去る12月5日、2015年に埼玉県熊谷市で起きた6人殺害事件(強盗殺人事件)の控訴審判決が出ました。
一審の裁判員裁判では、被告人のペルー人男性に対して死刑判決が下されましたが、控訴審では、無期懲役判決となりました。
この判決については、世間で多くの批判が出ており、テレビでご活躍のとある弁護士コメンテーターが(判決文も読まずに)「馬鹿げた判決」などとおっしゃってもいます。
判決要旨を読むことができましたので、この判決について、またこの判決が出されたことについて思うところを、以下につらつらと書いていきたいと思います。
今回の投稿は多少長くなると思いますので、ご容赦ください。
まず、強盗殺人という犯罪は、法定刑が無期懲役刑と死刑しかありません。
減刑がなされない限りは有期懲役とはなりません。また、本来であれば死刑相当なんだけれども、刑を減軽すべき事情があるので無期懲役にするという判断もあり得ます。
今回の控訴審判決は、後者の判決ということになります。
では、どうして刑が無期懲役に減軽されるべきとなったかというと、被告人が本件当時統合失調症により「心神耗弱状態」にあり、完全に刑事責任を問えるような状況にはなかったと、東京高等裁判所が判断したことが理由です。
一審が死刑判決にしたのは、彼が事件当時完全に刑事責任を問える状況であったと判断したからです(完全に責任能力があるのであれば、被害者6人の強盗殺人事件は、現在の日本の法制度上は死刑とならざるを得ないでしょう)。
つまり、一審と控訴審では、被告人の責任能力についての判断が分かれたということになります。
一審の裁判員裁判では、被告人の精神鑑定を行った医師(以下、「鑑定医」と言います。)が証言を行いました。
控訴審判決は、一審判決について、この鑑定医の証言のとらえ方を誤っているとしています。
被告人が、事件当時、統合失調症を患っていたことは争いがありません。それによる妄想が事件に影響を与えていたこと自体にも争いがないようです。
しかし、一審では、鑑定医の証言の結果、統合失調症が事件に与えた影響の範囲を限定的にとらえて完全責任能力があったと判断したのに対し、控訴審では、統合失調症はかなり広範囲に影響を与えたと判断した…わかりやすく言うと、こういう違いということになります。
つまり、鑑定医の証言内容のとらえ方、被告人の統合失調症が事件に与えた影響の程度のとらえ方、この辺りの違いが、一審と控訴審の判決の違いになったということになります。
裁判員裁判発足当初、精神鑑定などの専門的な判断が必要な事件について、素人の裁判員が適切に判断できるのかという問題が指摘されていました。
結論としては(かなり雑駁に言いますが)、素人にもわかるように証言させるテクニックを駆使すれば何とかなるという判断で制度が走り出しました。
が、今回の件は、私としては、裁判員裁判で責任能力の有無を判断することの難しさが出てしまった件だと感じざるを得ません。
もちろん、私自身は、この件の裁判員裁判を見ているわけではありませんので、一審の責任能力判断が間違いで、控訴審の責任能力判断が正しいと断ずることはできません。
ですが、控訴審判決で、はっきりと一審判決の鑑定の証言とらえ方は誤っていると指摘されていることは、非常に大きなポイントになると思うのです。
少なくとも、一審において、鑑定医証言が十分に裁判官や裁判員に咀嚼されていたわけではないのではないか、そのような印象を持たざるを得ません。
それはなぜなんでしょうか。いろいろな原因が考えられます。
まずは、鑑定証言のプレゼンスの仕方がどうだったのか。
現在、裁判員裁判においては、鑑定医をはじめとする専門家の証人尋問は、プレゼン方式で行われることも少なくありません。この件がどうだったのかはわかりませんが、プレゼン方式は、時に専門用語の嵐になり、かえって一般人にはわかりにくいといわれてもいます。
鑑定医の証人尋問の際にどのような資料が用いられたのか。
そして、鑑定医の証言内容を吟味する時間が、評議中に十分とられたのか。
裁判官は、裁判員をどのようにフォローし、どのようにリードしたのか。
何より気になるのは、この事件が「6人の方が命を奪われたとてつもない重大事件だ」ということが判断に影響を与えなかったのか、ということです。
裁判員裁判対象事件においても、責任能力が争われた事件は多々あり、心神耗弱、心神喪失という判断が下された例も複数存在しています。ですので、裁判員裁判において、そのような判断が下されにくいということは言えません。
しかし、過去、裁判員裁判において、心神耗弱、心神喪失と判断された事件の中には、今回のこの事件ほど被害者が多数に上る凄惨な事件はなかったように思います。
私は、裁判員の皆さんが「6人も殺したんだから、責任能力がなかった、著しく減退していなかったなんで言えない」などという感情的な判断を下したと言いたいわけではありません。
「そこまで凄惨なことをしなければならないほどに、統合失調症という病気の影響を受けていたのか」と疑問を持ちやすい状況だったのではないかといいたいのです(これは裁判員だけれはなく、裁判官も同じです)。
そういう意味で、裁判員裁判における責任能力判断は、やはり難しいのだなと感じざるを得ません。
裁判員裁判で出た判決を裁判員が参加しない控訴審が覆すことができるということにも批判が集まっているようです。
これも裁判員裁判発足当初から言われていた批判です。
裁判員裁判というのは、一定の重大事件の判断に一般市民の判決を取り入れる、いわば「司法の民主化」を体現する一つの制度であるということができます。
しかし、司法というのは、完全に「民主化」できるわけではありません。
民主的な手続が、常に正しい判断を生むとは限りませんし、常に人権保護に資するというわけでもないからです。
ですので、「民主化」によって、誤りが生じたり、人権がないがしろにされる事態が生じた場合には、それを正す手段が確保されていることが必要です。
控訴審がその役割の一翼を担うということなのでしょう。
今回、東京高等裁判所は、民主的な判断によって誤りが生じたと判断して、死刑判決を破棄し、無期懲役判決を下しました。個人的には、高等裁判所として果たすべき役割を果たしたのではないかと考えています(通常の控訴審だと、けんもほろろな態度ばかりなのが気になりますが)。
この事件で亡くなられた被害者の方のご遺族は、控訴審の判決にはお怒りになられたり、失望されたりしたことと思います。
被害者やご遺族の方にとっては、被告人の責任能力なんぞ知ったことではないでしょう。それ自体は、当たり前のことだと思います。
ですが、「刑事責任」というものを考えた場合、「他者の権利や利益を侵害するようなことをしてしまっても、それがその人にとってどうしようもできない事情によって起こってしまった場合には、責任を問うことはできない」というのは、変えざるポリシーと言わざるを得ません。
今回の控訴審判決のネット上の報道に付されていたコメントの中には、「こんな精神的におかしい危険人物は死刑にして当たり前だ」という意見も散見されました。こういう発想は、差別的なものであるだけでなく、優生思想にも通じるところがあり、実に恐ろしいなと思う次第であります。
最近は、判決の結論だけを取り出していい加減な分析で非難する報道やコメントが増えました。
世論に影響を与える立場にいる人は、せめて判決の中身を概略でもいいから検討して節度あるコメントをしてもらいたいものです。
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