイッター内は大炎上、名指しで批判されることが日常的な状況が何日も続きました。

そんな中、とある弁護士に、理性的な会話が成り立たない、人として問題があるという侮辱的なツイートをされました。
その弁護士は実名でツイートしている弁護士で、どうやら私のことが気に入らなかったらしく、ちょいちょい批判していたのを目にしていました。

あからさまに名誉毀損的なツイートをされて、思いました。
こんなこと言われてまで、ツイッターの世界で頑張る必要なんかないのではないか。
自分は、現実に目の前にいる依頼者、相談者の言葉や姿をリアルなものとして捉えて生きていくべきではないか。

一介の弁護士でしかない私の発言をヤッキになって潰そうとする同業者やライターが、滑稽に思えました。
そういう人たちの言うことにいちいち反応している自分が、つくづくアホらしくなりました。
それで、アカウントを消すことにしました。

アカウント削除しないでと言ってくださった方が何人もいましたが、削除して本当に良かったと思っています。
ツイッターの世界って、怖いなあと思いました。

ツイッターの世界の中で自分がやりとりしているのは、ほんの小さな世界でしかないはずなのに、いつしかそれが、リアルに自分の目の前に広がる日常の世界に思えてきます。

そこでの出来事が一大事に思えるのです。

いいね!や、反応が多くなればなるほど、支持者が増えていく錯覚にとらわれ、どんどん承認欲求が高まります。
自分がいいこと言ってる気になってきます。

離れてみて、気がつきました。

もちろん、そういうことを全て理解した上での付き合い方があるのだろうとは思いますが、直情型の私には、向いていないように思います。

アカウント消して、今は清々しています。

もちろん書くことは好きなので、このブログは今後も続けていきます。
これとは別に、気軽に書けるショートショートの気分でアメブロも始めました。

自分のオピニオンを出しながら、ストレスなく、そして自分らしく依頼に向き合って、これから仕事していこうと思います。

SNSに疲れてるみなさん、疲れたら、やめ時ですよー。

追記:2019/5/6

私をツイッター上で人格攻撃した弁護士には、その後ツイッターで謝罪してもらい、事態は解決済みです。
記載し忘れておりましたので、追記します。



# by terarinterarin | 2019-05-05 21:34 | Comments(0)
*このブログは、私の私見であり、私が所属するいかなる団体(所属事務所含む)と関係ないことをあらかじめ申し上げます。

前々から気になっていたものの、この1週間「被害者」という名の下での横暴なふるまい、言動に憤り、嘆いてまいりました。

前回投稿で(追記あり)、3月に4件続いた性犯罪無罪判決に対する批判が急進的な動きを示していることについて、懸念を示しました。
ご存知の方も多いと思いますが、この動きは、後に「裁判官罷免訴追キャンペーン」へと続きました。名古屋地裁岡崎支部判決(娘に対する準強制性交等剤に問われた父を無罪とした判決)を出した裁判官の罷免キャンペーンです。私が2日前に確認したときには6000人を超える賛同者が集まっていました。
出した判決の中身もろくに吟味することもせずに、一人の裁判官のクビを平気で飛ばそうという人が6000人以上も集まったのです。

これに続いて、同じ裁判官について、週刊誌に、名前と写真を挙げて過去の無罪判決まで晒し、口汚い言葉で罵倒する記事が掲載されました。この記事はオンラインでも配信されてしまったため、ツイッターなどSNSを中心として記事が出回ることとなりました。
一般の人がこの記事を見て(面白半分の人もいたとは思いますが)、やはりかなり口汚い言葉でののしっていました。
裁判官個人に対する人格攻撃自体は、新潮の記事の前からもありましたが、自分が娘にレイプしているんじゃないかとか、ウジ虫野郎、極悪人、性差別主義者など、名誉棄損罪や侮辱罪に該当すると思われるような言葉をいくつも目にしました。

