おそらく(ほぼ)誰しもが、このような判決になるであろうと予想し、そのとおりの判決になりました。
そのせいでしょうか。それとも事件からある程度の月日が経ったからだったのでしょうか。
あるいは、コロナウィルス蔓延という事情もあったのかもしれません。
判決の取り上げられ方は、かなり控えめで小さなものだったという印象です。
私は、この事件の弁護活動というものに、事件が起こった直後から関心を持っていました。
この事件、弁護人はどんな弁護活動ができるのだろうか、現実にどんな弁護活動をチョイスするのだろうかということがとても気になっていたのです。
このような凶悪事件において、世間の人々が激烈な嫌悪感を持つのはある意味当たり前のことです。最近は、このような事件の弁護人に対しても、弁護活動をしているというだけで嫌悪感をあらわにする反応が見られます。
刑事弁護を行う弁護士の端くれとして言わせていただくと、このような事件は、弁護士にとって決して儲かる事件でもなければ、名をあげられる事件でもありません。
むしろ、弁護士にとっても心身ともに負担が大きい事件です。
しかし、それでも、弁護人としてチョイスされた人(国選や、弁護士会の刑事弁護委員会からの派遣要員としてお声がかかった人)は、弁護活動を行います。
それは、刑罰という不利益を課す手続において、公平さを保つためには、そのリスクを背負う人をサポートする必要があるからです。
例えば、子どもがいたずらをしたとして、おやつ抜きというペナルティを課される場合でも、その子どもを一方的にせめるだけでは手続がフェアとはいえません。子どもの言い分を聞いたり、その子供をかばってくれる存在が必要です。
刑罰という重い重い不利益を課されるリスクがあるのですから、サポートの必要性は、子どものいたずらの場合よりも当然高まります。
手続の公平を保つために弁護人という存在が必要であり、弁護人についた弁護士は、そのサポートを実践していくのです。一種の使命感の下で刑事弁護を行っているといっても過言ではありません。
今回の事件でも、選ばれた弁護人は、植松被告の裁判をするにあたって、何が最善の方法なのかということを考えていたはずです。
しかし、それは、非常に苦しい問題だったのではないかと容易に想像できます。
なぜなら、今回の事件は、(死刑制度の是非はともかくとして)普通に考えれば死刑以外に選択肢がない事件だったからです。
殺害した人の数は19人。
しかも、殺害したのは重い障害があって抵抗ができない方ばかり。
それを問答無用で次から次へと殺している。
あまりに凄惨で一方的で悲惨な事件でした。
そんななかで、被告人の最悪の不利益を回避するためにできることはごくごく限られていたでしょう。
おまけに、おそらく植松被告と弁護人の意思疎通は円滑に図られていたとはいえない状況でもあったように見受けられます。
何ができるのか。何をすべきなのか。
悩ましかったのではないでしょうか。
死刑事件の弁護活動というと、死刑制度の違憲性を主張するという方法が弁護士としては真っ先に思い浮かびます。
しかし、この事件で、弁護人はその選択をしませんでした。
もし、私がこの事件の弁護人でも同じだったと思います。
なぜなら、ことこの事件に関しては、「死刑は憲法に違反する」という主張は何の説得力も持たないからです。
ごくごく限られた弁護活動の選択肢の中で、弁護人が選んだのは、責任能力を争うという手法でした。
たった一人で障害のある方を19人殺害するという異常な事件です。
当然、裁判の上で責任能力の点は問題になりえるでしょうし、判決を見る限り、2つある精神鑑定いずれにも心神喪失を主張しうる要素があると判断したのだと考えられます。
結果として退けられてしまいましたし、植松被告の賛同は得られなかったようですが、弁護活動の選択としてはこれしかなかっただろうし、適切な活動だったのではないかなと思えます(こんなことを言うのはおこがましいのですが)。
私は、死刑制度には反対です。
ですが、この事件に関しては、死刑の当否について語る気持ちにはなれません。
今回の事件では、刑罰の問題ではなく、裁判や判決の取り上げられ方に疑問を持ちます。
冒頭にも書きましたが、あまりにも取り上げられ方が軽い印象を受けます。
この事件は、風化させてはいけない事件です。
植松被告という人物がどうして出来上がってしまったのか。
どうして、誰も事件が起こるのを止められなかったのか。
このような事件が再び起きる社会的な要因はないのか。
後世に語り継いでいかねばならない事件です。
こんな事件が忘れ去られようとしている、そのことが怖いと感じるのでした。