7年前の今日のことなどについて考えてみる。

7年前の3月11日は金曜日でした。
私は当時、法テラス愛知のスタッフ弁護士をしており、名古屋に居住しておりました。
その日は、会務活動のために東京出張中で、午後から日弁連の建物の16階会議室におりました。夜には新幹線に乗って名古屋に戻る予定でした。名古屋に戻る前に、東京駅近辺をぶらっと見て回り、美味しいご飯を食べるのを楽しみにしておりました。

そんな中、地震が起こりました。
テラバヤシは北海道の出身、それまでも日高沖地震や奥尻島沖の地震などで、比較的大きな揺れを何度か体験してきました。
しかし、その日襲ってきたのは、今まで体験したことのない大きな揺れでした。
しかも、揺れは断続的に何度も続きました。断続的に続く揺れもまた、とても大きなものでした。
私は机の下に何度も潜り込みました。
そんな中でも、会議は粛々と続けられ、予定をすべてこなしたところでお開きとなりました。

震源地が東北沖の方であることがわかりました。
階下を見ると、近辺にある省庁の職員の人たちでしょうか、大勢の人が日比谷公園の方に向かっているのが見えました。
そのうち、その日は新幹線が止まって動かないということがわかりました。
私は、帰る手段を失いました。日弁連で一夜を明かすことになりました。
夜になると、日弁連の地下にあるレストランから、ありったけのカツカレーが帰れなくなった人々にふるまわれました。
日弁連や東京の弁護士会の職員の人たちが、お弁当やカップ麺をたくさん買ってきてくれました。
15階のロビーに設置された大きなスクリーンには、NHKのニュース画像が流れ、津波で東北地方が壊滅的な被害を受けたことがわかりました。
その場に残された帰れぬ弁護士たちが息を飲んで映像に見入りました。
そして、配布された毛布にくるまって、残された弁護士たちは眠りにつきました。

幸い、東海道新幹線は翌日朝から運行を再開しました。名古屋に戻れるようになりました。
霞が関から地下鉄の丸ノ内線に乗り、東京駅に行きました。
地下鉄の駅は照明が落ちており、丸ビルや新丸ビルの入り口付近も真っ暗でした。
昨日までとは全く違う風景に、私は戸惑いを覚えました。
東京駅は、私と同じように足止めをくらった人たちでいっぱいでした。
確か朝9時少し過ぎに駅に着いたのですが、私がチケットを取れたのは11時半頃ののぞみ。時間があったので、駅構内の売店でパンを買って遅めの朝ごはんを食べました。
札幌に住む両親に携帯で電話をしようとしましたが、繋がりませんでした。

いつもなら1時間40分で名古屋に着くはずのところ、その日は2時間以上かかっての到着でした。
私は、自宅に帰る前に法テラス愛知に寄り、国選の配点の当番で休日出勤していた職員に、ことの顛末を報告しました。
自宅に戻ったところ、全く無事であり、ガスも水道も電気も止まっていませんでした。私はなんだか不思議な気持ちで、シャワーを浴びたり、着ていた洋服を洗濯したりしたのでした。

その頃は、概ね月1回から2回程度東京に赴いて日弁連の会議に出ていました。
東京は、その後も長いこと地下鉄の駅などの照明が暗く落とされていました。
華やかだった東京が活気を失っているような、そんな気がずっとしていました。

いつの間にか、照明は震災前の状況に戻りました。
海外からの観光客で街は溢れかえるようになりました。
今や東京は震災前以上の活気に溢れていると言っても過言ではないように思います。
しかし、今でも、7年前の3月11日に経験したこと、その日からしばらくの間東京で見てきたことは、私の記憶に残り続けています。

私があの日やその後に経験したことは、東北の地で大きな地震や津波に遭い、ご家族を失った皆さん方の経験に比べれば、本当に本当に些細なものでしかありません。
それでも今でも忘れることができないのです。
震災の被害に遭った皆さん方が、今でも苦しい思いを抱えていることは、言葉は悪いですが、当然のことのようにも思えます。
ただでさえ辛く苦しい思いをしているのに、例えば避難先の住民の無理解や遅々として進まない復興のために、その辛い思いが膨れ上がっている方々も決して少なくないという報道に触れると、心が痛むことしきりです。

経験がない人間の想像力のなさや残酷さに憤りを感じます。
時が全てを解決するわけではないことにやるせなさを覚えます。
そして、自分の無力さを痛感せずにいられません。

震災でお亡くなりになった皆さんに哀悼の意を表するとともに、被災した皆さん方が少しでも早く安心した日常を取り戻せるよう、ささやかながらお祈りいたします。





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by terarinterarin | 2018-03-11 15:54

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。


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