一連の性犯罪無罪判決批判運動の象徴的なものとして、4月11日の丸の内でのデモ(主催者はスタンディングと言っていますが)がありました。
このデモが具体的にどのようなことを訴えていたのかは、今でも謎です(賛同者や参加者の一部の方からは、無罪判決を求めるものではなかったという声がありますが)。教えてほしいといっても答えてくれる人がいません。主催者は、賛同者以外に対して、デモの主旨を説明する義務はないと表明してもいます。
ただ、実際に、このデモに対して積極的な賛同を示しているとある女性ライターは、前記の新潮の記事を拡散するツイートをしており、これをデモ主催者もリツイートしているという事実があります。
性犯罪に対する厳罰を求めるデモ(とここではしておきましょう)は、性犯罪の被害者の人権を保護してほしいということを訴えるものでしょう。その関与者、賛同者が、個人をつるし上げて貶め、ののしる記事を多くの人に読んでほしいと、積極的に触れ回っているのです。人権保護を訴える人が、人権を蔑ろにする行為を平然としているのです。

さらに、デモを先導するとある弁護士は、刑事司法の原則を軽視する動きに警鐘を鳴らした弁護士に対して、言ってもいないことを言ったかのように触れ回り(例「大衆は有罪無罪に口を出すな」)、自身への支持を取り付けようとします。

そして、こんなこともありました。
昨日のことです。私は、以下のようなツイートをしました。

「以前ブログにも書きましたが、性犯罪を犯す人は性的に未熟な人がかなり多いです。
性的コミュニケーション力が未発達といいますか。
傷害の影響がある場合もあれば、過去のトラウマ、女性が苦手などなど。
母子関係に問題がある人が多いともいわれています。
そういう点にも目を向けてほしいです。」

そうしたところ、とある方から、「自分も含め、ここには(ツイッターのこと)性被害に遭った人がたくさんいる。このようなツイートが不適切だとは思わないか」という趣旨のリプがつきました。
自分たち被害者が不快になるような言動は、封鎖されるべきだという考えです。

性犯罪に限らず、犯罪被害に遭った方については、被害回復を含め、対応の仕方に配慮することが必要であることは言うまでもありません。
ただ、だからといって、「私は被害者だから」「被害に遭った人がいるから」「被害に遭ったのはかわいそうだから」という理由で、どんなことをしてもいい、何を言ってもいいというわけではありません。
「被害に遭ったこと」「被害者がいること」「被害者側に与していること」は、あらゆることの免罪符ではありません。

「被害に遭った私が面白くないことを誰も言ってはいけない」なんていうルールは、この世にありません。
被害者に都合が悪い判決を書いた裁判官をつるし上げていいというルールも、この世にはありません。
被害者保護の運動に苦言を述べた弁護士に対して、ありもしないことをねつ造して誹謗中傷してよいというルールも、この世にありません。

私は、性犯罪無罪判決が続いてそれが大々的に報じられたときから、現在のような状況が生じることを懸念しておりました。
だからこそ、その動きをヘイトスピーチなどになぞらえて警鐘を鳴らしてきました(注:前回投稿でも記載した通り、現在は、この動きはヘイトスピーチに代表される「レイシズム」だけでは括れない現象だと思っております)。
現実になってしまって、なんて世の中なんだろうと悲しく思うと同時に、憤りが止まりません。

被害者も被害者支援者も、偉い人でもなんでもありません。
「被害者」を盾にとって、個人攻撃をしたり、他者の言論を封じるような行為には、これからも強く異を唱えていきます。











# by terarinterarin | 2019-04-21 22:54 | Comments(3)
3月、性犯罪について無罪判決が続き、話題になりました。

1つ目は3月12日の福岡地裁久留米支部判決。サークルの飲み会で泥酔させられた女性に姦淫した男性が準強姦罪に問われたもので、判決では、女性が抵抗できない状況であったのを認めつつ、女性が姦淫を許容していると誤信する状況だったと判断して無罪となりました(検察側控訴)。

2つ目は3月19日の静岡地裁浜松支部判決。強制性交等致傷罪に外国人男性が問われたものですが、被告人が、自身の暴行が反抗を著しく困難にする程度のものだと認識していたと認めるには合理的な疑いが残ると判断して無罪を言い渡しました(確定。なお、裁判員裁判)。

3つ目は3月26日の名古屋地裁岡崎支部判決。当時19歳の長女に対する父親(以前から性的虐待をしていた)による2回の姦淫について準強制性交等罪に問われたもので、裁判所は、長女が抵抗する意思や意欲を奪われていた状態だったことは認めたものの、抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには合理的な疑いが残るとして無罪を言い渡しました(確定したかどうかの情報はまだなし)。

