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法律婚制度崩壊を招くか?夫婦同姓合憲判決。

冬至です。カボチャも食べず、ゆず風呂にも入らず、おそらく年内最後になりそうな投稿です。

ようやっと、12月16日の最高裁夫婦同姓合憲判決を読みました。
まあ、いろいろ突っ込みどころはあれど、論理的に詰めた批評は、大雑把なおつむしかない私なんぞに似つかわしくないので、判決を読んでのざっくりとした感想と、それを踏まえたうえで、ふと思ったことをちょっと書いてみようかな、と思います。

テラバヤシが、今回の最高裁判決でまず一番「はあ?」と思ったのは、「氏の変更を強制されない自由」の位置づけです。
この判決、氏の変更が「アイデンティティの喪失感」を招くことを認めているにもかかわらず、「氏の変更を強制されない自由」を憲法上の人格権と評価せず、それよりもランクが低い「人格的利益」と位置付けてしまっている。

いやいや、「アイデンティティ」の確立って、まさに「個人の尊厳」の核なんじゃないんですかね…憲法13条で保護すべき自由の根幹がこれなんじゃないんですかね…と判決読みながら、ここでまず突っ込みを入れてしまったという…

で、この一段低い「人格的利益」という評価を前提に、安易に立法裁量論に話が流れていき、まさに水が流れるように、夫婦同姓は立法裁量の範囲内という結論が導かれているわけで。

さらに、寺田補足意見は、まさにこの多数意見に追い打ちをかける「補足」をしていて、極めてザックリまとめれば、「選択肢がないことの不合理は、よほどのことがない限り民主主義的プロセス(つまり多数決の論理)で何とかするしかないわけね。裁判所はいかんともしがたいの」という、「少数者の利益保護」という人権保護の基本、人権の砦たる裁判所の役割を放棄するかのようなことを言ってのけちゃっているわけです。

つまるところ、この多数意見&寺田補足意見は、「法律婚をする以上、個人の利益やアイデンティティは捨てて、『家族制度』に組み込まれることを覚悟してね。制度としてみんな名字は一緒ってことになってるから、夫婦でよく話して、どっちの名字を名乗ることにするか決めてね。でね、結果として夫の名字を名乗る家族が多くなっちゃっても、裁判所は知ったこっちゃないの」ということを言うがために、長々と論旨を述べまくっているわけです。

しかし、この結論、逆説的に読むと、「家族制度に組み込まれるのが嫌で、個を大切にしたい人は法律婚をしなきゃいいだけなのよ」というメッセージも暗に含まれているのではないか、とそんな風に感じなくもない。
いや、そういう風に読む人、感じる人、少なくないと思う。

地方あたりではまだまだかもしれませんが、都市部では、もうかなり前から、「個」を大切にする生き方は浸透してきているように思うのです。これは、結婚するとか、誰かとパートナー関係を築くとかと関係ない。複数の人間で1つ屋根の下で暮らしていくことを選択することと自分の「個」を大切にするということは別に矛盾することではありません。
誰と、どういう関係を結んで、どういう生活を送りたいかということを一人一人が自由に考えて、それをかなえることができる相手と一緒に暮らしていく。これはまさに「個」を大切にすることであり、「アイデンティティ」を確立するプロセスの1つになるものでもある。

誰かと「家族」になりたいけど、でも、なにもかもひとくくりにされてしまうのはいや、という考えはごくごく自然であり、別にわがままでも何でもない。そういう感覚は間違いなく浸透しています。
そうすると、誰かと家族にはなるけれど、じゃあ、「家族制度」に乗っかるのか、乗っからないのかという選択が、この先、ごく普通に行われていくことになるのではないかと。
つまり、とりあえず異性婚を前提とする場合、法律婚は内縁と等置される選択肢の1つにしかならなくなり、法律婚のメリットや自分のアイデンティティを天秤にかけて、どちらを選択するか、カップルごとに判断する風潮がどんどん広まっていくと、そんな風に思うのです。

