死刑と弁護士。

ご無沙汰しております。
暑い日が続いておりますが、皆様お元気にお過ごしでしょうか。

テラバヤシは、早くも夏バテ気味です(ブログの更新が滞っていた理由のひとつでもあります)。

暑い日が続く中、オウム真理教の死刑確定者13名が、7月6日と26日の2回に分けて刑を執行されました。

今年の4月だったでしょうか。東京拘置所に収容されていた13名の死刑確定者が各地の拘置所に分散収容されて以来、死刑執行が近いのではないかと言われておりました。

それでも、個人的には、分散収容されてから執行まで、「早かったな」という印象でした。

日本の中では、死刑賛成派が多数を占めておりますが、国際的には日本の死刑制度は非難の的にさらされています(注:今回は死刑制度の賛否について論じるつもりはありません)。
天皇の退位であるとか2020年の東京オリンピックが迫りつつある中で、オウム真理教の死刑確定者の刑の執行をそういうおめでたい行事から時間をおいて執り行いたい、そういう意思がなんとなく感じられるような時期の執行であったように思われます。

「死刑」というものに対して、弁護士は、様々な段階、あるいは様々な角度から関わるものです。

死刑事件(あるいは死刑求刑や判決がなされる事件)で、被疑者被告人の弁護人を務める。
死刑確定者の再審請求事件で、再審の弁護人を務める。
死刑確定者から、法律相談や民事事件等の依頼を受ける。
死刑事件の被害者側の弁護士となる。

テラバヤシは、死刑事件の弁護人を務めたことはありません。再審弁護人を務めたこともありません。
被害者側の弁護士となったこともありません。
が、死刑確定者の方から法律相談を受けたり民事事件の依頼を受けたことが数回あります。

死刑確定者でもその他の受刑者でも(注:死刑確定者が獄中にいるのは死刑という刑を受けるために身体を確保されているだけのことであって、その身体拘束自体は刑罰ではありません)、法律相談を受けたり、民事訴訟を起こしたりする権利が奪われるわけではありません。
「獄中にある人が、一体どんな法律相談があるというのだ」と驚かれる方もいるかと思いますが、その内容は実に様々です。
市井に暮らす人の法律相談と、特段変わることがないというのが私の印象です。

離婚の相談。
相続の相談。
借金の相談。
貸金の請求の相談。
損害賠償請求の相談。

そんなものが多くありました。中には、体調不良や病気で悩んでいるのに、施設の中で満足な医療的対応をしてもらえないという相談もあります。

私が、死刑確定者から受けた相談や依頼も、「普通に暮らしている人でも、そりゃ訴えたくなるよな」という内容のものでした。

法律相談や事件の打ち合わせのために、拘置所に赴きます。弁護人としての面会ではないので、拘置所の職員の方が立ち会います。面会時間も弁護人のように無制限ではなく、延長の申請をしても30分だけという制限がつきます(これは拘置所ごとに運用が少し違うかもしれませんが)。
その時間の中で、一般の方の法律相談や事件の打ち合わせと同じように、言葉を交わしていきました。
メールのやり取りはできませんが、手紙のやり取りで打ち合わせをすることもありました。

相談や依頼を受けている立場からすると、その人たちは、単なる「相談者」であり「依頼者」でした。
もちろん、どんな事件を犯して死刑が確定することになったのかは、知っていました。
しかし、私にとっては、その人は、「人」でしかありませんでした。

ふと、自分が依頼を受けた死刑確定者の人が刑を執行されたら、自分はどんな気持ちになるだろうと、考えたことがありました。
普通に悲しいだろうな、と思いました。
知り合いがひとり、命を失うわけです。それが当たり前の感情であるように思えました。

私は、死刑事件の遺族の皆さんが、死刑確定者の死刑執行にあたってどんな気持ちを持とうが、何も口出しできることはないと思っています(当たり前のことですが)。
かたき討ちをやっと果たしてもらえたと思う方もいるでしょう。
事件の区切りがついたと安堵する方もいるのだと思います。
一層のやりきれなさを覚える人もいるのだと思います。
そして、そういう気持ちに寄り添う弁護士が必要であることは言うまでもありません。

ただ、先ほども書いた通り、一方で、死刑を受ける側の立場に寄り添う弁護士も、少なからず存在しています。
死刑事件の弁護人や再審弁護人は、私が関わった程度をはるかに超える濃密なかかわり方を、その被疑者被告人や死刑確定者としています。
そうであれば、たとえ、目を覆いたくなるような残虐な事件を起こした張本人であったとしても、その人の中にある「人間性」というものに触れる時間は、かなりな程度あるだろうと思うのです。
そうすると弁護士は、その人が「依頼者」「人」という、いわば中立的な存在に見えてくるものではないか。そう思うのです。

私の周りには、今回刑を執行されたオウム真理教の死刑確定者の弁護人だった方が何人かいらっしゃいました。
全員から気持ちを聞いたわけではありませんが、少なくともその中の何人かは、やはり悲しんでいました。
その悲しみは、「自分が死刑判決を防ぎきれず、結果死刑になってしまった」という部分も大きいかと思います(死刑制度がある日本において、今回の13名の死刑はどんな優秀な弁護士をもってしても防ぎきれなかったででしょうが)。
と、同時に、かつての依頼者が命を落としたことに対する「普通の悲しみ」でもあるように思えます。

このような感情は、異常なものでもなんでもないでしょう。

今日は、この一言が言いたくて、久しぶりにブログを書いたのでした。








by terarinterarin | 2018-07-27 16:12 | Comments(0)

寺林智栄の弁護士としての日々や思いをつづります。ウェブサイト https://attorneyterabayashi.simdif.com  「弁護士テラバヤシ」でツイッターもやっています。


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