4つ目は3月28日の静岡地裁判決。12歳の長女に対する強姦等について父親が起訴されたものですが、約2年間に渡り週3回の頻度で姦淫が強要されていたという主張について、長女の証言内容の変遷や、狭い家の7人暮らしで誰も気づかなかったのは不自然・不合理という理由により、強姦は無罪となりました(児童ポルノ動画所持については有罪。現時点で未確定)。

わずか約2週間の間に、性犯罪について立て続けに無罪判決が4件下されるのは極めて珍しいことです。

日頃、性犯罪も含めて刑事事件をそれなりに担当している身としては、1つ目については裁判官によってかなり判断が分かれるところだろうと思われ、控訴審で判断が覆る可能性が相当程度あると踏んでいます。
2つ目については、裁判員裁判でこのような判決が出たこと自体が非常に興味深く、3つ目については、そもそも準強制性交等罪による起訴が不適切だったのではないかと考えています。
4つ目については、捜査機関が初期の段階で、どのような状況で長女から供述を得ていたのかがはなはだ疑問であり、適切な事情聴取がなされていれば、強姦罪で起訴すること自体がなかったのではないかと思っています。

それはさておき、性暴力は許さないという風潮が強い昨今、4件の無罪判決は、世間から大きな非難を浴びることとなりました。
世間からの非難の中には、「実際に被害に遭っている女性の心理的状況に配慮がなされておらず不当だ」などと判決の事実認定のあり方に疑問を呈する、傾聴に値するものも含まれていました。
しかし、多くは「性犯罪で無罪なんてありえない」、「これじゃ性犯罪者はやりたい放題」などという感情的なものが多く、性犯罪で無罪判決を出すこと自体に対して怒号を浴びせるものでした。今日なんて、性犯罪に対する無罪判決を非難するデモが行われているようです。
弁護士の中にも、日本を「強姦天国」と揶揄する人物が表れたり(その弁護士は、それなりの考えをもってこの言葉を使ったようですが、言葉が独り歩きしていることは否めません)、政治家(共産党)の中にも、内容を吟味することなく一連の判決の非難をSNS上で繰り返す人物がいます。

刑事司法には「無罪の推定」という絶対不可欠の原則があります。
被告人が有罪であることは検察官が立証する責任を負っています。
そして、被告人が罪を犯したことについて合理的な疑いが残る場合には、無罪としなければならないのです。
一般の人にとってみれば、「疑わしきは罰せず」という原則だと説明したほうが分かりやすいかもしれません。
とにかく、どんな罪名であろうと、犯罪を犯したとされる人を裁く時には、この原則が適用されることになるわけです。

一連の性犯罪無罪判決を感情的に非難する人には、リベラル層が多いように見受けられます(これは私だけの意見ではなく、SNS上で同様の感想を述べる方が何人もいます)。先ほども挙げましたが、共産党所属の政治家の方もそうですし、著名人のなかでは、津田大介さんも無罪判決自体を非難していると受け取れるツイートをしていました。
超保守的な現政権が戦前の家族観に回帰することが望ましいといえそうな姿勢を見せていることとの対局に、女性の権利保護という概念があることからすると、「女性の権利保護」の一環として「性暴力は許さない」という考えはリベラルな思想と親和性が高いといえるでしょう。
そして、その「性暴力を許さない」と強く思っている人々が、今回の一連の性犯罪無罪判決に対して「許せない!!」といきり立ったように思われます。

リベラル派というのは、人権保護を重視する思想の持ち主のはずであり、したがって、通常は「冤罪を防ごう」などと叫んでいるはずなわけです。
冤罪を主張する再審事件について無罪判決が出たりすると、肯定的なコメントを出す。
それがリベラル派のはずなのです。

が、こと性犯罪ということになると、どうやら思考が全く逆転してしまう人たちが、中には含まれているようです。
「性犯罪で無罪なんて許せない」という思想はつまるところ、「性犯罪については無罪推定の原則を適用しなくていい」、「疑わしきは罰せよ」ということを意味することになるからです。