そもそも、法律婚じゃないと受けられないメリット、法律婚じゃないとできないことって、どんなものがあるんでしょう?
確かに所得税の配偶者控除は、法律婚をしていないと受けられない。
でも、健康保険は、内縁の妻、夫でも「未届の妻、夫」と書いとけば3号被扶養者として適用あり。
子の親権は共同親権にならず、父あるいは母のみが親権を持つことになるけれど、同居している以上それで何か具体的に困るということはないし、内縁関係解消するときに必要があれば親権者変更の手続をとることでクリアできる。
相続の問題も、遺言さえ残しておけばカバーできる。
最近は企業の家族手当も内縁関係を対象に支給されるケースも多いですし…
細かいところではおそらくまだまだ何かあると思うけど、世間が内縁というものに寛容になってきているこのご時世、自分のアイデンティを捨ててまで、法律婚したほうがいいと思わせるまでの制度上のメリットなんて、ないんじゃなかろうか。
つまりそれだけ、明治以降に構築された「家族制度」なんてものは、別に制度として絶対的に保護すべき何かなんて持たない空虚なものでしかない。単に同じ名字を名乗らせて、世帯の識別をしやすくして、おかみが民を管理しやすくしようとした、それだけのものでしかないんですよ。

そういうことを考えると、今回の判決は、「ああああ、やっちまったよなあ」とテラバヤシは思う。
「部屋とYシャツと私」を地で行くような古式ゆかしい男子女子を念頭に置いちゃって、中身がない「社会の構成要素である家族の呼称としての意義」なんてものを重視しちゃって、だからこそ「夫婦同姓」は間違っていないなんて言ってのけてしまったんだから。

そんなものに疑問を持っている人は、このご時世、たくさんいる。
国民はそんなにアホじゃあありませんぜ。
もっと冷静に判断している。
一部の自治体では、同性パートナーシップを夫婦同様に保護しようという動きも出てきているこの世の中。
あろうことか、最高裁が、「家族」「夫婦」の考え方を変えられなかったということになりましょうか。









Commented by 通りすがり at 2015-12-29 11:41
両親の片方と氏が異なっていても子のアイデンティティないし家族の一体感には影響しないと言いながら、法律婚を認めてもらうための氏の変更によってアイデンティティに影響が生じるというのが、どうも理解が難しいです。
更に言えば、伝統的な(とはいっても明治以降でしょうが)家族制度に疑義を呈しつつ、自分が親から受け継いだ氏には拘るというのが、すっとは理解できないです。
アイデンティティ云々を措いておいて、氏を変更しないことによって「法律婚じゃないと受けられないメリット」であるところの配偶者控除が受けられなかったことを損害として、問題ある家制度と関係した戸籍法の違憲性を主張する方が筋が通っていたような気がしますが、いかがでしょうか(米国の同性婚に関する最高裁判例もそうした筋での主張に応えていた記憶です)。じゃ、アイデンティティにさして影響しないなら、氏変えてもいいじゃん、となるのかもしれませんが。
氏によるアイデンティティ形成が事実上なされてしまっているので、当面の障害である法律婚に際しての同姓強制を取り除きたい、という話だったのでしょうが、本来は「氏によるアイデンティティ形成」というところを変えなければならないところだと思います。そうなると、民主制(=多数決原理)とまではいかなくても、社会における一定の議論ないしムードの醸成が必要なのかなと感じます。
つらつらと書きましたが、立法論としての夫婦別姓には理解できるところが大いにあるにしても、今回憲法論として裁判所がどうかできたかとなると、なかなか難しかったんだろうな、と思います。違憲だが立法不作為にはなっていないというメッセージを出してもよかったのかもしれませんが、選挙制度の話のように、司法と立法との間の乖離が生じるトピックを増やすのも、それはそれで難しいところがあったんだろうと推測しています。
Commented by terarinterarin at 2016-01-11 22:46
コメントありがとうございます。
私も違憲判断は今回は難しかったかもしれないなと思っています。最高裁お得意の「適用違憲」もできませんですしね、今回の件は。

ただ、合憲の理由づけ自体説得力があったのかといわれると、そうじゃなかったよなと。
おっしゃりたいことはなんとなくわかります。

返信遅くなっても憂いわけありません。
Commented by 通りすがり at 2016-01-12 22:15
いえいえ、ありがとうございます。
おっしゃるとおりで、多数意見は、いろいろと、えっ、論理通ってなくないですか?って思うところありますよね。
諸々書いておきながら、選択的夫婦別姓なら同姓にしたい人はすればいいし、別姓って言っても他人のことだから、どうでもよくないですか?認めて何が困るんですか?って思ってきたところでした。司法による救済って、難しいな、なかなか、と思いました。少ーしだけアメリカの最高裁判例を読んでいた時期のある自分としては、もうちょっと筋の通った多数意見書けないかなー、これでは何かなーと思いました。
考えるきっかけを与えるポストをしていただき、どうもありがとうございました。
by terarinterarin | 2015-12-22 22:19 | Comments(3)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


by terabayashi