「絶歌」感想文。

いまさらですが、「絶歌」読み終えました。

読んでいて、書いている最中、元少年Aは、つらくてつらくてたまらなかっただろうなと思いました。
そりゃもう、「辛い」なんて言葉が果たしてふさわしいのか疑問を抱くほど、苦しくて、悶絶しながら書いた部分がたくさんあったんじゃないでしょうか。
特に、事件後、自分を責めない家族と対峙した場面。
勤務先の先輩の自宅に招かれて、自分が周りをだましていると考えた場面。
苦しい気持ちは彼の文章ににじみ出ていて、テラバヤシも読んでいて何度も苦しくなりました。途中何度か立ち止まらざるを得ず、一気にこの本を読むことはできませんでした。

「罪を償う」とか「自分がしたことと向き合う」とは、どういうことなんだろうと改めて考えました。
こちとら弁護士の端くれ、刑事弁護や(数は圧倒的に少ないが)少年事件にも携わっています。
そういう立場として、自分自身、それが何を指すのかわからない「罪を償う」「自分がしたことと向き合う」という言葉を、自分は、心して担当している被疑者被告人や少年に言わないようにしてきました。
そんな中身のない抽象的なワード、実感を伴う経験がない私が吐いたところで、相手にとって何の解決にも示唆にもならないことは、言われなくてもわかるからです。

そもそも人間は、自分がしたことと向き合う能力に乏しい生き物なんではないかと、テラバヤシは常日頃から思っています。
他人と他愛もないことでケンカしたとしましょう。
ひどい言葉を吐いたとしましょう。
「悪いことしたな」と思う一方で、「でも、相手がこんなことしたんだからしかたない」と逃げるのが普通でしょう。
そんなもの、いちいち全面的に受け入れて「私はなんて悪い人間なんだ」と思っていたら、身が持たないからです。これは人の防衛本能のひとつなんじゃないかと思います。
こんなちんけでくだらないことですら言い訳をしながら生きている人間が、人を殺すなどという大罪を犯して、それをすぐに全面的に受け入れて反省なんてできるわけがないのです。
しでかしたことが大きければ大きいほど、背徳的であればあるほど、人は向き合うことが難しいはずです。

元少年Aは、「どうしてあんなことをやったのか」と考え続けているようです。
自分の歴史を文字にするという作業を通して、自分の人生を振り返り、自分なりにそれを位置付けようとしているさまが見てとれます。
事件前の幼少期の部分については、装飾的なワードを多用した言い回しが目立つことは事実です。
しかし、少年院退院後の部分の記載については、このような表現はなりを潜め、直截な表現になっています。自身の内心の描写が多くみられます。
「自己顕示している」「美化している」という批判がありますが、それは、装飾的な言い回しのせいなんでしょうか?
「反省していない」「自己弁護している」という批判もあるようですが、それは、苦悩を描いているからなんでしょうか?

不自然なほどの装飾的な言い回しは、私も多少驚きながら読んでいました。
彼自身のボキャブラリーがこういうものなのか。それとも、あえてこのような言い回しをしているのか。それとも意図せずこうなっているのか。
最初は、生々しい言葉で幼少期の話を書くのを無意識のうちに避けて、結果、こういう言い回しになったのかと思いました。が、読み終えて、彼は、幼少期の自分を自分なりの観点から表すために、あえてああいう言い回しを使ったんだろうなと思うようになりました。彼の読書量からいうと、おそらくボキャブラリーは相当に豊富なはずですから。

殺人者は、自身の苦悩を語ってはいけないのでしょうか?
苦悩を語ることは、すべからく「自分を受け入れてほしい」という心の表れであり、それはあってはならない甘えと評価すべきなんでしょうか。
彼には、生々しく自分の苦悩を語ることによって、自分と同じ罪を犯す人が製造されることを少しでも防ぎたいという気持ちがあったのだと思います。
これは、どうして人を殺してはいけないのかという問いに対して、「どうしていけないのかはわかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。やったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」(太田出版「絶歌」p282より引用)と答えていることにも表れています。

もちろん、彼がこの本を書いた動機は、後書にもあった通り、自分のためなんでしょう。しかし、この本の中には、こういう強烈なメッセージがあった。だからこそ、太田出版は出版に踏み切ったように思えます。

さっき書いた「あなた自身が苦しむことになるから」という言葉にも批判が集まっているけど、これ、何がいけないんでしょう?
「人の命は尊いから」とでも、ストレートに書けばよかったんでしょうか。どうせ何を書いてもやり玉に挙げられるんでしょうが、この言葉は彼の正直な思いだと思うし、決してはずれではない。
どうして人を殺してはいけないのかという問いに、周囲を納得させられる答えを持ち合わせていない人間は、非難する立場にはないでしょう。
死刑になりたいと願い、死刑になれないとわかって絶望し、生きることを強要されて生き始め、不安定な生活を生きる中で生きたいと願うようになり、自分が奪った命の大きさを知ったというくだりが、本の中にあります。
彼自身、この本を読む誰よりも、ひょっとすると「命が尊い」ということを実感しているんじゃないんでしょうか。だからこそ、ストレートに表現できなかった(はばかられたのかもしれない)ように、テラバヤシには思えてなりません。

この本には、非常に大きな社会的な意義があります。
14歳にして猟奇的な殺人を犯した一人の男性が、その後の人生をどう生きているのか。
その記録としての価値は、とてつもなく大きいでしょう。
教育書としての価値もあるのではないか、そう思います。
そして、刑事事件や少年事件、事件を起こした人にかかわるすべての人にとっても、その罪を犯した人の心理を理解するうえで、貴重な一冊といえると思います。

読みもしないで、この本の存在価値を否定する人。
読んだうえで、言葉じりや表現ぶり、非本質的な部分のみに着目して非難する人。
こういう人って、自分は元少年Aとは全く次元が異なる別の人間だと思っているのでしょうか。

同じ境遇におかれて同じ場面に遭遇しても、自分は、絶対に120%同じことをしない、まさか、そんな風に思っているんでしょうか、非難する皆さんは。
私は、そういう人こそ、恐ろしいと思う。
元少年Aは、自分は更生した、100%大丈夫、なんて、語ってはいないのですから。

様々なご批判はあるでしょう。
しかし、テラバヤシは、彼が50歳になった時の続編を読みたいと思っています。


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by terarinterarin | 2015-06-26 19:46

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


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