つまり、「性犯罪をやったと疑われるような人」なんて人に非ず。刑事司法の大原則を適用して権利を保障する必要なんてないんだという考え方なのです。
嫌疑をかけられた時点でそれなりのことしてるんでしょ。
女の子にテキーラ一気飲みさせるなんてそれ自体が許せない。
児童ポルノ動画持ってるなんて気持ち悪い。
だからこんなやつは疑われて罰せられてもいい。
そういう考え方です。

この「特定範疇に属する人」に対しては不当な取り扱いをしても問題ないという考え方、何かに似ています。
レイシズムです。
日本におけるレイシズムは、主に在日コリアンの方を標的にしており、その徹底的な排除を謳っています。
「性犯罪の無罪判決は許さない」派の人たちは、「性犯罪を犯した嫌疑をかけられた人」を標的にして、徹底的な糾弾を謳っているのです。
在日コリアンは在日コリアンという属性だけで日本のレイシストの標的にされており、良識ある人々、特にリベラル派の人々から見れば、「理由のない排除」として許しがたいと考えていることと思われます。
しかし、「性犯罪の無罪判決は許さない」派の人たちは、これと極めて似たようなことをしているわけです。
「嫌疑をかけられた人」はあくまで「嫌疑をかけられた人」に過ぎません。
排除される理由はありません。
例えば、児童ポルノ動画持っている人が全て性犯罪者なわけではありません。
にもかかわらず、理屈をこねて排除する。
レイシストと同じです。

性暴力被害を起こさないようにすることは大切です。
性暴力被害が起きたら、そこから被害者を救済することももちろん大切です。
ですが、そこだけを見てしまうと、それによる犠牲者が出てしまうことを忘れてはいけません。
1つの価値だけを偏重すれば、他の価値が損なわれることになるのです。

強姦天国と騒ぎ立てることは、日本を冤罪天国にすることです。
決して大袈裟な話ではありません。

性暴力を許さないことと、冤罪を防ぐことは両立する概念です。
両方の重要な価値の元で、では性被害者を救済するには何をすればいいのか、を考えていくことが必要です。

*追記:平成31年4月19日*

4月11日のデモ(スタンディング)等について、ツイッター上でレイシズム、ヘイトスピーチと同じだと投稿したところ、多数の批判が寄せられました。
デモ主催者は、当初「無罪判決を許さない」というスローガンをツイッターのプロフィールページで掲げており、賛同者が用意したプラカードにもその旨が記載されていたり、また参加者と思しき人が「性犯罪無罪撤廃デモにこれから行ってきます」というような書きも身をしているのも見られました(その後、「不当判決は許さない」に変更)。
ただ、昨日、賛同者の方(実際に参加はされていないようですが)とツイッターした際、「無罪判決の撤廃を求めるデモではなかったと思う」と記載されており、他にも「無罪撤廃なんて言っていない」とおっしゃる方が数名おられましたので、その旨は付記させていただきます(とはいえ、では、どういうデモだったのかという問いかけに対しては明確なお返事はいただいておらず、デモ主催者も賛同者以外に対する説明義務はないとして説明を放棄している状況ですので、わかりません)。

また、私自身、デモも含め、現在の性犯罪無罪判決批判の動きは、レイシズムの特徴も有しながら、他の現象(カルト宗教的現象や、安易なバッシング現象)の特徴も有していると考えるに至っております。
その意味で、今回の現象(特にデモ)について、レイシズムと同じだとお話した点については撤回をさせていただきます。

この現象をどうとらえるべきかは、刑事事件を多数担当してきた私にとっては、弁護士としての根幹にかかわる重大な問題ですので、今後も検討を進めていきたいと思います。
また、無罪判決一般の糾弾、無罪判決を書いた裁判官個人の糾弾、人格否定にまでつながっている現在の状況については、憂慮を憶えます。

今後も警鐘を鳴らし続けたいと思います。





# by terarinterarin | 2019-04-10 16:52 | Comments(4)
*このブログに書くことは、私が所属する破産者マップ被害対策弁護団や事務所とは一切関係のない私見であることを、予めお伝えいたします。*

破産者マップ被害対策弁護団を立ち上げて10日ほどになります。
この間、破産者マップを巡ってSNSを中心に様々な情報や見解が行き交うのを目にしてきました。
様々な意見の中に、「破産は恥ずべきことではない。だから、破産者マップは問題ない」という趣旨の意見がいくつかあるのが目につきました。
とても気になりました。

