「被害者」を語れば、何もかも許されるのか。
2019年 04月 21日
暴走した民意による私刑がどれだけ危険な事か、その危険性を回避するために様々な決め事(法律)が存在している事を理解していない人が多い
ただその決め事を作る、立法を行う者達は民意(投票数)が欲しくてたまらない
故に全てを理解しているか否か分かりませんが、民意が集まりそうな意見を表明しがち
そして有力者の後押しを受け、最後は自分達が損する世の中になる事も知らず民意は更に煽られがち
政治関係なく様々なコミュニティで、良い人の仮面をかぶった怖い人が私益の為に、精神的に弱っている群集を動かし結果全体利益が下がるという流れが存在している気がします
人間って怖いですね(着地点なぁなぁ)
今回の罷免騒動で、先生が奮闘されていることを知り
書きこませていただきました。
「被害者」が正しいとは限らない、というのはその通りで、少しばかり被告人の支援に携わったことのある私には、共感できる言及でした。実際、「被害者」の犯罪が原因で、加害者が犯行に至るケースはそれなりにありますが、現在ではそうした事件でも死刑判決が下されています。
「フェミニズム」「左派」の人々は、岡崎支部事件に、尊属殺人違憲判決を持ち出していますが、あの残虐な虐待を行った父親は、「犯罪被害者」に他なりません。被害者が正しいって、そうした人間まで正しいと考えなければならないのでしょうか?
ゼロ年代の厳罰志向の犯罪被害者たちの運動、今回の「フェミニズム」界隈の運動について、疑問を呈したり、総括を行おうという姿勢は、運動側は全く感じられません。
日本の政治運動は、自浄作用が欠片もないのでは、と思えます。それは、社会やマスコミが、声の大きい人間、力の強い人間に忖度し、空気を読んでばかりであることが原因の一つだと思います。ゼロ年代も提灯持ちの記事ばかりでしたが、今回の騒動でも、「フェミニズム」団体のあり方に疑問を呈す記事はありませんでした。新聞は、鵜飼裁判長罷免キャンペーンについては、批判的に報じたくないためか黙殺していました。
また、気軽に声をあげることができない日本のあり方も、「声をあげた人間」の無謬性を作り上げるのに、一役買っているのではないか。気軽に声を上げ、気軽に批判できる社会の方が、はるかに息苦しくないのでは?
「声をあげた人間」が、声をあげられる側になることも、十分あり得るわけで、「被害者」「声をあげた人間」を無謬な存在としている人たちは、それを考えて居ないと思います。
ゼロ年代は、厳罰化が進行し、「被害者」に異論を唱える人間は、激しくバッシングされました。その頂点が、光市事件の懲戒騒動だったと考えます。
岡口裁判官騒動、性犯罪示談者のネット晒し、鵜飼裁判官罷免騒動を見ていると、最近は、そのゼロ年代が復活しつつあると感じています。
これからどうなっていくのか。ゼロ年代が、もっと暗さを増して戻ってくるのか、令和の時代には不安以外、感じられません。