確かに破産は恥ずべきことではないでしょう。
法的に言えば、(免責になった場合)契約上の金銭支払義務を履行することができなくなってしまった人が、その債務を法的に免除してもらっただけのことに過ぎません。
しかし、「だから、破産者マップに問題はない」という結論には結びつかないのではないでしょうか。
そこには、大きな論理の飛躍があります。

まずそもそも、今般、プライバシー権というのは、「自己情報コントロール権」ととらえるのが一般的です。
私的情報について、何を公開するか秘匿するかを、個人がコントロールすることができる、それがプライバシー権だと捉えられているわけです。はずかしいと思うかどうかは、関係ないわけです。
例えば、テレビ番組に一般の方が出る場合でも、顔を隠す方、顔は隠さないけれども名前は匿名にする方、家族を出す方出さない方、色々います。
そういう人たちに対して、「あなたの顔は恥ずかしくないのだから出せばいいじゃないか」、「名前は恥ずかしいわけじゃないから出せばいいじゃないか」ということはありません。
顔や名前を出すか出さないかは、個人の自由として尊重されるわけです。
そうであるにもかかわらず、破産したという事実だけが「恥ずかしい情報ではない」から、本人の同意なくして公開されてもいいというのは、あまりに不合理です。
「個人がコントロールできる情報」のひとつであるはずの自己破産という事実について、本人らの同意を一切得ず、コントロールが及ばないところで、誰でも検索できるような状況に置いたということが、そもそも問題なわけです。

また、破産という事実に対する破産者の感情を「恥ずかしい」という一言で表現しているところも、違う、と感じます。
前提として、「自己破産」という事実に対する世間の偏見があることは紛れもない事実です。
おそらくは、破産者マップができる以前から存在していると思うのですが、過去数年分の破産者をデータ化して売却している企業が存在しています。「横領などの危険を防ぐ」という目的をはっきりと明示している業者もありました。
つまり、世間では、破産者を犯罪者と同じように扱う向きもあるということです。

破産した事実を隠したいと思う人は、破産の事実を単に恥ずかしいことととらえているのではなく(あるいは、そうとらえているだけではなく)、「自己破産をしたことが明るみに出たら、自分は世間から排除される」「仕事にも就くことができない」「クビにされるかも」という恐怖心を抱いていることが、むしろ一般的なのではないでしょうか。
その恐怖心は、自分は一生立ち直れないかもしれないという絶望にもなりえます。その絶望と闘いながら、歯を食いしばって生きて行こうとしている人が大勢いるはずです。
そういう人たちに対して、「破産は恥ずかしくないから公開されたっていいじゃないか」ということは、今の日本社会において、破産したという事実がどのように扱われているかを全く理解していない無神経極まりないものです。

「破産は恥ずかしくないから公開されてもいい」という理屈(個人的には理屈にもなっていないと思いますが)は、本来社会的な問題として論じられるべきトピックスを、個人の責任や気の持ちようという問題にすり替えるものです。
こんな理屈をこねる人は、破産者マップを擁護したい理由が他にあるのだと思います。
復活や第二の破産者マップが出てくることを願っているのだけれど、それを正面から言うと、自分がSNS上でフルボッコにされる可能性がある。だから、一見、破産者を励ますような体裁を取り繕うために、こんな理屈をこねているようにすら感じられます。

破産ははずがしいことではありません。
ですが、秘匿するしないを自分でコントロールできる情報の1つです。
無断で、だれでも見られるような形で公開されない権利が、ひとりひとりにあるのです。
「恥ずかしくないから公開されたっていいじゃないか」という理屈は、破産している人を一見励ましているようで、実はないがしろにしている姑息なものです。

どうか騙されないでもらいたいと思います。






# by terarinterarin | 2019-03-26 14:09 | Comments(8)
私は、破産者マップ被害対策弁護団の一員です。
今日は、破産者マップのことについて思うことをツラツラと書きますが、以下に書くことはあくまで私個人の考えであって、弁護団とは全く無関係です。
ちなみに所属事務所とも無関係です。
そのことを前提としてお読みください。

弁護団発足が18日、サイト閉鎖発表が19日未明というスピード感からか、マスコミが興味を持ってくださって、弁護団の弁護士数名に対する取材がありました。
私もテレビ朝日から取材を受けて、その内容が、20日朝の羽鳥慎一モーニングショーで放送されました。

その時間まだ自宅にいたので、どんな風に取り扱われるのか、放送を見ていました。
コーナーでは、開設者がサイトを開設した理由についても取り上げていました。

開設者は、概要、こんなことを話していると、番組では整理していました。

データに基づいて物事を理解、判断、実行、評価する国になってほしいという私なりの日ごろの思いを形にしたものでした。

そして、これについて男性のコメンテーターが、技術者の中にはこういう考え方をする人がいる、などとコメントしていました。
著作権の縛りがない、あるいは希薄な、国が持っている様々なデータを広く活用できるように技術開発を進めたいという考えの人が技術者の中にはいる。そのような趣旨の発言でした。

そもそも、この公表された目的自体、私は嘘だと思っています。
なぜなら、このサイトには削除要請フォームがあり、現在の連絡先やメールアドレス、勤務先等々、更なる個人情報を記載させるものになっていたからです。
あくまで私個人の意見ですが、売却目的の個人情報収集が真の意図だったように思われるのです。

仮に被害者マップの開設者が技術者であり、真に先程挙げた目的でこのサイトを立ち上げたのだとしましょう。
しかし、先の考え方がいくら技術者にありがちなものとはいえ、この考え方は、前提として検討しなければならない問題が全く検討できてない間違ったものと断言したいと思うのです。

こういう考えの技術者は、データは色のないニュートラルなものという感覚を持っているのでしょう。
そして、ニュートラルな情報は、どんな風に加工を施してもニュートラルなままだと考えているのでしょう。

しかし、そうではありません。
データは、特定の目的の下で収集、ときに公開されます。
目的に見合った観点から収集すべき内容や収集方法が決められます。公開の有無、するとしてその方法や範囲も決まります。
その結果収集されたデータ、公開されたデータには、目的に見合った色がつきます。
例えば内閣支持率の世論調査でも、マスコミ各社で結果が違います。

官報に破産者の情報が掲載されるのは、一言で言えば債権者の手続保証のためです。
破産手続への参加、即時抗告できる機会を失わないようにするために破産情報が掲載されているのです。
債権者が、債務者の特定、照合が可能なように名前や住所などの情報が掲載されているのです。

確かに官報は図書館に行けば閲覧可能です。しかし、入手は有料です。限られた場所でしか買えません。ネットの閲覧も原則有料です。
日本特有の事情かもしれませんが、破産は不名誉なものと考えられています。
おそらくはそのために、情報提供の必要性と個人情報の過度な流布を回避する意図で、公開範囲がある意味限定的な官報への掲載という方法が採用されたものと推察されます(違う場合は、ご指摘ください)。

もし、破産者マップの開設者が、本気で、破産者の情報を、人口とか地価とか、保育園の待機児童率とか、そういった情報と全く同じものと考えていたのだとしたら、あまりに思慮がなさすぎると言わざるを得ません。
なぜ、破産者情報が官報という、ある意味奥ゆかしい媒体を使ってだけ公表されているのか、思い至ることができなかったのでしょうか。

情報は、使い方を間違えれば凶器になります。
もし、破産者マップが未だ閉鎖されなければ、あるいは今後第2の破産者マップが出てきたりしたら(未確認ですが、その動きがあるという情報もあります。)、どうなるでしょう。

会社では社員の破産者探しが行われ、横領などを防ぐ目的という名目で破産者が解雇される。
採用の応募者について、過去の破産歴の有無をチェックするのが慣例化する。
子どもたちは、誰それちゃんのお父さんが破産したらしいよとLINEで情報を飛ばし、いじめの対象にする。
そういう事態が怖くて、到底返せない多額の借金があるのに、破産できない。

死人が出るでしょう。

情報は単なる客観的事実ではありません。
ニュートラルなものではありません。
その扱いに細心の注意が必要なものです。
技術の名の下に、気軽に弄ぶようなことはしてはいけません。
扱う前に、その情報が持つ意味を考えて欲しいと思います。










# by terarinterarin | 2019-03-20 16:02 | Comments(13)
先月のことだったでしょうか。
俳優の新井浩文さんが、強制性交罪で逮捕勾留後起訴されました。
昨日の深夜には、コカインの使用でピエール瀧さんが逮捕されました。
ピエール瀧さんに関しては、NHKでニュース速報で放送するほどの大騒ぎぶりでした。

新井さんは名バイプレイヤーとして知られており、たくさんの作品に出演していました。
ピエール瀧さんは、元々ミュージシャンにして俳優。電気グルーブには数々の名曲がありますし、今年は大河ドラマにも出演しています(毎週楽しんでいます)。

新井さんが出演した映画はお蔵入り、上映延期になっているようです。
ピエール瀧さんの番組も一部はお休みが決定しています。電気グルーブは今年デビュー30周年で、CDショップでは特設コーナーが設けられていますが、おそらく既に多くは撤去されていることでしょう。

性犯罪や薬物犯罪、それを犯した芸能人に対する風当たりは非常に強い。
自分が被害者でもその家族でもなんでもないのに、よくまあ、そこまでヒステリックになれるもんだと思うことしばしばです。
こんな奴らは人間じゃない、世間から抹殺しろ、とばかりに、口汚い罵詈雑言が、インターネットで浴びせられます。そのコメントにいいね!する人も多い。

そして、お約束みたいに、出演作品や製作物が、まるで元々この世になかったみたいに、消し去られてしまうのです。

新井さんについてはわかりませんが、ピエール瀧さんについては、今のところコカインの使用は争っていないようです。
仮に新井さんも容疑に問題がなかったとしましょう。
その場合、2人が出た作品や電気グルーブの曲の価値に何か違いが出てくるんでしょうか?
いい映画、いい作品だったものが、そうじゃなくなるのか?
シャングリラとか、富士山とかが、突然駄作になったりするのでしょうか?

おそらく、こういう扱いの根底にあるのは、

犯罪者が出ているもの、作ったものなんて汚らわしい

という意識なのだと思います。そして、そういう意識が正しいと信じて疑わない日本人が少なくないということなんでしょう。

まあ、生理的なものかもしれないので、言っても仕方ないと思います。思いますが、敢えて言います。

この感覚、おかしいでしょう。
こういう感覚の蔓延は、文化の停滞を招くことにしかなりません。
素晴らしい作品であっても、容赦なくなかったことにされてしまうんですから。

井上陽水や槇原敬之も、薬物犯罪経験者でした。
彼らは今ほど世間がヒステリックじゃなかったことも手伝って、自身も作品も抹消されずに済みました。
しかし、捕まるタイミングが今だったら、少年時代も、どんなときも。も、世界にひとつだけの花も、この世から抹殺されていたのかもしれないのです。

勝新太郎なんて、パンツ事件に代表されるように品行方正からは真逆のところにいる人でした。
しかし、彼の代表作、座頭市なしで、日本の映画史なんて語れないはずです。

海外を見ても、薬に身体や精神を蝕まれながら、ギリギリのところで、名曲、名演を生み出してきたミュージシャンは沢山います。
これら全てが抹殺される世界はあり得ません。
むしろ薬に己を蝕まれながらの名演に、心打たれた人も少なくなかったはずです。

犯罪者が関わったものという理由だけで、様々な作品を抹殺することによって、文化は表層的なものに成り下がるでしょう。
人間の心の奥底をあぶり出したり、あるいはそこに働きかけるような深い作品は、なくなってしまうのではないでしょうか。

もっと言えば、犯罪者を汚らわしいと一律に排除する精神は、人間の多面性多様性を全く理解していないことの表れです。
そして、自分は被害者にしか、あるいはその家族、友人にしかならないという一面的な思い込みの表れです。

誰の心にも誘惑に弱い面があります。
一線を踏み越えるか越えないかは、絶対的な差ではありません。
誰にも被害者やその家族友人になる可能性があると同時に、加害者やその家族友人になる可能性があります。

そんなことも理解できない大人が最近の日本には多いようで、恐ろしいったらありゃしないのです。





# by terarinterarin | 2019-03-13 12:59 | Comments(4)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。ウェブサイト https://attorneyterabayashi.simdif.com  「弁護士テラバヤシ」でツイッターもやっています。


by terarinterarin